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サンクチュアリ

 何が間違ってたんだろうと考える。  なにがいけなかったんだろうと考える。  ぼくはどこで間違えたんだろう。どこで間違えてこうなってしまったんだろう。  安住の地はもうない。永遠に失われてしまった。  ぼくのサンクチュアリ。あの人がいた場所。  放課後のぬるい陽射しがさしこむ美術室。  飴色に輝く床の木目にしみた色とりどりの絵の具、こもる独特の匂い。  あのときぼくはたしかに幸せだった。  満ち足りた幸せに包まれていた。  生まれてきてよかったなんて口にすれば陳腐になってしまう。  だけど今生きていることに感謝できるのはぼくが生まれてきたからで、あの人に出会えただけでもぼくの人生には意味があったんじゃないかと、そう思いたい。  ぼくはどこで間違ったんだろうか。  たくさんの人を哀しませて。  不幸にして。  絶望させて。  だけどあの人を好きになったことだけは、間違っていたとは思いたくない。  人を好きになったことを、後悔したくない。  「優しい絵だね」  最初の一言はそれだった。  ぼくは右手に絵筆をにぎり、左手に絵の具を溶いたキャンパスをもち振り返る。傍らに立つ教師が、未完成の絵を覗き込んでいた。  きっかけはささやかなこと。彼と初めて言葉を交わした。  それまで、彼はぼくにとって遠い人だった。  学校内で遠目に見かけることやすれちがうことはあってもそれだけの人、それだけの存在。  彼はけっして目立つほうじゃなかった。  年は四十近い。いつもくたびれた背広を着ている。  容貌も、着てる物に負けず劣らず地味で冴えない。  実直で誠実そうな人柄が伝わってくる平凡な顔立ちには、哀愁を誘う苦笑がよく似合う。  「優しい、ですか?」  手を止め、かすかに訝しげに聞く。  虚を衝かれた。  椅子に座り、教師を仰ぐ。  彼は産休をとった美術部の顧問の代わりにやってきた。言うなれば顧問代理、穴埋め。  そんなふうにして突然自分の興味のない部活を受け持たされたのだから熱が入らなくても当たり前なのに、律儀に毎日やってきては、部員の様子を見守っている。  さぼったりはしない。  すっぽかしたりもしない。  どうかすると部員よりよっぽど真面目だ。   「ヘンかな、この言い方は。でも、素直にそう感じたんだ。とても優しい絵だ」  彼が不器用にフォローする。  はにかむような笑みが枯れた顔に浮かぶ。  自分で言いながら照れてる。面白い人だ。  彼はけっして生徒を馬鹿にしたりしない。  一人の人間として、生徒の個性や意志を尊重する。  絵の評価基準に「優しい」が含まれるなんて、ぼくは知らなかった。  彼の示唆で、啓蒙で、初めてそういう感じ方があるんだと知った。  あるいは評価じゃなく、率直な感想。  彼は上手い下手で絵の価値を測らない。  「優しい絵なんてはじめて言われました。………拙い絵ですけど」  絵を描くのが好きだった。子供の頃から。  絵を描いてる時間は幸せだった。  無心にペンや筆を動かしている時は悩みを忘れられた、色を塗っている時だけ孤独が癒された。  ぼくは地味で目立たない方で、友達も少ない。  クラスのだれかに話しかけられても、咄嗟に気の利いた事が言えない。  内向的な性格。皆で遊ぶより一人で絵を描いてるほうが楽しかった。  「これは、どこの風景?」  彼が聞く。描きかけの絵を見詰める目は柔和で優しげだ。  捨てた故郷を懐かしむ旅人に似ていた。  「……さあ。よく知りません」  「想像で描いてるのか」  「どこかで見たような気はするんだけど思い出せなくて……なにかの写真集か本で見たのかな?妙に気に入って、それで覚えてるんだと思います」  「記憶力がいいね」  褒められ、照れる。  「かなり想像入ってるし、記憶力がいいってわけじゃありませんよ」  照れ隠しに絵の具を溶く作業に集中する。  絵筆の毛先に白と混ぜた青を含ませる。空の色。  ぶっきらぼうな言い方に機嫌を損ねたのではと案じ、ちらりと横目でうかがえば、彼はまだ熱心に絵に見入っていた。  僅かに膝を屈め、中腰の姿勢で。  「座間くん、だっけ」  いきなり名を呼ばれる。  振り返りざま目が合う。  「君は真面目だね。放課後、欠かさず部活にやってくる。他の子たちはさっぱりなのに……小此木先生の代わりにきてびっくりしたよ」  「びっくりしましたか、やっぱり」  「幽霊が多くてね。せっかく広いのにもったいない」  「というか、殆どの場合ぼく一人です。多くて二・三人。地味な部活だし、人気ないんですよ」  美術部は幽霊部員が多い。  真面目に参加してるのは殆どぼくだけだ。  たまに気まぐれに顔を出す二・三人のほかは、殆どぼく一人でキャンバスを占領してる。  実績や勢いのある部活とはお世辞にも言えない。  同好会に毛が生えた程度の規模と人数で、辛うじて存続を許されている。  あんまり人がたくさんいると息苦しいから、ぼくは現状に満足してる。不満はない。  広々とした美術室は快適で、絵の具の匂いも慣れてしまえば心地よい。  彼は少し哀しげな顔をする。ああ、こういいう表情が似合う人だな、と思う。  「そうか。……小此木先生は寂しいだろうね」  「いえ、別に。彼女は……小此木先生も、そんなに身を入れてるわけじゃなかったし。よくわかんないけど、教職員の人事バランスに流されて、むりやり顧問を押し付けられたってかんじかな?来ない日もよくあったし……すっぽかす、って言ったら言葉が悪いけど。ほとんど放任状態でしたよ」  「君は?」  「え?」  「いつもひとりで寂しくないのか」  彼は真剣に、美術部の現状を憂えている。ぼくの孤立を案じている。  顧問の代わり、穴埋め。  小此木先生が元気な赤ちゃんを産んで復帰すれば去っていく一時しのぎの存在なのに、適当にごまかしやりすごすという処世術を是としないのだ。  不器用で誠実な人柄に好感を持つ。  「絵を描く時に寂しいとか寂しくないとか考えません。いつも夢中で……絵を描く時のひとりは、ひとりぼっちと違う。自分で選択した孤独だから、どちらかというと心地いい。誰にも気を遣わずにすむ」   できるだけ平易に噛み砕いて考えを口にする。  伝わるかもと、期待はしてなかった。  ぼくの言葉はあまりに抽象的で漠然としている。  付き合いの短い、今日初めてまともに言葉を交わした彼に、いかにも鈍感そうな中年教師に、ぼくが絵を描きながらひそかに思っている事が伝わるなんて思ってもみなかった。  ところが、彼は静かに頷く。  理解はできないけど共感は可能だとでも言いたげに、否定も肯定もしないが許容は可能だと言いたげに、思慮深く首肯を示す。  「わかる気がする」  「先生もですか?」  「絵を描く時はよそ見をしない。私が見た限り、君はずっと絵と向き合ってる。君の世界には絵と君しかない。ならそれは一対一で、対話だ」  驚いた。ぼくの身のまわりには、彼のようなことを言う大人はいなかったから。偽りの共感じゃない、もっと深い核心から発した言葉。  手近な椅子をもってきて腰掛け、親しみの湧く口調で問う。  「ずっと絵を描いてるのかい?」  「小学校の頃からです」  「風景画ばかり?人は描かないのか」  「人は難しくて。……あの、人の顔って、ちゃんと見るの怖くないですか」  「怖い?」  「顔を見ればその人がどんな人間かわかるって言うでしょう。だから怖い。たとえば、ピカソの自画像とか……ゴッホの耳のない自画像とかもですけど、自分を描いた作品なのに、内面の狂気が抉り出されて圧倒される。自分でさえそうなんだから、客観的な視点で長時間モデルと向き合って、その人を紙に描き写したとしたら……」  「『絵は本性を暴く』か」  面白そうに口元を緩める。  青臭い理論をぶって、気恥ずかしくなって俯く。   「……その。今の、実は言い訳で。ホントはぼく、人が苦手なんです」  「だろうと思った」  「からかってます?」   険悪な目で睨む。彼はのらりくらりとぼける。  眠りの成分を溶かし込んだように穏やかな時間が流れる。  白茶けた陽射しは傾いて床を洗う。埃が舞う。  しばらく、ぼくが筆を動かす音だけが響く。  学ランの前に羽織ったエプロンに絵の具が斑模様を作る。  毛先に染ませた青で空を刷きながら、落ち着かない気持ちをもてあまし、傍らに座る男を目の端でさぐる。  彼は眠たげな顔でキャンバスの上を行ったりきたりするぼくの手を見守っていたが、ふいに口を開く。  「座間くんは青が好きなのか」  「はい。キレイだから」  「無垢は白、情熱の赤、憂鬱の青……か」  連想ゲームのように口ずさみ、空が占める割合が多いぼくの絵をじっくり見詰め、するりと自然に口にする。  「なにか悩みでもあるのかね」  答えを期待してないような軽さで放たれた台詞に、なめらかに絵筆を滑らせていた手が微動する。  「心理学ですか?青を好んで使う人間は精神的に落ち込んだ状態にあるって言いますよね」   「気に障ったんなら謝る。余計なことを言った。ただ、君の絵を見てて……ちょっと気になったんだよ」  たしかにぼくは色を塗る際青を多く使う。  細部をあまり書き込まない代わりに、空や海が占める割合が多い。  自覚はしていた。  テクニックの拙さを空間と色に頼ってごまかしてると批判されたら反論できない。  でも、素人心理学で内面を分析されたくない。  やや緊張して押し黙れば、彼はいとおしげに描きかけの絵を眺め、凪いだ表情で呟く。  「ゴッホの絵で一番有名なのはひまわりだが、私は晩年の絵のほうが好きだ」  そばの本棚から一枚画集を引き抜いて持ってくる。  ゴッホの画集。  「ゴッホは不遇の画家だった。生きている間は才能を認められず、志を同じくした友達とも喧嘩別れし、晩年は狂気に苛まれ孤独に死んでいった。ゴッホの名声は死後に得たものだ。……はたして彼は幸せだったのかな」   「……ひとの人生を定義付けるのは好きじゃないけど。不幸だったと、おもいますよ」  思ったままを言う。  死後に勝ち得た名声なんて無意味で無価値だ。  ぼくだったら、なんで生きてる間の努力と苦悩に報いてくれなかったのかと世を呪う。  彼も想いは同じだったようで静かに頷く。  目に宿るのは感傷の光。  会った事もない孤高の画家に対し、素朴な親近感を抱いてるような。  「この絵を見てごらん」  彼は椅子に腰掛け、画集のページをめくる。紙が触れ合う音が空気をかきまぜる。  開いたページを無言でこちらに向ける。  画集をのぞきこみ、息を呑む。  「『ローヌ河の星月夜』だ」  ひきこまれるような絵だった。  たゆたう川面に映る街明かり。  手前の散歩道を腕を組んで歩く淑女と紳士の恋人同士。  空に瞬く星星。  夜の帳が落ちた川辺を照らす地上の街明かりと天の星は、黒と青のはざまの闇を親しみやすく見せる。  「……いい絵ですね」  感動という言葉は、安っぽいから使いたくない。  だからその一言に、こみ上げる感情を凝縮する。  「ああ。いい絵だ。夜を描いてるのに、けっして暗くない。闇を描いてるのに、暗いだけで終わりはしない」  「心を病んでいても、彼にはきれいなものがちゃんときれいに見えてたんですね」  「きれいはきたない、きたないはきれい。自分が不幸だからと、世界まで道連れに貶めたりはしない。美しいものを美しいものとして、ちゃんと写し取る腕と心が彼にはあった」  人の心を幸福で満たしていくような絵が、世の中には存在する。  絵筆をおき、おそるおそる身を乗り出し、画集に収録された「ローヌ河の星月夜」に触れる。  なでる。  「……ゴッホは不幸せだったかもしれないけど、人を幸せにする絵を描いた」  「その幸せが自分に還元されなくても描き続けた、描かずにはいられなかった。宿命のように。贖いのように。画家というのは絶望を糧に希望を生む生き物なのかもしれない」  はるか昔に逝った画家への崇敬の念が、寄せては返す波のようにひたひたと胸に満ちる。  彼の言葉をじっくりと噛み締める。  彼は、慈しむような手付きでページをなでる。  真心のこもる指先。  「造詣の深くない私が絵を語るのはおこがましいけどね。……座間くんの絵は、少しこれに似ている」  「これにですか?」  驚く。声が、わずかに上擦る。  気恥ずかしさで顔が染まるのがわかる。  「青を多く使ったら普通冷たく見えるはずなのにあたたかい。なぜかやさしい。………好きな絵だ」  ぼくの描いた絵を好きだと言ってくれた人は、初めてだった。  上手いと言われた事はある。  先生に、両親に、友達に。  だけど、本当はそうじゃない。ぼくはただ、「好きだ」と言ってほしかった。  技術の巧拙を褒められるよりも、ぼくの手と心が生み出したものを好んでほしかった。  「座間くんはきっと、心が優しいんだね」  何故だろう、顔が熱い。絵筆を握る手が火照りを帯びる。  誰かに面と向かって優しいといわれた経験がないからだろうか。  放課後の美術室にふたりきり。  窓からさす陽射しが透明な羽毛のように床を刷く。  空気はぬるく、安らかにまどろむ。  教師と一対一で接する経験も、そういえばあまりない。  教壇の前に立ってないと、この人は普通のおじさんに見える。  皺くちゃの背広を着た、地味で冴えない中年男。  だけどぼくは、気付く。  彼の声は、ひどく心地いい。  低く落ち着いていて、鼓膜にしみこむ。ずっと聞いていたくなるような声だ。  「ぼくはただ、絵を描くのが好きなだけです。優しいとか……関係ないです」  「タイトルは決まってるの?」  「決めてません。絵にタイトルってつけないんです」  彼が不思議そうな顔をする。ほら、やっぱり、不審がられた。後悔しつつ、目を伏せがちに続ける。  「タイトル考えるの、むかしから苦手で。そういうの、絵を見た人が自由につけてくれればいいなって思ってたから……人任せだけど」  だから、ぼくの描く絵はすべて無題だ。  描き上げてタイトルを付けるまでが仕事だというひともいるが、ぼくは趣味で描いてるのだから、とやかく言われたくない。  「サンクチュアリ」  「え?」  「っていうのはどうだい」  サンクチュアリ。聖域。  彼は熱心に、描き途中の絵を見詰める。  キャンバスに乗せた画布には、青空と山並みを描いた絵。  手前には蛇行する川が流れている。  どこか遠い外国の景色のようにも見える絵。  「……気どりすぎじゃないですか?」  「そ、そうかな。やっぱりネーミングセンスがないかな、私は」  「聖域なんて……ただの山と川と空なのに」  「オーバーかな?」  「だって、サンクチュアリって。先生、なんか古いよ」  「しかたないだろう、年なんだから。ださいのは勘弁しなさい」  過ぎた名前だ。頬にさした赤みを悟られないよう俯く。  彼も照れて頭をかく。  空気が和み、どちらからともなく吹き出す。  いつのまにか敬語が砕けていた。  しばらく笑ってから、彼はふいに真顔になる。  「絵を見た人が自由につけて構わないんだろう。なら、これは私のサンクチュアリだ。どこかにあるかもしれない、どこにもない、美しい国だ」  彼は。  先生は、孤独なのかもしれない。  ひょっとしたらぼくよりずっと、孤独な人なのかもしれない。  ぼくの絵はただの絵で、それ以上でも以下でもない。少なくとも主観的にはゴッホのような才気など感じられない、平凡な絵。  だけど。  彼はこの絵が好きだと言ってくれた。  サンクチュアリと呼んでくれた。  憧憬のまなざしを注ぎ、慈しむように指を触れる。  サンクチュアリと名付けた絵に触れる手はどこまでも優しくて、眩げに細めた目は郷愁の光をやどし。  この人は、ぼくとおなじだ。  いつもどこかに帰りたがっている。  帰る場所なんかどこにもないのを承知で、自分を迎え入れてくれる懐かしい、安心できる故郷をさがしている。  画布の下あたりをくりかえしなぞる、追憶の指先が目を奪う。  ぼくはこの人のことをよく知らない。古典の先生だということ、四十近くて今だ独身だということ、授業が退屈で評判だという事くらいしか知らない。  もっと知りたい。  彼が帰りたがってる場所は、ひょっとしたらぼくと同じかもしれないという漠然とした予感を抱く。  あるいは願望。あるいは希望。  ぼくとおなじ場所を捜し求める彼のことをもっと知りたい、近付きたい。  どこにもない場所。  どこかにあるサンクチュアリ。  「敷島先生」  緊張に渇く喉を唾で湿し、そっと名前を呼ぶ。僅かに震える声。  ゆっくり振り向いた彼をまっすぐ見詰め、ぼくと同じ、けっして帰り着けない場所への郷愁と憧憬を抱く男へと告白する。  「ぼくの話、聞いてくれますか」  それがすべての始まりだった。  ぼくがサンクチュアリを得て、失うまでの話。

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