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モヒートの夜
今日の仕事は疲れた。
「いらっしゃい」
軽快に鳴るベルが来店を告げる。
飴色に磨き抜かれたカウンターの向こうから、黒いベストをきちんと着こなした中年のマスターが会釈を送ってくる。
グラスをフキンで拭いて片付け、あるいは客の注文に応じカクテルを作り、忙しく立ち働くマスターに会釈を返して指定席のスツールに掛ける。
コートを脱いで隣のスツールに置き、早速注文する。
「モヒートを一杯」
「かしこまりました。砂糖控えめのレシピですよね」
「ああ」
マスターが礼儀正しく承り、タンブラーにミントの葉とライム数滴に砂糖を加える。それをバースプーンで潰し、ラムとソーダ水を注いで攪拌。甘いの苦手な場合は砂糖の量を調節するが、ライムと砂糖は多めに入れたほうが全体に厚みがでる。
もう何回も見てるので手順はすっかり覚えてしまったが、なめらかにシェイクする手付きに感心する。アーネスト・ヘミングウェイが愛したカクテルともいわれ、俺も味が気に入ってる。
「どうぞ」
「ありがとう」
マスターができあがったモヒートをグラスに注ぎ、最後の一滴を切る。カウンターに滑らされたグラスを掴んで一口煽り、柑橘系のキレのある味を楽しむ。
この店で最初に頼むのは大抵の場合モヒートと決まってる。それにはわけがある。このバーでモヒートを頼むのには、特別な意味があるのだ。
見た目は透明なカクテルで、氷が涼やかな印象を醸し出す。アクセントとしてグラスに添えられたミントの葉が、鮮烈な色と爽快感を付与する。
客層と用途のせいか、このバーは少し敷居が高い。都心の繁華街、瀟洒なビルの半地下にひっそり佇むが、妙な客が出入りしないのは安心だ。
しばらくモヒートの喉越しと味を楽しんでると、隣のスツールが軋む。
「ここいい?」
「ああ」
「モヒートは好きかい」
「まあね」
カクテルから目を上げて相手を見る。年齢は二十代後半、俺と同年代。職業は……おそらくは外資系の会社員。
仕立ての良いコートとスーツを羽織り、営業でもさぞやり手だろうと思わせるソツのない笑顔を浮かべている。
「どんなカクテルが好きなの」
「モヒートとキール。そっちは」
「ブラッディマリーかな、真っ赤に澄んでキレイだろ。味は少し甘すぎだけど」
「見た目から入るタイプか」
「だから君に声をかけた」
皮肉に上手く切り返す。
顔は並だが、清潔感ある風貌と柔軟な物腰に好感を抱く。この好感は恋愛感情や人間関係とは切り離れたモノで、一夜をともにしてもいいかどうかの線引きだけが重視される。
間接照明が優雅に照らすクラシカルなバーにて、グラスを揺らし質問する。
「仕事帰り?」
「まあね。何の会社かあててみてよ」
「外資系か」
「あたり。すごい観察力だね」
「必要以上に謙遜せず堂々とアピールできる、想定外のことにも動じない、キャリアは自分で作るって考えを持ってる」
「何それ」
「ネットニュースで読んだ外資系で働く人間の特徴。はまってるよな」
男が愉快そうに笑いだす。ホワイトニングをしてるのだろうか、真っ白い歯が零れる。
「ほかにも短いスパンでどんどん会社を移りステップアップしてくとか、職場の人間とビジネスライクな関係を築けるとか色々あるらしいぜ」
「ビジネスライクといえばある意味そうだけど職場に限らない」
男が含み笑いで仄めかす、この手の駆け引きは慣れてるらしい。そっちのほうが面倒なくて助かる、後腐れるのは俺もお断りだ。
「マスター、彼と同じ物を」
「かしこまりました」
「君も仕事帰りかな」
「そんなとこ」
詮索されるのは好きじゃない。仕事の性質上守秘義務もある。
「仕事は……待って、当ててみせる。理系の教師とか」
「そんなお固く見えるか」
「じゃあ大学院生?」
「研究職って言えないこともねーけど」
「わかった、医者だ」
「消毒液の匂い付いてるか?」
グラスのへりを掴んで笑えば、男が朗らかに否定する。
「いや、完全に勘と見た目の印象だよ。キレる外科医って感じがする、さぞ女性患者にモテるだろうね」
「医者ってのは正解だけど、専門が間違ってる」
グラスの中身を退屈げに波立たせ、もったいぶって謎かけすれば、男が乗り気で次々候補を挙げる。
「小児科かな」
「子供はうるさくて苦手」
「内科」
「レントゲン撮んの面白そうだな」
「じゃあ歯医者?」
「人の口ん中に器具突っ込んでかきまわすのは趣味じゃない」
「眼科もちがうとすると……降参、全然わからない」
クラシカルな三枚羽の扇風機が回る天井を仰ぎ、お手上げポーズで嘆く男に意地悪い流し目を投げてよこす。
「生きてる人間が相手じゃない」
「え?」
「監察医」
あっさりネタばらしをすれば男が絶句する。死人を解剖してるんだ、引かれても無理はない。これで打ち切りになっても別段惜しくねえ、ちがうのをひっかけりゃいいだけだ。何事も相性とタイミングがある。
ところが、俺の予想を裏切って男は好奇心もあらわに乗り出す。
「監察医ってあれかい、事件性のある遺体を解剖して調べる……ミステリードラマで見たよ、すごい!医者の中でもレアじゃないか」
「正確には事件性の有無を調べるために解剖するんだけどな」
監察医とは警察や司法機関と連携し、あらゆる変死死体を調べる特殊な職業。
都から検屍を依頼される遺体は、事故や事件以外に自殺も含まれる。
監察医になって数年経過するが、これまで手がけた案件は百を下らない。なかなかハードな仕事だ。
「どうして監察医に?あんまり詳しくないけど数少ないんだろ、地方じゃ制度自体機能してないところもあるし」
「昔からミステリー小説が好きで、監察医の仕事に単純に興味があった。フィクションと現実は違うけど」
「刑事や探偵じゃなくて監察医に憧れるって、ひねくれてるね」
「そうか?警察や探偵は外側の状況だけで推理を組み立てるけど、監察医は中を暴いて、専門知識を通した真実をすくいあげるんだ。一番クレバーでスリリングに見えたね」
「気持ちはわからなくもないよ、フィクションの監察医ってカッコイイものな。君、白衣が似合いそうだし」
本音をまじえて述べれば、男が納得したようなしてないような顔で引き下がる。
監察医になった動機を聞かれるが、初対面の人間に話す義務はないと曖昧にはぐらかす。
それから二時間ほど世間話をする。
男は饒舌で話も面白かった。
外資系の苦労話やクライアントのエピソードを披露するのに合わせ、アルコールで口をなめらかにし、職業倫理に抵触しない程度にぼかしたこぼれ話をする。
「監察医ってグロい死体も担当するんだろ?こんな死体はご遠慮したいとか、本音聞かせてよ」
オフレコにするからとふざけて頼まれ、脳裏を過ぎったのは干からびた死体。
「孤独死。虐待死。暴行死」
「え?」
「胃の中に薬が溶け残ってた」
薬だけしかなかった。
今日担当したのは60代の女性の変死体だ。都内のアパートの部屋で、死後数日経過した状態で管理人に発見された。死因は脳卒中だが、胃を切開したところ食事の形跡はなく、持病の薬のカプセルだけが形くずれして残留していた。
警察の話によると、長年生活保護を受けていたらしい。通常食後に飲むはずの薬を胃がからっぽの状態で服用したのは、日々の食事に事欠くほど追い詰められていたからだ。
俺が今日ここに来たのは、少し気が滅入っていたから。
「このあとあいてる?」
酔いが回った男がすりよってくる。俺がもらした孤独死の女性の話は頭から抜け落ちてるのか。
それならそれで都合がいい。余計なことを考えずにすむ、いやなことを束の間忘れられる。
監察医になったのは譲れない目的のためだが、四六時中情熱を持ってはいられない。なにもかも憂鬱な夜は息抜きもしたくなる。
「ちょっといいか。すぐもどる」
ほろ酔い加減の男に断って席を立ち、一旦店をでる。厚い木製のドアにもたれ、コートから出したスマホで同居人にメール送信。
『悪い。今日は遅れる』
すぐに返信がきた。俺の帰りを待っていたのか……原稿中もスマホをデスクにほったらかしとくのは先生の悪い癖だ。
『了解。夕飯はラップしとく。お疲れ、センセイ』
秋山は優しい。
優しいからこそ言えないことがある。
アイツは人の痛みにどっぷり感情移入しちまうから、時にそれが重たく感じる。
『根詰めすぎんなよ』とメールで返し、唇に細い煙草を咥える。
「…………ふー」
店の中は禁煙だ。仕方なくドアによりかかってメンソール煙草をふかす。
アイツはいいヤツだ、俺にはもったいないほどに。
だから。
孤独死や虐待死・暴行死で、顔の見分けが付かないとか、全身痣や火傷だらけになった死体の話をして哀しい顔をさせるのはいやだ。
アイツは優しいからきっと全力で俺をなぐさめてくれる、俺の話を真剣に聞いて受け止めてくれる。
俺にはその優しさがもどかしい、たまった憂さを晴らす為だけのセックスにアイツを利用したくない。
アイツは鈍感なくせに俺がへこんでるとすぐ気付くから、このまま帰ったらどうしたなにがあったとうるさく纏わり付かれ、質問責めにあうに決まってる。
だから俺は、一夜の捌け口になってくれるパートナーをさがす。
秋山の前でボロをださないよう、ちゃんとした麻生譲に戻るために、憂さを晴らせる共犯者をさがす。
お互い納得ずく計算ずくで、身体だけの割り切った関係を結べる相手をバーであさる。
バーでモヒートを注文し暇そうにしてれば、大抵むこうから声をかけてくる。男か女かはその日の気分で決めた。たまには俺から誘うこともあった。
なにからなにまで秋山に甘えられない。一日の澱は夜のうちに流しとくに限る。
そして俺は普段通り部屋へ帰る。
コートの皺を伸ばして、相手の残り香をシャワーで落として、麻生譲の外面を完璧に取り繕ってアイツがいる部屋へ帰っていく。
そうすりゃ「おせーよ何時だと思ってんだ」と日付が変わっても寝ずに俺を待ち、頼んでもねえのに恩を着せてくる同居人を、心おきなくうざったがることができる。
俺はもっと鈍感で図太い人間だと思っていた。
思い上がりにすぎなかったと、監察医になってからいやってほど思い知らされた。
「……行くか」
俺は今日、男と寝る。
知り合ったばかりの男と適当なホテルへ行って、倒錯したセックスに耽る予定だ。
秋山はいいヤツだから、どうしようもなく優しいヤツだから、俺が望めばアブノーマルなセックスに付き合ってくれるかもしれない。俺はそれを望まない、秋山に普通からの逸脱はもとめない。
俺が浮気性なのは、ノーマルなセックスじゃ物足りないと体が知ってるから。
ドアの取っ手をひねって店内へもどりながら反芻する。
モヒートのカクテル言葉は「心の渇きを癒して」。セックスと自傷の区別が付かない、今の気分にぴったりだ。
「お待たせ」
「メール?彼氏か彼女?」
「友達だよ」
嘘じゃない嘘を吐き、スツールに身を滑りこませると同時に男の手が太ももにおかれる。
「近くにいい部屋がある」
「楽しみだ」
グラスに残ったカクテルを一気に干し、なれなれしく太ももをさする手に手を重ねる。
心の中に秋山の能天気な笑顔が浮かぶが、瞼を閉じて罪悪感と未練を断ち切る。
ごめんと謝るのは欺瞞だ。これは俺が望んでしたことで、不誠実となじられたら何も言い訳できない。
それでも俺は、秋山に笑っていてほしい。
どこまでも真面目で心優しいアイツを、俺の抱えた問題に巻き込みたくない。
高校時代、アイツは俺の為に走ってくれた。
大晦日の夜の校舎を、俺をこっち側に引きもどしたい一心でひたむきに駆けずりまわってくれた。
それだけで十分だ。もうじゅうぶん報われている。
エゴだって自覚はある。快楽が欲しいだけなら別の相手をさがす。心と身体がそろって繋がれるのは秋山だけで、その秋山を哀しませたくなくて、本当のことを話せずにいる。
末期だな、俺。
男の手が腰へと移り、ズボンの上から股間を狙ってくる。カウンターの死角に入るから他の客やマスターには見えないが、随分大胆なまねをする。
もういちど目を閉じて秋山のことを考える。
「会計お願いします」
「ありがとうございます、またお越しください」
深々と一礼するマスターに送り出され、男を伴ってドアへ赴く。
カウンターに並んだグラスは両方ともからで、角がまどやかになった氷がセピアがかった照明に輝く。
モヒートは無色透明だがアルコール度数が高く、一旦火が付くとなかなか火照りがおさまらない。
少しだけ、俺と似てるかもしれない。
「上の空で考えごと?さっきから反応薄いね」
「口数の少なさは大目に見てくれ、これからアンタとすること考えてドキドキしてたんだ」
半地下の踊り場に出るなり不安を漏らす男に微笑み、顎を掴んで唇を重ねる。
「っふ、ぁ」
メンソールとミントが薫るキスが、本命を蔑ろにして情事に溺れるずるさとうしろめたさを多少なりともごまかしてくれる。
これはそんなモヒートの夜の話。
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