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第7話

 俺は今、一生分の不幸を前借りしてる。  「僕だけ生殺しなんて不公平です」   二十五年生きてきた中で間違いなく最悪の晩だ。  一体俺が何をした。  小市民的に真面目に生きてきたのに。  税金だってちゃんと払ってんのに不公平だ不条理だ、くそ、もう払わねえ。  「射精手伝ってあげたんだから、ちゃんと最後まで付き合ってくださいよ」  「もう気が済んだろっ、終わりにしろよ!」  辟易して怒鳴る。  「こんだけやりゃ十分だろ、いい加減にしろよ、お前の茶番に付き合うのはうんざりだよ!残業だって終わってない、提出期限は明日に迫ってる、刻一刻とタイムリミットが近付いてるってのにこんな事してる場合かよ!?もういいだろ十分だろ、俺に薬飲ませて縛って前も後ろもいじくり倒してスッとしたろ、情けないかっこ写メして溜飲さげたろ?満足だろ、満足したって言えよ、これだけさんざんやっといてまだ物足りないとかふざけたことぬかすなよ!?」  もう十分だ本当に。  いい加減うんざりだ。  叫び疲れた喉は枯れた。手首と声帯を痛めた。  理不尽な仕打ちに対し猛烈な怒りが湧く。  自慢じゃないが、他人に薬をのまされるのも、縛って転がされるのも初体験だ。しかも、会社で。毎日当たり前に出社してパソコンと向き合う日常空間でこんな目に遭おうとは夢にも思わなかった。  なんだってこんな目に?報われない。報われなさすぎ。  これでも真面目にやってきたつもりだ。  結婚前提で付き合ってた女に捨てられ上司に煙たがられ同僚に疎まれ後輩に怖がられても、仮病も使わず出勤して、自分の仕事はきっちりやってた。  当たり前だ、それが社会人だ。  俺はデキる男を自認するが、デキた人間とはこれっぽっちも思わない。  気に食わないヤツは無視するし、さがしてるホッチキスを見つかりにくい端っこにちょっと移動させるとか、笑って許せ……はしないだろうが、苦笑で流せるレベルのいやがらせの前科もある。  だが。  回り回ったそのツケで、後輩に強姦されるとは、予測不能だ。割に合わねえ。  「リーマン失格だな、お前。私情と仕事をごっちゃにするなんて」  何度も反芻した疑問が膨れ上がって怒りを誘発する。  俺のシャツを脱がす手をとめ、千里が怪訝な顔をする。  「俺が嫌いなら、正直に嫌いって言え。こんなまわりくどい手使って……脅迫材料掴んで……やりかたがえげつねえ」  「よく言われます」  おどけて首をすくめる。ふざけた笑みが癇に障る。  千里は人の神経を逆なでする天才だ。とくに俺をむかつかせることにかけちゃ世界一だ。  「ゲス野郎。死んじまえ」  千里が不思議そうに首を傾げる。  不覚にも、可愛らしいと思ってしまうしぐさだった。本性知らなけりゃの話だ。  手は縛られて、体は組み敷かれて、それでも口は自由に動く。舌は意志どおりに動く。  体の器官全部が支配下におかれたわけじゃねえ。  抵抗の気力は尽きず、反抗の意志は固い。  厄介な性分だと自分に呆れるが不利な状況になればなるほど鍛え抜いた毒舌でやりこめたくなる。  服従は犬の性分で、俺の性分じゃねえ。   「嫌いだった。目障りだった。お前のへらへらしたつらがちらつくと無性にむかついた。課の人気者千里万里、だれにでも愛想がよくて優しくてドジもご愛嬌な新入社員。ちょっとしたミスなら大目に見てもらえる。かなりのミスも許される。地雷を踏んでも足取り軽くて気付かない。尻拭いする方の身になってみろ。世渡り上手なお前はいいよ、みんなに大目に見てもらえるんだから。けどな、お前が失敗やらかす影で、フォローに回ってる人間がいること忘れるな。お前のミスの穴埋めで、てんてこまいしてる人間がいること、忘れるなよ」  言葉にして、初めて気付く。  俺が千里を嫌いな理由。容認できない理由。  ひとつひとつの失敗はささいなことかもしれない。しかし、それが累積すれば確実に影響が出る。歪みが生じる。それは小さな歪みだが、その歪みを修正するため必死に働いてる人間がいることを、こいつはわかってない。もしくは、軽んじてる。へらへら笑って調子よく切り抜けて「しかたないなあ」「千里くん新人だもんね」「無理ないよ」「次から気を付ければいいさ」とまわりに許されて。その影で、千里がトチった分の穴埋めをしてる誰かがいる。そして大抵、その誰かは、顔が見えない。見えないからこそ軽んじられる悪循環だ。  その誰かは、大抵、要領が悪いお人よしだ。千里と正反対のヤツだ。  千里がかすかに心配そうに顔を曇らせる。  「………シュレッダーにかけたこと、怒ってるんですか」  俺を縛って色々なさった本人らしくもない、殊勝な声と態度。謙虚と形容してもいい。  一人前にしょげた様子が癪に障る。なにしても俺の癪に障る。  存在するだけでこうも俺を苛立たせるなんてある意味すごい才能。    腹の底で脱皮した蛇のように悪意の塊がもたげる。  「先輩が何言いたいかわかりません」  「お前の甘ったれ根性に怒ってるんだよ」  千里の発言を反芻する。  俺の関心を引きたいがため、ただそれだけの理由で故意に失敗を重ねたと白状した時の、さっぱりした顔を思い出す。   あの時の千里からは、反省も後悔も、罪悪感さえ一片も感じられなかった。  「くだらないよ千里。いっそ笑える。俺の関心を引きたくて、わざと失敗した?まわりに引かれない程度のささやかなミスを連発した?馬鹿か、お前。まわりに迷惑かからねえ失敗なんかねえよ。もしそんなもんがあると思ってんなら、小学校から出直してこい。小学校で消しゴムなくしたとき、どうした。隣の子に貸してもらったろ。教科書忘れたときは?隣のヤツに見せてもらったな。その間、隣のヤツは授業に身が入らず迷惑したろ。給食の配分間違えたら食えないヤツが出る」  なんでこんな当たり前のことを、くどくどいちから説明しなきゃならねえんだ。  千里はガキだ。思ったより、全然ガキだ。  俺もそう変わらないが、自分の失敗が必ずしも自分限定の責任にならない現実を知ってるぶん、ちょっとはマシだ。  千里の瞳が困惑を映して揺れる。  俺のシャツを剥ぐ手がお留守になる。  「お前、自分の失敗が利息もつかず自分だけに返ってくるって思ってんのか?」  まさか。そんなはずがない。世の中ギブアンドテイクじゃなくよくも悪くもハイリスクハイリターンで成り立ってるのだ。千里が放免された裏で貧乏くじ引いた人間がいる。憎めない千里の尻拭いで、帰宅の時間が十分だか三十分だか一時間だか遅れた同僚がいる。上司がいる。  俺は、それが嫌だ。  見落としがちな事実を案の定ないがしろにして、俺の関心を引きたかったからわざとミスしたとかほざく千里の鈍感さが、大嫌いだ。  「お前からすりゃ見えないとこであくせく働いてる人間はいないも同然なんだろうが、違う、ちゃんといるんだよ。お前がミスした分取り返そうとして、知らないところで頑張ってる人間が」  顔が見えないからって、存在まで消されるのか?  ちがう。そんわけない。そんな話あるか。目の届く範囲で頑張ってる人間の働きぶりだけが評価され、外側にいる奴らが無視される仕組みは間違ってる。  俺は断じて認めない。  青臭い考えかもしれないが、こればっかりは譲れない。譲ったら俺じゃなくなる。  千里が渋面を作る。  「………わかんないですよ、全然」  拗ねたように呟く。その声はどこか心細げだ。難しい計算がとけない子供のようだった。  「ダメだなお前は。社会人失格。会社やめちまえ。今はよくても、二・三年先がしんどいぜ」  笑って許される時期がすぎたら、苦労するのはこいつだ。  「…………あわれむような顔、やめてください。すごい馬鹿になった気がする」  千里の顔が歪む。  俺は皮肉っぽく笑う。  「馬鹿だろ。お前」  「気を引きたくてミスしたのが?」  「馬鹿は反省しないからな」  俺が今どういう顔してるかなんてわからない。  ただ。  千里が絶句するぐらいには、アレな顔をしてるんだろう。  とんでもない馬鹿を見るような、同情と軽蔑の顔つき。  縛られて床に転がった俺に、千里が気圧されている。  俺の言葉に心揺らされ、唇を噛む。  こいつのこういう顔を見るのは初めてだ。  俺が記憶する限り、千里はいつも笑っていた。にこやかな笑みを絶やさぬムードメイカーとして課の連中に可愛がられてきた。その千里が今、真剣に悩んでいる。言葉に窮し、押し黙っている。  童顔に不似合いな葛藤が浮かぶ。  口を開き、また閉じ、もどかしげに俺を見詰める。  思い詰めた目から、言葉足らずで大事な事を伝えられない歯痒さが伝わってくる。  「……だって。こうでもしなきゃ、先輩」  無言で俺を詰る。  「………僕を見てくれない」  またか。  辟易する。  「目障りなんだよ、気色悪ぃ笑い。お前のツラ見るたび胸糞悪いの定義を味わってるんだこっちは。人に迷惑かけといてへらへら笑える神経が理解できねえ。無邪気のふりした無神経ほどたち悪いもんないって知ってるか?お前のことだよ、千里。笑ってりゃなんでも許されると思ってる。世の中そう甘くねえっつのに、露骨に嫌ってる俺の前でもへらへら笑いをひっこめねえ。喧嘩売ってんのか?かりかりする俺を腹ン中で笑うのは気分いいか。俺、言ったよな。初めの頃に、人が物教えてるときにへらへらすんなって。真剣に聞けって。顔の筋肉動かしてる暇あったら耳と手動かせって」  「覚えてます」  「覚えてるなら……」  説教を遮り、唐突に動く。  強制脱衣再開。  「-ッ、今動かさなくていいんだよ!!」  キレた。  人が真面目に説教してる時に。  自己中な千里にいきりたち、鳩尾めがけ蹴りこもうとして、足ごと押さえ込まれる。  千里の全体重が乗っかって、足の骨が軋む。  「悪意には悪意を倍返しするのが礼儀です」  「痛っで……どけ、折れる!!」  「ちょっとのったくらいで折れるほどヤワじゃないでしょ」  完璧馬鹿にした口調に沸騰する。野郎、しおらしい態度は演技か?また騙されたのか、俺は。  後ろ手縛られたまま千里をどかそうと身をよじり暴れる。ネクタイの拘束感が強まる。両手を一本に束縛したネクタイはなかなか強靭で、繊維の耐性は侮れない。安物のくせに丈夫だ。  「暴れても痛みが長引くだけで不毛ですよ。あ、不毛とホモって似てますね」  「似てるけどお前が言うなよ!?」  思考パターンが読めない。千里の相手は疲れる。  完全に調子を狂わされ、負け犬の遠吠え的に無能をさらけだし喚き散らす俺の胸ぐら掴み強引に立たせ、机の方にひきずっていく。  身をひねった拍子に椅子に衝突、騒音を伴い倒れこむ。  激突した机から書類が滑落、騒々しく床に散乱。  強盗にでも遭ったかのようなオフィスの惨状を見たら警備員が卒倒しかねない。  だが今の俺に警備員を心配する余裕はない、強盗に刃物突き付けられるより酷い目に遭おうとしてるのだ。少なくとも俺の中じゃ強盗に刃物で脅されたほうが百万倍マシだ、今からされる事は確実に一生のトラウマになる……予感がする。  けたたましく警報が鳴り響く。  頭の中で。   「待て千里、紙踏んでる、なんかそれ重要っぽい判子がちらっと!」  「書類より僕を見てください」  千里の靴に踏まれ資料がぐしゃりと潰れる。ああヒサン。  靴跡の付いた資料から正面に顔を戻せば、千里が鼻先にいた。  この体勢は、非常にやばい。  背中に机があたる。千里と膝がぶつかりあう。右向き左向き血走った目で逃げ道を模索する。ない、見当たらない、八方塞り。唯一の出入り口はドアだけ、しかし三十歩の距離がある。  ぎりぎりまで引き絞った緊張が弾け、恐慌を来たす。  靴の下でぐしゃぐしゃになった資料のたてる紙擦れの音に足元から炙られ、背中に食い込む机の固さに腰が引ける。   「タマの汁抜きなら他あたれ、突っ込まれたら痛すぎて死ぬ!」  「往生際悪いです」  千里が押し被さってくる。  咄嗟に顔を背ける。  首筋に、火が点く。   「っあ」  むきだしの首筋を熱い唇が這う。  指とは違う粘膜の感触に、肌が粟立つ。  「やめろ!!」  肩を揺すって拒絶するも、千里は構わず、俺の首元に手を添えてキスを施す。  首筋を唇がすべっていく。  むきだしの肩に手が移る。  鎖骨の窪みに指が触れる。  過敏に仕上げられた皮膚が、唾液の筋ひくキスに疼いて火照る。  千里の唇が触れた部位から性感帯に造り替えられていく。  「……っ…………ん、なとこ、口つけるな……」  千里の唇は少し乾いていた。  そのかさつきさえ刺激となり、やすりをかけるような性感を燻り出す。   「こういうとこ、自分でキスできないから、実際されてみないと感じるってわからないでしょ」  ひりつく唇で煽りながら、千里が呟く。   「素朴な疑問なんですけど、駿河さんと別れてから、自分で慰めてたんですか。風俗にも行かず?それじゃ溜まるはずだ。苦しいですよね。自慰にも身が入らない。自慰するごと思い出すのは別れた彼女のよがり顔なんて救われない。射精してから死にたくなる」  図星だ。  最近慎んでたのは、条件反射で安子の顔が思い浮かぶからだ。  もういない女が俺に組み敷かれてどう喘いだかどんな痴態を演じたかしこしこおかずにしては、事後、自己嫌悪で死にたくなる。  ふられた女の残像が、今もって俺を苛み続ける。  「未練がましいって、笑えよ。ふられた女にぐだぐだこだわって、みみっちい男だってさ」  胸をなめまわす千里から顔を背け、露悪的な笑みをむき出す。  「課の連中が陰口叩いてるのも知ってる。安子は正しいよ、ご立派だよ。玉の興バンザイ。元彼の俺も鼻高々だ。俺が知らねえ間に二股かけて、他の男のガキ孕んで、とっとと結婚決めて……女の浮気にも気付かなかったんだ。最低すぎて笑える」  「まだ好きなんですか」  「………………」  一旦俺からはなれ、口を開く。  「選んでください」   「?」  机にもたれ、息を整える。  訝しげに見上げる俺から二歩退いた千里の靴が、散乱した書類を踏み付ける。  書類を踏みにじり、微笑む。  「恋人の机で犯されるか自分の机で犯されるか、選んでください」

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