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第16話
風邪をひいて会社を休んだ。
「……38度………」
近眼だと水銀の目盛りが読みにくい。
口にくわえた体温計をしゃかしゃか振り、目を眇めて見直す。
38度2分。
見間違いじゃなかったか。
「洒落になんねー感じだな……」
医者へ行くのはめんどくさい。丸一日寝てりゃあ治るだろうと素人判断で体温計を枕元に放り、ベッドにもそもそもぐりこむ。
午前中いっぱい最悪の体調だった。
会社に休みの電話を入れるだけで体力を使い切った。
受話器を置くと同時にばったり倒れこんで、以降記憶がない。
日ごろの不摂生が祟ったか?
いや、ちがう、これはきっと俺に取り憑く疫病神のせいだ。
諸悪の根源にしてすべての元凶はあいつだ。
あいつが無茶な抱き方するから俺が体を壊す。
普通気を失うまでやるか?今だって腰がだるい。一昨日あたりから不調だったのだ。なんとか自分をごまかして会社へ入ったが、行ったら行ったで疫病神につきまとわれてさんざんな目にあった。
なお、さんざんな目について詳しく語りたくない。勝手に想像してくれ。
びっしょり寝汗をかいて気持悪い。
会社、俺がいなくて大丈夫だろうか。
……大丈夫だろう、多分。考えたって始まらねえ、今日の遅れは復帰時に挽回すりゃあいい。
挽回できるよう頑張るしかない。
課長に提出する予定の書類やら会議に使う資料やらがデスクにたまってる。
想像しただけでうんざりし、憂鬱なため息を吐く。
「げほっ、ごほっ!」
ついでに咳。
熱で目が潤んで頭がぼうっとする。毛布にくるまり寝返りを打つ。
思い出すのは安子の顔、風邪をひけば看病してくれた。
器用な手つきで林檎の皮を剥いて、うさぎの形にして食べさせてくれた。俺はいい嫁さん候補を逃した。
違う。またか。うだうだ過去を振り返ってどうする久住宏澄、現実を見ろ。
振られた女にいつまでも未練たらたらな自分が情けない。
吹っ切ったんじゃねーのかよ失恋の痛手は?
体調不良は精神に影響する。
ああ、喉が渇いた。
ベッドの中で落ち着かず姿勢をかえ、床に直接おいたスポーツドリンクに手を伸ばす……
届かない。
「もう少し……」
目一杯指先を伸ばし、励む。
ベッドから這い出るのは億劫だ。
意地になり、むきになり、布団から顔と腕だけ出してペットボトルを掴もうともがく。
「あ」
ペットボトルが倒れ、フローリングの床をころころ転がっていく。
玄関のほうへ転がっていったペットボトルを、宙に手を突き出したまま口半開きの呆け顔で見送る。
タイミング悪くインターフォンが鳴る。
客か?
ひとが風邪で寝込んでる時にかぎって……
「新聞の勧誘か?NHKの集金か?新興宗教はおとといきやがれ」
いっそ狸寝入りで無視しようかと誘惑に心傾くも、相手はしつこい。俺が頭っから毛布をかぶってしらんぷり決め込んでもしつこく押す。ピンポン、ピンポン、ピンポン……音感がいいな、なんてどうでもいいことを思う。
ピンポンを連打する来訪者にいい加減しびれを切らす。
「~うるせえな、今行くよ!!ったく、風邪ひいた時くらい休ませてくれよ……」
枕元を手探りし眼鏡をかけ、毛布をひっぺがし、不承不承ベッドから這い出す。だるい体をひきずり、気乗りせぬ足取りで玄関へ向かう。
寝癖のついた髪をかきあげ、ロックを開錠し、ノブを掴む。
「はい、どなたですか?」
回す。
第一の失態。
ドアを開ける前に穴に目をくっつけて来訪者を確認すべきだった。熱でぼんやりした頭じゃそこまで考えが回らなかった。
ドアを開け放つと同時に後悔が襲う。廊下に突っ立つ男が、無邪気に笑って言う。
「うわ、開けてくれるとは思わなかった」
即ドアを閉める。なにも見なかったことにしよう、俺の心の平安のために。
すかさずドアの隙間に片足がねじこまれる。
「なんで閉めるんですか」
「人の形をとった悪夢が廊下に立ってるからだよ!何の用だ、おとといきやがれ、しっしっ!」
なんでこいつがここに、俺の部屋の前に立ってやがるんだ。住所教えた覚えねえぞ?
「人の形をとった悪夢って随分な暴言だなあ。せっかく様子見に来たのに。あ、中入っていいですか?」
「絶対だめだ。帰れ。三秒以内に俺の視界から消えろ、さもねーと火災警報装置のボタンを押す。天井のスプリンクラーが作動して頭っからずぶぬれになりたくなきゃとっとと帰りくされ、疫病神」
「熱で朦朧としてるのによくそんな口が回りますね」
手の甲で追い払うまねをしても後輩は動じず、ほとほと感心といった風情で頷く。
今俺の目の前に突っ立ってるのは強姦前科一犯、後輩にして天敵にして最悪の脅迫者の千里万里。会社帰りらしいぱりっとしたスーツ姿。
「……ちょっと待て。今何時」
「午後三時です」
「早すぎねーか」
「そっこーで終わらせました。先輩の事が心配で」
「早退?」
まぶしい笑顔。……なんかドッと疲れが。
「立ち話はご近所さんのご迷惑ですし、重いし、中入れてくれませんか」
言われて目線をおとせば、千里は両手にビニールの袋をさげていた。凄まじく嫌な予感。
「断る。帰れ」
「大声で叫びますよ?」
「俺の台詞だ。というか、えーと……なんでお前がここに?住所教えてないよな、ということは勝手に……ストーキング!?」
「無限ループですよ。まあいいじゃないですか、ささいなことは。お邪魔します」
入れと許可もしてないのに、隙間にひっかけた足を操作してドアを開けるや、堂々とあがりこむ。
「待て、待て待て待て!?」
「へー意外。結構キレイに片付いてる。あ、この本先輩も読んでるんだ!嬉しいなあ、海外翻訳ミステリのファンってあんまいなくて……今月新刊発売ですよね」
「そうなんだよ、主人公の探偵がハードボイルドでさあ、ヒロインの女刑事がこれまた男勝りでかっこい……じゃなくて、ひとの本棚かってに見んなよ!?」
「あ、食玩飾ってある。ミニカーだ、かーわいい」
千里がちょんちょんと棚に飾ったミニカーをつつく。
独身者用ワンルームマンションは、男の一人暮らしの平均からしたら片付いてる方。俺は割と几帳面な性格で、物が散らかってると落ち着かないのだ。だからまあこうして後輩が来襲しても、いやらしい本だのビデオだのを大慌てで隠さなくてすむ。
千里は興味深げにきょろきょろあたりを見回している。「これが先輩の部屋かあ」とひどくご満悦の表情。借りてきた猫のような行儀正しさだ、今んとこ。
「出てけよ、管理人呼ぶぞ!というかお前どうして俺の部屋知ってるかまだ答えてないよな、ごまかすな!!」
「興信所」
「…………マジ?」
「あはは、嘘」
玄関先のペットボトルを掴み、千里めがけ投げるも、放物線は後半でへろへろと蛇行して予測地点のはるか手前で落下。
「……というのは冗談で、安子さんに電話かけて聞いたんですよ。今日風邪で休んでるんだけど、お見舞い行きたいから家教えてくださいって」
「安子に?だって産休中……」
「そうそ、産休中で暇してるそうで快く教えてくれましたよ。先輩の事よろしくおねがいされちゃいました」
ペットボトルを拾いながら笑う千里が脱力を誘う。安子のヤツ、勝手に教えるなよ。
まあ仕方ない、元カノを恨んだところで始まらない。
安子はじめとした同僚はこいつの本性を知らないんだから。
千里の猫かぶりはいつも完璧。俺とふたりっきりの時だけ脱皮する。
つまり、今。
熱のせいで頭が働かず足元がふらつく。正直、千里の相手ができる状態じゃない。千里に隙を見せるなんてどうかしてる、まともな状態だったら絶対部屋にいれたりしなかった。痛恨のミス、その一。ドアの前で追い返さなかった自分を呪う。
「千里………あのな」
言葉が続かない。口を開くだけで消耗する。
「寝てていいですよ。具合悪いんでしょ」
「お前がいるのに横になれっか」
千里の前でベッドに横たわるなんて自殺行為、たとえるなら網の上の特上カルビだ。
どういう魂胆があって俺んち訪ねたか今さら聞くまでもない、ヤる事といえばひとつだ。千里の頭ン中は始終それで一杯だ。こっちはいくつ体があってもたりねえ。
「……今日一日顔見なくてすむってせいせいしてたのに……」
腹の底から本音を言えば、千里が心外そうな顔をする。
「酷いなあ。ぼくは先輩に会えなくて寂しくて寂しくて、こうして部屋まで来ちゃったのに」
「迷惑だ。死ね」
「先輩のほうが死にそうな顔色ですけど。ちゃんと食べてます?」
「食欲ねえ」
「そう思って、はい」
袋の中に手を突っ込んでカップアイスをとりだす。
「買って来ました。熱が出た時はやっぱりこれでしょう。アイスなら食べられるんじゃないですか?」
「甘いもん苦手……」
「スプーンは……あった。さあ座って」
聞いてねえし。
土産を持参した千里に促され、とりあえずベッドに腰掛け、譲歩案を練る。
「これ食ったら大人しく帰るか?」
「はいはい」
浮き浮き鼻歌まじりでカップアイスのふたをあけながら、千里は不真面目に二回返事をする。
油断禁物。ちょっと甘い顔みせたら付け上がる。用心にこしたことなし。
ベッドに腰掛けた俺の前に千里がかがみこみ、包みを破いて木匙をとりだし、アイスの表面をひとすくい。
「先輩、あーん」
「……………」
「あーん、って痛たッ!?」
頭に手刀をくれる。
「なんで怒るんですか。基本でしょ?」
「な・ん・のだ、な・ん・の?恋人同士か?間違っても男同士の先輩と後輩のやりとりじゃねえだろ今の、あーんとかいい年して男相手に寒いこと言ってんじゃねえ、これ以上悪寒を走らせるな」
「早く口開かないとアイスが溶けちゃいます」
「お前に食わせてもらわなくても自分で」
「ぼくが食べさせたいんです」
「そうか。お断りだ」
千里は頑として譲らない。俺は意固地に口を引き結ぶ。アイスをのせた木匙がぐいぐいと唇に押し付けられる。
「強情だな……」
「おまへがな」
木匙が強引に唇に割り込もうとする。不毛な我慢比べ。お互いむきになる。千里は是が非でも自分の手で俺にアイスを食わせたいらしく腰を浮かし、木匙を押し込んでくる。そうはさせるかと一文字に口元を結び右に左にそっぽをむく。
馬鹿なことに体力を使ってぐったりする。気のせいかまた熱が上がったようだ。
憔悴しきった俺の顔をのぞきこみ、千里が勝ち誇ったように指摘する。
「体、火照って熱いんじゃないですか?素直に言う事聞いたほうがいいですよ」
「うるせえ……」
「アイス溶けちゃう。もったいなあ、せっかく買ってきたのに……」
千里がため息を吐き、哀しそうに目を潤ませて手の中のカップアイスを見下ろす。くさい芝居。
だが、それなりの効果はある。食べ物に罪はねえ。そう割り切れる程度に、俺は大人だ。
千里の言う事を聞くのはしゃくだが、これ以上抵抗して溶けたアイスがぼたぼたシーツや服に落ちてきたら厄介だ。
「あーん」
千里が辛抱強く繰り返す。通算五回目の「あーん」。
凄まじい葛藤を乗り越えて、気恥ずかしさに少しためらい、おそるおそる口を開ける。
木匙がゆっくりと近付いてくる。
もう少しで口に入る、と思った瞬間くるりと方向転換し、千里の口の中へ吸い込まれる。
「あ」
思わず声が出る。
不覚にも抗議と非難が入り混じった声を出した俺の眼前、木匙を味わいながら、してやったりとほくそえむ千里。いたずら大成功。
「先輩はふたの裏で十分じゃないですか?」
にっこり笑って、捨てずにとっておいたカップアイスのふたを俺の膝へと放る。
「………………」
「どうぞ召し上がれ」
のろのろとふたを拾い、裏面にへばりついたバニラをみじめったらしく意地汚く舌でなめとる。千里がちょっと引く。
「………先輩?」
怪訝そうな声。木匙を口から出した千里が訝しげにこっちを探り見る。寄り添う後輩を無視し、ふたの裏のアイスを丁寧になめとっていく。
「あの……今の冗談ですよ。無理しなくても。ていうか、先輩らしくない……」
無視。なめる。千里が落ち着きをなくす。
「……その。ごめんなさい。あげますから、ちゃんと。泣かないでください」
「お前なんかに乗せられた自分がすげー悔しい」
あらかたなめ終えてしまったふたを摘み上げ、ゴミ箱に捨てる。
フローリングの床に正座した千里が、改めて木匙にアイスをすくい、抵抗の気力を喪失した俺のほうへとさしのべる。
大人しく口を開く。木匙が入り込む。口を閉じ、心ゆくまでしゃぶる。バニラの甘ったるい味が口の中にあとひき広がっていく。
「どうですか?」
「……………冷てえ」
口の中は熱いから、あっというまに溶けてしまう。
千里が二口目をすくう。続いて三口目、四口目。
言われなくても口を開ける。餌付けされる気分。
千里は俺の反応を見ながら甲斐甲斐しく木匙を運ぶ。
俺が十分アイスを味わって嚥下するのを確認してから、次の一口をもってくる。
木匙を咥える。
口の中で溶けていくバニラ。木匙を引く。半分がた減ったカップアイスを持って、千里が聞く。
「ちょっと落ち着きました?」
「…………ああ」
少しだけ、喉の火照りが冷やされた。今日の千里はちょっと優しい気がする。だから俺も、ついほだされちまう。
「あとはお前が食えよ。自分の金で買ってきたんだから」
「全部食べちゃっていいですよ」
「甘いもん苦手なんだって。もうたくさんだ。っていうか、用すんだんなら帰れ」
玄関へと顎をしゃくるも、腰を上げる気配はない。床に正座したまま、木匙でアイスをすくって黙々と食べる千里。ふしぎと穏やかな時間が流れる。
……妙な事になった。
こいつは俺を強姦した男で。
写メを撮って現在進行形で脅迫してる後輩で。なのに、そのはずなのに、今日はやけに大人しく優しいせいで調子が狂う。怒鳴るタイミングを外す。
「先輩、今思ったんですけど」
「なんだ」
「これ、間接キスですよね」
木匙を咥えながらの一言に盛大に吹き出す。前言撤回、やっぱいつもどおりの千里だった。
もうヤケだ。熱のせいで頭が煮えてる。冗談とものろけともつかぬ千里の発言に、どうにでもなれと開き直って暴言を返す。
「そうか、そりゃよかったな、思い余って犯しちゃうほど大好きな先輩と間接キスできて!嬉しいだろお前も、とっくと味わって食えよ、ついでに風邪も持ってってくれよ!」
「わかりました。貰っていきます」
待ったをかける暇もない迅速な行動。
からっぽのカップが床に転がる、木匙が落ちる、千里が俺の上に覆いかぶさる。
「んンっ!?」
いきなりの出来事にもがく。
接触のはずみに眼鏡がずれて視界が霞む、千里が俺を押し倒す、唇に柔らかなものが被さる、唇を割って侵入してくるこれは……舌。
くそ、やっぱりこうなるのか。あれだけ隙を見せるなって自分に言い聞かせたのに今日の千里が妙にしおらしいから騙された、千里をひっぺがそうともがく、肩を押して抗う、熱く柔らかい舌が口の中をかき回す、甘ったるいバニラの味が再び溶けて広がる、バニラ味の唾液が喉にすべりおちていく……。
いつになくあっさりと千里がどく。
いつもは俺がやめろと叫んだって絶対やめないくせに、今日に限って、拍子抜けするほどあっさりと。
「………っ………、どうせこんな魂胆だろうって思ったよ」
「ごめんなさい」
ベッドに起き上がり、怒気が滾る三白眼で睨みつければ、千里がしゅんとして頭をさげる。
なんだ?これで終わりか?ホントに?
唇を手の甲で拭いつつあとじさり、ベッドボードにぴったりとへばりつき、慎重に聞く。
「………今の、だけでいいのか?」
「?どういう意味ですか」
「とぼけんなよ、いつも俺がいやだって言っても最後までやるくせに……縛ったり突っ込んだり、てめえの気がすむまでとことんやるくせに。絶好のチャンスじゃねえか。風邪ひいて寝込んでるんだぞ、俺。今ならろくに抵抗できねえし、ヤりたい放題じゃんか。なんか……お前らしくねーよ」
「最後までしてほしいんですか?」
「!ばっ、」
ちぎれんばかりに首を振って否定する。
千里はしばらくじっと俺を見詰めていたが、ふいに真剣な顔つきでこう切り出す。
「……先輩は、好きな人が風邪で寝込んでる時に……無理矢理ヤりたいっておもいますか?」
虚を衝かれ、言葉を失う。
俺の時は、安子の時はどうだった?安子が風邪をひいた時、そばで看病してやった。俺は林檎の皮なんか剥けねえし、せいぜいタオルを取り替えるくらいしかできなかったけど、風邪で熱出して赤い顔で息切らしてる安子を見て、ヤりたいなんて思ったか?
答えはすぐに出た。
「…………思わねえよ、そんなの。当たり前だ」
きっぱり断言すれば、その言葉を待っていたというように千里が微笑む。とても嬉しそうで、少しだけ哀しげな微笑。
「正直、熱っぽく目が潤んで、髪と服がちょっと乱れた先輩に興奮しなくもないんですけど」
「あーあー。聞かなかった」
「今日はやめときます。強気に噛みついてこない先輩を押し倒したところで張り合いないし……ドSだから、ぼく。おもいっきり抵抗してくれなきゃ燃えないんです」
こいつは。
俺の事なんか、どうだっていいと思ってた。
常に自分の快楽を優先し、俺が体調を崩そうがどうなろうか知るもんかって、そう思ってるとばっかり。
「本当に……ただ、見舞いにきただけ?」
疑いを捨てきれず呟くも、千里はのほほんと笑ってすっとぼけ、「もう帰ります」と腰を上げる。
「風邪で苦しい時に、ぼくの顔なんか見たくないですよね」
事実確認のさりげなさで呟かれた台詞が、何故だか胸に刺さる。
「………とっとと帰れ。お前の顔見て熱あがった、口も甘ったるくて気持悪ィ」
「うがいしたほうがいいですよ」
「言われなくても」
「寝ててください。見送りはいいです」
「鍵かけなきゃなんねーし、ついでだよ」
あくまで施錠のついでに玄関まで送っていく。
靴を履く千里の背中を、なんとなく後ろめたい気持ちで見守る。
「……あー。仕事。俺がいなくても大丈夫か?」
「余計なこと気にせず体休めてください。先輩がいなくても会社は回ります」
「………もうちょっとオブラートにくるめよ」
靴を履いて振り向く。物言いたげに俺を見詰める。捨てられた子犬ってこんな目えしてるのかな、とちょっと思う。
「失礼しました」
「ああ」
ありがとうは言わない。言うもんか。見舞いにきてくれって頼んだわけじゃねえ。こいつがいつも俺にしてることを思えば、礼を言うに値しねえ。
千里はまだ玄関でぐずぐずしてる。言い残した事でもあるんだろうか。蹴りだしてやりたいのをぐっと堪え、待つ。
「あの、アイス」
「ああ?」
「熱だしたら何がいいかなって考えて、やっぱ冷たいものが一番かなって……先輩がどんなの好きかわからないから、とりあえず、目に付いたの片っ端から買い込んだんですけど」
即回れ右、部屋にとって返す。
「ばかやろう、大惨事だ!!アイスなら冷蔵庫にいれとけよ、だしっぱなしにすんなよ!?」
「人さまんちの冷蔵庫かってに開けるのはやっぱまずいかなって……」
「人さまんにずかずか上がりこむのも人さまの本棚じろじろ見るのも失礼だよ、なんだよその冷蔵庫がプライバシー集大成みてえな思い込みは、お前は冷蔵庫でエロ本冷やす趣味でもあんのかよ!?じゃあ最初に言えよアイスって、溶けてんじゃねーか!しかもこれ一人じゃ食いきれねえよ、お前実はすげー世間知らずだろ!?」
なんで最初に言わなかったんだと怒鳴れば、俯いた千里がごにょごにょと呟く。
「先輩が苦しそうだったから……早く冷やさなきゃと」
「お前ね……」
説教する気も失せる。
千里はどうも世間一般のそれと比べて価値観がずれまくってる。仕事はデキるが、時々ぎょっとするほど常識知らずなのだ。
「わかった。いいから帰れ」
「後始末やります」
「いいから。……もー寝る」
再び靴を脱いで上がりこもうとする千里を息を荒げ押し戻す。
廊下へ押し出された千里が後ろ髪引かれちらちら振り返るのがうざったくて、舌打ちドアを閉めかけた刹那、シャツの袖口を引かれる。
廊下に追い出された千里が、思い詰めた顔で俯き、俺のシャツの袖を握り締める。
「………ごめんなさい」
もう何度目かわからない謝罪。
「もういいよ、アイスの事は」
「ちがいます」
「フェイント?確かに騙されたけどさ……」
「ちがいます」
「さっきの……その、キスか」
「そうじゃなくて……それも含めて、色々と。やりすぎたんで」
もどかしげにかぶりを振る。複雑な心境で、俺の袖を握り締める千里を見返す。
俺が風邪をひいたのは千里のせいだ。千里が無茶をさせるからだ。このまえなんか気絶するまでローターでいたぶり抜かれてさんざんだった。
千里は悪魔だ。俺をいたぶって楽しんでる。だから今日も、俺の体調にお構いなしにはりきってヤるとばかり。
「………わかってんなら自重しろ」
言いたい事は山ほどある。山ほどあるが、下手にでられるとかえって怒りにくい。
アイスを土産に持参して見舞いに来た千里を、ほとほとあきれかえって眺める。千里は俺の袖口を握ったまま、なかなか放そうとしない。ガキか。
名残惜しげな手を振り払い、ドアを閉める。閉まり行くドアの向こうで、千里が何か言いかけてやめる。鍵をかける。
ひょっとして、責任を感じてるんだろうか。
俺が風邪をひいて寝込んだのは自分が無茶をさせたからだと気に病んで、それで見舞いにきたのだろうか。
どっさりアイスを買い込んで。
「……………ばぁか」
俺を束縛する後輩への憤りと苛立ちと嫌悪とがごっちゃになって膨れ上がるも、なめた唇は甘くて、こそばゆい感じがする。
熱のせいだ、きっと。多分。ドアの前からしょぼくれた靴音が去っていく。それを聞きながら室内にもどり、大の字にベッドに倒れこむ。
ああ、くそ、本当に。
時々優しいから、困る。
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