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第20話

橋頭堡を築かなければ。 崩れそうな理性を瀬戸際で食い止めるために。 日本列島はいよいよ本格的に梅雨入りした模様だ。今年もまたジメジメ鬱陶しい季節が到来した。暑いのはまだ我慢できるが湿気で蒸すのは勘弁願いたい。特に営業なんかやってると外回りで靴の中にまで水がしみこんでくるのには本当に辟易させられる。ぐちょ濡れ生乾きの靴下ほど不快なものはない。 ああ、もう一つあったか。 「雨やみませんね」 隣でのんびり言う後輩、こいつこそ俺の不快指数を上昇させる最大の原因だ。 ビジネスホテルの玄関前、自動ドアをくぐったところでまだ雨が降っていることに気付き、不本意にも足止めをくう。朝焼けの空から落ちた水滴がアスファルトを叩く様を眺めつつげんなりする。本音を言えば一分一秒でも早く家に帰りたい、体はぐったり疲れきって休息を求めている。しかし濡れるのを承知で駅まで歩く決心もつかず出遅れる。 「傘もってねえのかよ」 「相合傘します」 「やなこった」 「じゃあ意味ないじゃないですか」 「お前ひとりで帰ればいいだろ」 「先輩をおいていけませんよ」 一歩ホテルを出るや猫をかぶり他人行儀な「久住さん」から口と耳に馴染んだ「先輩」呼びに移行する。ったくいい性格だ。 雨はやまない。ただでさえ下り坂の気持ちが鬱々と塞ぎこんでくる。危険な兆候。 鬱病のケはないはずだが、精神的にも肉体的にも最近の無理が祟り不調を訴えている。 どうしてこんな事になっちまったんだ? 今まで何度となく繰り返した疑問が浮かぶ。自問自答はもはや俺の悪癖、悪い習慣。煙草をやめたくてもやめられない喫煙者のような、と喩えればわかってもらえるだろうか……誰に弁解してるんだ。別にわかってもらえなくてもいいが。 ビジネスホテルの色褪せた壁面を雨が伝う。 隣に立つ奴と目を合わせるのが嫌で、口をきくのはもっと億劫で、靴の爪先を見つめ続けるふりで無視をする。 玄関から出てきた奴が不審そうに俺と後輩を見比べ、あらかじめ呼び出しておいたのだろう路肩に停まったタクシーに乗り込んでいく。 もうすぐ始発が出る時刻、街はまだ寝静まっている。 「待っててもやみそうにないですね。どうします?」 「そもそもお前がこんなとこ連れ込むから」 「僕のせいですか。いやだな、先輩だって断らなかったでしょ」 「……拒否権ねーだろ」 自然と刺々しい口調になっちまう。手のひらに雨粒を受けつつ「ですね」と相槌打つ後輩を絞め殺したくなる。 「早く帰りたかったんだよ俺は」 「何度も聞きましたって、ここに来る途中もベッドの中でも。あからさまに帰りたそうな顔されると傷つくんですけど」 「知るか。勝手に枕を濡らしてろ」 小さく毒づき、スーツの袖に隠された二の腕を庇う。そこに残された痕を思い、羞恥と憤りで顔が赤くなる。 「これからどんどん暑くなるのに腕まくりできないの辛いですよね」 俺の葛藤を読んだように低く笑う後輩に殴りかかりそうになるのをなんとか堪える。 「誰がそうしたんだよ、誰が。熱中症で倒れたらお前のせいだかんな」 こいつにつけられた痣は当分消えない。迂闊に袖をたくしあげたら一発でばれちまうからおちおちボタンも外せやしねえ。 「それが狙いですから」 「ああん?」 「他の人に見せたりしないでください」 柔らかな口調に反し目は笑ってない。お願いに見せかけた強制。俺を見据える真剣な目にたじろぎ、一瞬言葉に詰まる。 冗談とも本気ともつかぬ言葉を真に受けちまったのが癪で、内心の動揺をごまかそうと背広の袖口を意味なく引っ張る。 「俺の痣はお前のモンだ。お前にしか見せねーよ」 他意はない、誓って。少なくとも下心などなかったのだ、これっぽっちも。 やけっぱちで口にしてから、その発言がどれだけきわどいものか自覚し、慌てて付け足す。 「どうせ脱がなきゃわかんねーし、まあ蚊に刺されたって言い抜ける事もできるけど突っ込まれたらボロがでそうだしそれで」 するりと伸びてきた手に手首をとられる。拒む暇もない早業。不思議と嫌悪感がなかったのは、その手がひどく謙虚で躊躇いがちに見えたからか。 「もっと優しくできたらいいんですけどね」 不器用なんですよ、僕。とんでもない罪を告白するように呟く。 「嘘つけ。お前ほど要領イイ奴見たことねえよ」 「どうでもいい人間にはいくらでも要領よく振る舞えます。あなたはそうじゃないから、最初から見抜かれちゃうからいくら欺いても無駄なんです。だから先輩の前では極力本当の自分を出していく事に決めたんです」 「本当のお前ってのは随分歪んでるんだな」 「そうですよ。これが僕です。嫌いになっちゃいました?」 「いまさらだな」 猫被りなこいつも、今の鬼畜なこいつも。だけどどっちがマシかと言われたら素を出してるぶん今の方が多少はマシなのだろうか。 ……今の方がマシ?冗談じゃない、どうしてそうなる。脅されて会社が終わったあとまで付き合わされてもてあそばれて、なのに今の方がマシだって? どうかしてるよ、俺もこいつも。 ストックホルム症候群という心理学用語が脳裏にちらつく。 何かのテレビで見たか本で読んだかして覚えた知識を暇つぶしに引用する。 強盗や誘拐犯と長時間一緒に過ごす人質が陥りがちな特異な心理状態の事で、本来なら憎むべき加害者に感情移入しちまうんだそうだ。 俺がこいつに懐く共感とも同情ともつかぬ生煮えの感情もその一種だろうかと分析するも所詮は素人判断、思考の迷路にとらわれちまう危惧に首を振る。 突き放せないのは俺の甘さが原因だと薄々わかっていても、時折こいつが見せる自虐的な素顔に放っておけない気持ちにさせられるのもまた事実で。 「これ以上嫌いになることねえから安心しろ」 ベッドの中の積極性はどこにうっちゃったのか、弱音を吐く後輩の手をやんわり外して逃れれば、革靴の先端が間合いを侵す。 よろめく背中に自動ドアのガラスが当たる。 追い詰められ逃げ場を失う。 含み持つ視線が絡み合う。 顔の横に片手をつきゆっくりと前傾、続く行為を予期し身構える。 冷たく湿った吐息と柔らかな粘膜が唇を襲う。 キスというには控え目すぎる愛情表現。無理矢理こじ開けるのではない、なめらかに解きほぐす舌遣いに煽られ甘い痺れと疼きが唇を中心に巻き起こる。 橋頭堡を築かなければ。 キス一つの勘定で一センチずつ地滑りしていく理性を可及的速やかに意地とプライドで補強せねば。 もう瀬戸際まで追い詰められている。 あと一歩あとじされば崖っぷちから真っ逆さま、後戻りできなくなる。 ここが分水嶺だ、踏んばらなければ。 唇を離しつつ後輩が言う。 「……知ってますか」 「何をだよ」 「唇って緊張すると固くなるんですって。本当にリラックスして、力が抜けてる時は柔らかいんですけどね」 「いらねえ雑学」 「そうですか?今度だれかとキスするときに役立ててくださいよ」 「次も予約してるんだろ」 「一か月先まで埋まってます」 「身がもたねえよ」 「専属契約ですから。ノルマ達成目指して頑張ってください」 「ご褒美は?」 「キスです」 「無限ループじゃねえか」 いつもの調子で切り返しゃピロウトークめいた軽口が不本意にも成立してしまい、忸怩たる面持ちでそっぽを向く。 たった今重ね合わせた唇は十分柔らかくほぐれている気がしたが、こいつは俺の唇の感触をどう思ったんだろうと、そんなどうでもいい事が気になるあたり相当ヤキが回ってる。 このタイミングでそんな話を持ち出すってことは、意地悪くキスを仕掛けられるたび力の抜き方がわからずにがちがちに固くなってるのを見抜かれてるのか。 こいつにキスされるまで自分がこんなにキスが下手だなんて知らなかった。 できれば一生知らずにいたかった、知らなくても人生設計は安泰だった。 全部こいつのせいだ。こいつが諸悪の根源だ。 なのに。いや、だからこそ自分の行動を不可解に思う。 「……お前今朝何の夢見てた?」 「今朝ですか?……いえ、覚えてないですけど。いきなり何ですか」 「いや、覚えてねーならいいけどさ」 会話を続ける気はなかった。さらさら、これっぽっちも。だからこれは一種の気の迷いだ。 朝方、一つのベッドで背中合わせに寝ていた俺は、くりかえし詫びる声によってまどろみから起こされた。けだるい体を起こし、枕元の眼鏡をとって向き直れば、こちらに背中を向け寝ていた後輩が悪い夢にうなされていた。夢の中でこいつはだれかに謝っていた。あの時の俺はどうかしていた。揺り起こそうと肩にかけた手を引っ込め、しばらく無言で様子を見守り、そして。 片方の瞼にキスをした。 俺がキスしたのが意識の水面下でわかったのだろうか、悪夢が沈静化した後輩はスッと穏やかな顔をし、元の安らかな眠りに落ちていった。 こいつが抱えているものについて俺は知らない。悪夢の内容を根掘り葉掘り詮索するほど親しい間柄じゃねえし、そんなことして自分に興味があると勘違いさせるのは業腹だ。 それでもあの時はそうするのが一番自然で正しい方法に思えて、悪夢を視る瞼に唇が吸い寄せられていた。 あのキスは忘れよう、なかったことにしちまおう。俺自身なぜあんなことをしたのか振り返り困惑している、不安定に揺れ動く感情に整理がつけられないでいる、臭い物にふた方式で都合が悪い事実は封印しちまうのが一番、それが賢い大人の処世術ってやつだ。 本当にそうだろか。 「もうすぐ始発ですね」 「ああ」 「怒ってます?」 「あたりまえだ」 「宿泊代は僕持ちですよ」 「お門違いな恩着せるな、なんで俺がださなきゃいけねーんだ」 「だって共犯でしょう、ぼくたち」 にこりと微笑みかけてくる食えない後輩を苦々しく一瞥、俺の心を映したようにぐずつく空を見上げる。 ほんの一瞬でもこいつの寝顔を可愛いなんて思っちまったのは人生最大の痛恨事で、自分の唇を奪った男に対し警戒心や嫌悪感より心配の念が先立つあたり、俺の理性は確実に目減りしつつあるのだろう。 橋頭堡を築かなければ。 分水嶺をこえないうちに。

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