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第21話

たとえば眼鏡を叩き割ってしまえばどうだろう。 そうすればあの人の手を握る口実を捏造できる、手を繋いでも不自然じゃないシチュエーションが生まれる、隣にいてもいい許しがもらえる。 恋人でもなんでもない僕はそうしていつもいつでもあの人の世話を焼く理由をさがしてる。 理由があるから世話を焼くんじゃない、世話を焼きたいから理由をさがす倒置法の恋。 僕は同じ男でしかも年下の後輩だから、申し開きでもするみたいにいちいち理由をこじつけ疾しい気持ちを正当化しなければ、好きな人の隣を歩くことさえできないのだ。 思えばいつもあの人の背中を見ていた気がする。 惚れ惚れするほど姿勢が良くて歩調も小気味よく速いものだから、会社でも街中でも背骨に磁石が埋め込まれてるみたいに自然と周囲の目を惹きつける。 僕みたいな華奢な撫で肩だとスーツの線が体に合わず不恰好に角張って見えてしまうのが難点だが、細身ながら直線的で端正な骨格には背広がしっくり馴染み、性格そのままに真っ直ぐ伸びた背筋を精悍に引き立てる。 他人に厳しく女性に弱く子供に甘く自分には他人以上に厳しいこの人は、その偏屈だが狭量じゃない言動と一本筋が通った在り方でもって颯爽と周囲を牽引していく。 本人に自覚はないのだろう。でもこの人がいるのといないのとでは部署の雰囲気が全然違う。 こざっぱり刈り込まれ清潔感匂いたつ襟足に不埒な熱を孕む視線を注ぎつつ、背徳感に責め苛まれる心理を自己解剖する。 いつからだろう、頼れる先輩に対する憧憬と羨望がもっと粘着質で屈折した情動に変わりつつある自覚が芽生えたのは。 幼稚で陰湿な独占欲をこじらせた歪んだ恋愛感情。 背中を見つめているだけじゃ物足りない、飽き足りない、満たされない。 手を伸ばせば届きそうな誘惑につりこまれ引き寄せられるように指を泳がせても、薄情な背中はとっととすり抜けて行ってしまう。 伸ばした手に掴み損ね、渇望に似た欲望に駆り立てられる。 焦燥に煽られ一歩一歩、靴の先端を見つめリズムをつけ交互に足をくりだす。 「何ぼうっとしてんだ。おいてくぞ」 前を行く背中がじれて振り返る。自販機の傍らに立ち、いらだって僕を呼ぶ。眼鏡と対で眉間に彫り刻まれた皺すらいとおしい。 自販機の横で待つ彼のもとへ小走りに駆け寄りつつ文句を言う。 「先輩が速いんですよ、もうちょっとゆっくり歩いてください」 「お前がぐずなんだろ」 「酷いですね、傷付きました。ひょっとして小学生の頃通信簿の連絡欄に『真面目なのは長所ですが協調性がないのが玉に瑕です』とか書かれたタイプですか」 「『責任感があるのはいい事ですがちょっと融通がきかないところがあります』と書かれたタイプだよ悪いか」 「人間観察が優れた担任ですね。具体的には?」 「……板書の字が斜めっちまうのが気にくわなくて何度も書いては消し書いては消ししてたらチャイムが鳴って時間切れ」 「勘で言いますけど、机の端がぴったり隣とくっついてないと落ち着かない派ですか」 「なんでわかる」 「面倒くさい子供の典型ですねえ」 「るっせ。そういうお前はどうなんだよ」 「『よく気がつく優等生でまわりの信頼も厚いです』って書かれましたよ」 「担任の目は節穴だな」 「僕は裏も表もありませんよ?」 「オセロ以下だな」 「どういう理屈ですか」 ぶっきらぼうな言動で誤解されがちだけど僕は知ってる、この人は本当はすごくおせっかいで面倒見がいいのだ。それこそあきれてしまうほどに、生きにくいんじゃないかと心配になるほどに。 しばらく並んで歩く。 この人の隣は僕の定位置。誰にも譲りたくない。 次の営業先はタクシーを使うにはもったいなく徒歩で行くには少々しんどい微妙な距離。 天気もいいし散歩を兼ねて。運動不足解消にもなるし経費も節約できて一石二鳥です、という僕の主張を強く反対する理由のない彼は渋々受け入れた。 僕と肩をくっつけあって狭苦しいタクシーに押し込まれるくらいなら歩いて行こうと思ったのかもしれない。 彼の隣を歩けるのは後輩の特権だ。 相手が気付かぬのをいいことにうなじばかり見つめているのが気恥ずかしくなり視線を下ろせば、アスファルトを蹴る使い込まれた革靴が目に入る。 「先輩どこで靴買ってます?」 「近所の量販店」 「だいぶくたびれてますね」 「だれかさんのお高いブランド物と違って安物だからな。使い込んだ分だけ革は擦り切れて底はすり減る」 「ブランド物が高いのは品質が保証されてるからですよ。履き心地がいいのはもちろんすごく丈夫で耐用年数も長いですし……一足あげましょうか」 「お前のおさがりなんざ誰がいるか」 「遠慮なさらず。たくさん持ってるんで」 「ネコにでもくれてやる」 「長靴は持ってないなあ」 「会社の駐車場でひなたぼっこしてるネコだよ。最近子供産んだんだ。仔猫育てるにゃ最高に快適な環境だろブランド靴ん中は。ぬくぬく丸まって極楽だ」 「ああ、先輩がこないだこっそり煮干しあげてたネコですか」 「……見てたのか」 「餌付けされてるせいか人懐こいですよね。僕もなでさせてもらいました」 「人を見る目がねえ」 「ネコですからね。そういえば先輩、右手の甲のひっかき傷って……買収できなかったんですね、可哀想に」 「たまたま背広のポケットにあったから行きがかりに始末したまでだ」 「背広のポケットに煮干し仕込んでるサラリーマンて全国的に見ても少ないですよ」 「カルシウム不足の対症療法」 「魚の小骨も噛み砕く派ですか」 大の大人の苦しい言い訳に忍び笑いを洩らしつつフォローを入れる。 「でも僕、先輩の靴好きですよ。寸暇を惜しんで働いてる人の靴ってかんじがして」 「下手な世辞いらねえよ」 「ほんとですって。よく言うじゃないですか、靴がぴかぴかなのは自慢にならないって。特に営業はどれだけ足を使ってるかで決まりますからね。そこいくと十分合格点です」 「えらっそうに……生意気な口きくなよ新米の分際で」 褒められるのに慣れてないのか、落ち着かなさげに眼鏡のブリッジをいじるしぐさに可愛げを感じてしまう。そう思えば、当惑と反省を足して割った複雑な色を目に覗かせる。 「……俺、そんなに歩くの速いか」 「自覚ないんですか」 「考え事してるとついな……」 「ひどいですよ先輩。あなたの後輩を忘れないでください」 ふざけて茶化すが、内心は穏やかじゃない。 考え事?……ああ、社内恋愛中の彼女の事か。 「あーあ、僕が背中にぴったりついてきてるってのに先輩は脳内カノジョを脱がすのに手一杯ですか」 「誤解招く発言すんな、脳内『で』と言え!……あ」 図星か。 どうすればこの人の頭の中にどっかり居座って一日中つきまとう邪魔者を追い払えるだろう。 僕はただの後輩だ。 仕事が終わり次第、僕が今独占しているこの場所を本来の恋人に明け渡さなければいけなくなる。この人を恋人に返さなければいけなくなる。 この人の幸せを願うならそれが正しいことだとわかっていても 「……エスコート、しっかりお願いしますよ」 「あ?」 後輩の指導も仕事のうちでしょ、と軽く背中を叩く。無邪気を装いじゃれつきつつ悶々と妄想をこね回す。 たとえば眼鏡を奪ってしまえばどうだろう。 この人は視力が悪い、眼鏡がなければまともに歩けない。僕はこの人の手を握りできるだけゆっくりと時間をかけ歩く、一秒一秒を惜しむかのように。 心尽くしのエスコート、帰り道限定のデートの真似ごと。 この人の手は汗でしっとり湿って、僕の手は緊張と高揚でじっとり汗ばんで、気を付けないとお互いの足を踏んづけてしまいそうで、ロマンチックとはとても言い難いシチュエーションだけど。 たとえば今、僕が眼鏡をひったくったらどんな反応をするのだろう。 地面で叩き割って踏みつけたらどんな顔をするのだろう。 このプライド高く依怙地で意地っ張りな男が、いやでも他人の手に縋らざるをえなくなるお膳立てをしてやったら? 屈辱に歪むだろうか、憤怒に染まるだろうか、困惑に揺れるだろうか、恐怖に強張るだろうか、不安に潤んだ目で精一杯虚勢を張って毒づくだろうか、彼女にも見せた事ない顔で罵ってくれるだろうか。 それもいい。 理性と忍耐力を試すように目の前でちらつくうなじを追うにつけ、不器用と紙一重の潔癖さゆえにいつも隙を見せぬよう振る舞う男の素顔を暴きたい衝動が昂ぶり、内で逸る己自身を抑えつけるように口を開く。 「仮に、ですよ。眼鏡を踏んづけて割ってしまったとしたら」 「自分で?んなアホじゃねーよ」 「割ってしまったとしたら……いえ、なんでもないです。忘れてください」 お手をどうぞ、先輩。 心の中で呟き、にっこり微笑んで仮初の手をさしのべる。 さしのべた手に託したのが真心にあらず下心と見抜かれてしまえば淡い恋に終止符が打たれる。 のるかそるかの危ない賭け、相手の好意を推し量るよりはむしろ自分の勇気と本気を試す行為。 僕の手に頼りきって歩く不安げな表情、焦点の定まらぬ目、さまよいふらつく足、曲がったネクタイを一つ一つ想像する。 いつもきびきびと先輩風を吹かせてるこの人が僕に依存しきった姿を思い描く試みは痛快で胸が透き、支配欲と独占欲、なにより持て余すほどに厄介な征服欲をかきたてる。この人を手に入れたい、好きにしたい、頭のてっぺんから爪先までしるしをつけて自分の物にしてしまいたい、彼女から奪ってしまいたい、永遠に外回りをしていたい。 僕はきっともうおかしくなりかけてる、何をしていてもこの人の事しか考えられない、夜毎妄想の中で一体何回脱がし犯し泣かせたか知れない。 しかし手を貸したとして素直に借りるような性格じゃないのが悩みどころだ。引っ張られる側になった途端速いだのゆっくり歩けだのうるさくケチをつけるにきまってる。 僕がさしだす救いの手はいつだって彼にとっては余計なお世話で迷惑極まりないお節介なのだ。 それとも案外素直に礼を言ったりして。 意地っ張りがスーツを着た上に眼鏡をかけて歩いてるようなこの人の口から、大嫌いな僕に対する感謝の言葉を引き出せるなら悪くない。 「……にしても不思議ですねえ。足の長さじゃ勝ってるのにどうして追いつけないかな」 「さりげなく自慢すんな」 「事実を言ったまでです。なんでもすぐ自慢にとるのこそ僻みですよ?先輩ちょっと卑屈すぎます」 「……かっわいくねえ」 この人の幸せを願うなら手をはなさなければいけないとわかっいても。 せめてあなたに追いつきたくて、同じ歩幅で歩く小さな見栄を許してください。 歩くような速さであなたの隣に立つのが、臆病で意気地がない今の僕のささやかな目標だから。

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