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第22話

「あ~~さぶ」 冷え込み厳しい1月初旬の寒空の下、吹きっさらしの屋上にゃさすがに誰もいねえ。 コンクリで固めた殺風景な空間に点在するベンチを暖めようって尻の皮の厚い物好きは俺位のもんだ。 ……というか、俺だって何も好き好んで尻を冷やしにきてる訳ではない。できれば暖房の利いた屋内で、自販機のコーヒーでも飲んでぬくもりてえのが本音だ。 ところがどっこい、そうもいかない事情がある。 正月も三が日を過ぎれば通常営業の世知辛い世の中だ。ぼちぼち休みから復帰した連中が部署を回し始めている。 俺はといえば、嫁も子供も彼女もいない寂しい独り身。初詣だの親戚連中への挨拶巡りだの、家族サービスに余念がない先輩同僚に比べたら随分のびのび過ごせたもんだ。初詣はいかなかったけど。最後に行ったのは……安子と付き合ってた時か。 『おせちにする?お雑煮にする?それともお汁粉?』 「はあ~あ……」 うちの台所に立って、正月の支度をしていたエプロン姿を恋しく思い出す。 いけねえ、まただ。フラれて数ヶ月が経過するってのに、どんだけ引きずってんだと自分にちょっと引く。 安子はアレで家庭的な女だから、大晦日から部屋に泊まりこんで、年越しそばやおせちをばっちり仕込んでくれたっけ。料理は何作らせても上手いけど、特に伊達巻が絶品だった。結婚してたら今頃は…… 「すげー太ってたよな……」 「むしろ窶れてますけど」 「いっ!?」 頬ぺたに熱燗を押し付けられて飛びあがる。 反射的に顔を上げれば、背後から天敵が覗き込んでる。熱燗と間違えたのはその手の中の缶コーヒーだった。 「大袈裟だなあ、そんな熱くないでしょうに」 「千里テメェ、付けてきたのか?」 「人聞き悪いですね、せっかく缶コーヒーおごってあげようと思ったのに。休憩所に見当たらないからさがしたんですよ」 「筋金入りのストーカーの振る舞いじゃねえか、俺が窶れてんのはテメェのせいだテメェの」 周囲に誰もいないせいか自然と語気が荒くなる。 千里は既にプルトップを引いて、缶入りコーンポタージュをうまそうに飲んでいる。俺の忌々しげな視線に気付き、飲み口から一旦離れてにっこり微笑む。 「こっちがよかったなら交換しますけど」 「間接キスはノーセンキュー」 「計画通りにはいかないか」 「なんでわざわざクソさみいの我慢して屋上にきたと」 「僕から逃げてきたんですよね。ダメですよ」 千里がやんわり注意する。口元は笑っているが目は真剣だ、おっかねえ。 後輩のご指摘通り、自販機と空調が揃った快適な休憩所を避けていそいそ屋上にやってきたのは、偏にコイツと会いたくねえからだ。 「付き纏うな」 「先輩の体を心配してるんです、外にいたら風邪ひいちゃいますよ」 さも親切ごかして世話を焼くが、その魂胆はわかりきってる。 「抵抗力落ちてんのは誰かさんが原因で体重減ったせいだよ」 「仕事帰りに週1セックスじゃ疲れますもんね」 「多い時ゃ週3だろ」 前略、俺はコイツに脅されている。千里の野郎は言うこと聞かなきゃあの日撮ったこっぱずかしい写真をメールで一斉送信すると脅迫、俺に肉体関係を迫る。 千里が「ん」と缶コーヒーを振る。シカトすれば構わずぐりぐり抉りこんでくる。「よせよ」と邪険に振り払えば、鉄壁の笑顔でいけしゃあしゃあ言ってのける。 「買っちゃったんだから貰ってください」 「いいよ」 「ブラック飲めないんです」 「なんで買うんだ」 「先輩が好きだから」 一瞬返しに詰まってから、別の意味だと悟って頬が赤くなる。 「人の嗜好完璧に把握してんじゃねーよ、気色悪ィ」 「コーヒーに罪はないでしょ、いらないなら捨ててください」 めげずに押し付けられて渋々受け取る。ちょうど手が冷えきっていたのだ、ぶっちゃけ有り難い。 俺に缶を渡したのち、千里がベンチを回り込んで隣に来る。 勝ち誇るドヤ顔が癪に障り、今この場で缶を逆さにして中身を零してやろうかと思ったが、もったいなさが打ち克ってプルトップを引く。 右手に持って一口嚥下すると、ほろ苦い液体が咽喉を滑り落ちていく。 それを見届けて幸せそうにニヤケる千里。ちゃっかり俺の隣に座り、両手で包んだコーンポタージュをちびちび啜る。 「お正月は会えなくて寂しかったです」 「年変わると同時にあけおめメールしてくんじゃねェ」 「なんで返してくれないんですか」 「タイトルと差出人見た瞬間ゴミ箱行きだよ」 「じゃあ僕が添付した年越しそばの写真も見てくれなかったんですね、先輩にお裾分けしたくてわざわざ作ったのに」 「お前本当……」 「安子さんのより上手にできたと思いますよ、腕によりをかけましたから。先輩は真面目でしっかり者だけど独身男性の常で自炊は怠けがちだし、大晦日もせいぜい近くのコンビニで年越しそばを買うくらいだろうなって思ってました」 「図星だよ」 俺の行動を読みすぎて怖い。盗聴器でも仕掛けてんのか。ベンチに腰かけた千里が本当に残念そうな口ぶりでぼやく。 「一緒に初詣行きたかったんですけど」 「行かねーよ」 「誘ってもダメでしょうね」 「三が日なんてどこも混んで気疲れするだけだ、家でゴロゴロしながら駅伝見んのが一番」 「先輩は寝正月ですか。炬燵は出しました?」 「出してねえ。一人だしな」 「片付けるの面倒くさいし」 「お前んち炬燵なんてあんの」 「ないですけど」 「だよな」 完全洋式の高級マンションに住んでる後輩を妬む……我ながらみみっちくて泣けてくる。今じゃすっかりスレちまったが、安子が通ってた頃は、炬燵を囲んでだべるのがひそかな楽しみだったのだ。 「安子さんに剥いてもらったみかんをあーんて」 「エスパーすんな」 安子と別れた初めての冬、部屋に訪ねてくるヤツも絶えていないのに炬燵を引っ張り出すのは馬鹿らしい。俺一人ならジャージに半纏でヒーターにあたっときゃ事足りる。 たとえ憎い天敵とはいえ、自分の近況を答えちまった手前スルーもできず、一応の義理として尋ねる。 「お前は?正月なにしてた」 「先輩のこと考えてました」 「ふーん」 「感動してくださいよ」 「他には」 「先輩がワンクリ削除せず開封したくなるメールのタイトル考えてました。『来週の会議で』とか、仕事の用件に見せかけるのが妥当ですか」 「マジでやめろしたら殺す」 どこまで本気か冗談か掴み所ない言動の後輩に、三白眼で凄んでみせりゃ悪びれず笑いだす。 「お互い初詣はスルーですか。気が合いますね」 「合ったところでどうしようもねえ。あーゆーイベントは連れと行ってこそだろ」 「恋人とか?」 「……まあな」 安子の事は詮索してほしくない。唇をへの字に曲げて黙り込めば、斜めに傾げて飲みきった缶を傍らの屑籠に捨て、千里が最高にあざと可愛く小首を傾げてみせる。 「後輩とでもいいじゃないですか。僕で手を打ちましょうよ、ね?」 年下好みの女ならイチコロの上目遣いも、俺の感想は一言に尽きる。 「ひっぱたきてえ」 千里が差し出す手を拒み、飲みきった空き缶を無造作に放る。見事屑籠に吸い込まれた空き缶を一瞥、千里が拗ねる。 「行くぞ、もうすぐ時間だ」 先に立って扉へ向かいかければ、背後から軽やかな靴音が追ってくる。 「神社ならあるじゃないですかほら」 千里の手が肘を掴み、扉に向かい踏ん張る俺を反対方向へ引きずっていく。華奢なくせに力が強い。 「鳥居が建ってりゃ神社ってのはこじつけだろ」 「ちょっと位いいじゃないですか、手をあわせるだけですよ。食っちゃ寝正月で終わるのも味気ないし日本人の端くれとてイベントノルマ消化しときましょうよ」 「玉落としてこい」 「新年初っ端下ネタ解禁ですか」 「餅でものどに詰めとけ」 「もっぱら焼くの専門なんで」 不運か幸運か、屋上には誰もいない。休憩終了まで五分を切ったタイミングで誰かがのぼってくる気配もない。 千里が俺を力ずくで引きずっていったのは、屋上の片隅にちんまり鎮座するお稲荷さんの祠だ。 大人が頭を屈めてやっとくぐれるサイズの朱塗りの鳥居の向こうに赤い祠があり、観音開きの扉の手前に小さい賽銭箱が固定されてる。両脇で番をするのはキツネの石像だ。 屋上の片隅にあるが日頃誰も詣でず、存在を忘れられて久しい神域だ。 「入社以来ずっと疑問だったんですけど、都心のビルの屋上にお稲荷さんがあるのって珍しいですよね。そうでもないのかな」 「どこぞの大手新聞社にもあんだろ」 「大企業ほど験を担ぎたがるジンクスですか」 「元々お稲荷さん祀ってた土地を買収して社屋を建てる時なんか、屋上に移築するケースが多いらしいな。うちも例にもれず」 「きちんとお祓いしてるんですかね。風水的なパワースポット?」 「会社案内のパンフレットにもちゃんと載ってるぜ」 すっかり日常風景に溶け込んじまって気にとめたことすらなかった。屋上の隅の死角にあたるせいか、日当たりのよいベンチで寛ぐぶんにゃ人目に付きにくいのだ。 「鬼門除けって言ってあえて北東や南西に封じることもあっから、それでわかりにくい場所に建てたのかもな」 「詳しいですね。迷信気にする人ですか」 「実家にあるんだよ、古いのだけど。ガキの頃はよく稲荷寿司そなえにいった」 そういや最近とんとお稲荷さんを見かけなくなった。ビル風吹きすさぶ都心のオフィス街にゃ無用の風物だが、ちと寂しい。 「タヌキかキツネで言ったら絶対キツネですもんね」 「見た目で判断すんじゃねえ、マルちゃんなら緑推しだよ」 「カップ麺で年越しは侘しすぎませんか」 「安くて早くて美味いんだからいいだろ」 「マルちゃんに負けたのは屈辱です」 「平面啜ってほしけりゃ3Dプリントしとけ」 などとくっちゃべりながら素朴な鳥居の前にたたずむ。用務員だか業者だかが定期的に手入れしてるのか浄められて清潔だ。ビルの屋上ってロケーションのせいか、神寂びた荘厳さよりは身近にご利益授かる親しみやすさを覚える。 上等なスーツをさぐり、マトリョーカ的にこれまた上等な革財布を開け、ぴかぴかの5円玉を摘まんだ千里がトリビアをたれる。 「お賽銭に5円玉がいいってされてるのは、ご縁がありますようにって語呂合わせなんですよ」 「うちの親もンなこと言ってたっけ。10円で重ね重ねご縁がありますように、15円で十分ご縁がありますように」 「485円で四方八方からご縁がありますように」 「ガメツすぎんだろ」 「僕じゃなくて日本人の感性に言ってください」 端正な挙措で5円玉を投げ込み瞑目、滑らかに手を合わせて拝む。育ちの良さが滲み出す横顔。 木格子の隙間に吸い込まれた硬貨が中で跳ねて涼やかな音をたてる。 少し悩んだ末、ため息を吐いて安物の財布の口を開く。 後輩が賽銭を投げたってのに、先輩がシカトってのは立場上よろしくねえ。 変な意地と見栄に一抹の信心が働き、なるべく汚れてねえ5円玉2枚を選別してから息を吹き吹き背広で磨きたて艶出し、潔く弧を描いて投擲。 景気よく柏手を打って拝んだのち、横顔にあきれた視線を注がれて薄目を開ける。 「……本当負けず嫌いだなあ」 「うるせえ」 「僕が5円だから10円にしたんですか。1枚おまけで先輩風吹かしますか」 財布から追加で5枚5円玉を召喚するや、力士が塩を撒く豪快さで腕を振り抜く。 「文句ねえな?」 財布はちょっと軽くなったが、気持ちだけでも千里に勝てるんなら安いもんだ。 鼻の穴を膨らませて得意がる俺に対し、千里は微笑ましそうに、あるいはぬるそうに目を細めて質問する。 「何お願いしました?」 「あててみ」 「営業成績トップになれますように」 「ばあか」 おろした両手を腰に付いて向き直り、盛大にあきれ顔を作る。 「努力でなんとかなることまで神頼みは失礼だろ」 努力で叶えられる願いまでなんでもかんでも持ってったら神様が過労死しちまうし、欲をかいたせいで本当に切実な誰かの願いが零れ落ちるのは寝覚めがわりぃ。 大前提として、当座の実力の不足を努力を怠ける言い訳にすんのは俺の意地が許さねえ。 千里が一瞬目を見開き、何故だか眩しそうな表情をする。 「じゃあ……僕と縁を切れますように、とか」 「よくわかったじゃん」と突き放す軽口を叩きかけ、俯く顔のしおらしさに言いよどむ。 殊勝に睫毛を伏せる横顔を観察するうち、缶コーヒーを受け取った時に覚えた違和感の正体に気付く。 俺は休憩時間になると同時に屋上にやってきた。 コイツは休憩所にも食堂にもどこにも見当たらない俺をずっとさがしまわって、にもかかわらず受け取った缶コーヒーは、俺の肌をぬくめるのに十分な温度を保っていた。 番の外れたプルトップが缶の飲み口に落っこちるように、知りたくもねえ謎がとけちまった。 コイツは屋上のドアを少し開け、ベンチにポツンと座る俺を確認した直後、大慌てで階段を駆け下りて自販機で缶コーヒーを買ったのだ。 屋上から一番近い自販機は一階分下にある。 俺の缶コーヒーがまだ十分温かったのは、すっかりかじかんじまった手をぬくめるために、俺に熱々をごちそうするために、コイツが階段を二段とばしだか三段とばしだかで駆け下りてまた駆け上って、そのくせ屋上へ通じるドアを開ける前に息の乱れを整えて、「おごりですよ」って面憎いポーズをこしらえたからだ。 ということは、だ。 千里にゃ缶コーヒー1本分の借りがある。 コーヒー1本110円。 俺が出した5円玉全部足したよりまだ高い、全然高い。 「……社屋のご祀神を縁切り神社に見立てんのは罰あたりだっての」 「よかった」 「お前は?なに願った」 「内緒です」 「だろうと思った。もー行くぜ、凍えちまうよ」 「あ、待ってください」 ぼんやり立ち尽くす千里をせっかちに促して祠から去る。 初詣っていうにゃ妙な成り行きだが、形だけでも正月らしいことをしてみるのは悪かねえ。 安子と行った初詣の思い出を不本意ながら上書きし、胸に疼く元カノへの未練をほんの少し慰める。 すれっからしの寒風に追い立てられ引き返す途中、おもむろに歩調を上げて俺を追い抜いた千里が悪戯っぽく囁く。 「そんなに知りたいですか」 「どうでもいい」 「久住さんの腰痛が治るようにってお願いしておきました」 「誰のせいだ誰の」 コイツとの腐れ縁が来年に持ち越すかどうかはわからないが、その時まで神頼みのネタは保留しておく。

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