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第44話 醍醐味

 本当にそろそろマジで一人暮らし始めたい。  マジで、この辺で、仕事には歩いていけるくらいがいいよなぁ。けど、駅チカも魅力的だよなぁ。けどけど、日々の生活での便利さはやっぱ会社の近くじゃん? 毎日通うのは会社な訳だし。駅近いからって便利なのはたまに出かける時くらい? デートとか? それだって、ほら、ほらほら、今はさ、静と宅デートで遠慮なく、色々と。 「あ、間宮さ、ん」  イチャイチャができるじゃんか。 「すみません」  呼ばれて振り返ると……確か……今年の新卒で入った女の子がいた。事務所の総務のとこ。小さな会社だから、総務には女の人が元から一人いて、そこに、この女の子が加入した感じ。もちろんチェックはしてたさ。女の子だし。入社した時は右手だけど指輪してて、それがチラリと見えたから。シンプルなシルバーの何も装飾のない指輪だったからさ、あー、彼氏いるっぽいなぁって思ったっけ。それに、職場だし、だからそっからは積極的には接近しなかった。 「あの、回覧を……」 「あ、サンキュー」  でも、職場恋愛とかって意味なら静もそうなんだけどさ。それはまぁ、ほら、職場とか以前に同性っていう問題を軽くあっという間に乗り越えちゃったくらいだからさ。だから、職場恋愛マズイっしょ、くらいのことじゃ俺らを邪魔できないっつうかさ。 「それと、これ、総務の……出張の経費分の申告書なんですけど」 「あ、俺、なんか間違った?」 「いえっ、レシート添付、今回から必須になったんです。それで、使いましたのメモだけじゃなくて」 「え? マジで? あったかなぁ」  そうだったっけ? あーでも確かに……そんなことを言われたような……言われてないような、なんて呟いて、髪をかき上げた。 「そしたら、もしかして経費で落ちかったりする?」 「あ……」 「マジで? あー」  レシートどっかにあったかなぁ。ゴミ箱ん中にまだあったりすっかなぁ。 「あ、じゃあ……あの今回だけ、次からは必ずお願いします」 「マジで?」  やったー! って、その時、ふと顔を上げた。 「はい。特別に……です」  ……何してんだ、あいつ。 「サンキュー、そんじゃあ、次から気をつけます」  かくれんぼ? っすか?  見つけたのはメガネの黒髪。俺が顔を上げた瞬間、小さめの工具のある棚にそのメガネがパッと引っ込んだ。そんで、そこから出てくる気配なし。けど、そこさ。 「……」  ほら、いた。この棚、別にこっち側からも入れるからさ。どっちからもどうにでも取れる様に壁に棚をくっつけてないんだ。だから、そこで隠れてても反対側から全然背後に回れるんだけど。  そんで、めっちゃ隠れられてるんだけど。  二十歳になって、珍しいものが見れた感じ。頭隠して、尻どころか丸ごと隠さず状態の無防備な背中とか。 「……」  いつか気配に気がつくかな。 「……」  どうだろうな。 「……」  つうか、そもそもどうして隠れてんの? もう製造のヘルプは終わったし。あ、なんか持ってる。図面かな。それを届けに来た感じ? 「……」  そんで、この調子じゃずっと気がつかないんじゃ。静のことだから。すこーしだけ天然入ってるから。 「………………わっ」 「ひぇっ」  さすが口下手な静だ。その名の通り、どんなに驚いてもでっかい声で叫ぶわけじゃなく、小さく悲鳴を上げて、振り返り、その場にペタンと尻餅をついただけ。 「リアクションちいさっ」  ここ、反対側からも入れるようになってるからと教えて笑うと、小さく「ごめん」と呟いて、お腹のところをぎゅっと押さえた。 「何? もしかして、かくれんぼじゃなくて、腹が痛かったとか」 「ぇ? 違っ」 「わり、気がつかなかった」  かくれんぼしてんだと思ってたって、その手を掴むと、大慌てで首を横に振って。 「平気っ……だ、大丈夫っ、あのっ」  腹のところを片手でぎゅうって押さえつつ、癖なんだろうな、また口元を手の甲で抑えて、手に持っていた図面がバサバサと床に散らばった。俺はそれに構うことなく、その腹んところを押さえてる手の上に手を重ねてやった。 「穂、穂沙クンっ、ここじゃ」 「へーき。今日製造のメンバーほとんど出張。俺と数人しか残ってないよ。そんでその数人は今、奥んとこで次の仕事の準備してるから、ここは俺一人」 「……ぁ」 「だから、安心しな」 「……」  手は、あったかかった。だから、多分、一瞬痛かっただけ、なんだろ。そんで、今、ここに人はいないと知ってホッとしたのか肩の力がふわりと抜けたのを感じた。 「あ、あの……」  職場の人はマズイっしょ、って思うよ。  あんま良くないっしょってさ。  けどさ、そういうのかるーく飛び越えたんだ。なにせ、女の子大好きで、入社してきた女の子の彼氏アリナシはとりあえず確認しちゃうような俺が男の静を好きになったんだ。今となってはさっきの総務の子の右手に指輪があるかどうか確認するのさえ忘れちゃうくらい、こっちがいいんだ。  こっちの、かくれんぼをして真っ赤になるような静の方が。  その時点でさ、色々、一般的な「マズイっしょ」ルールは飛び越えてんじゃん? だから、まぁ、ここは職場でマズイかもしんないけど。 「ありがと、穂沙クン」 「いーえ、図面落っこった」 「! ご、ごめんっ」  チラリとこっちを伺う静が可愛くて。慌てて図面を拾う静が可愛くて。  これこそ職場恋愛の醍醐味じゃん? どさくさ紛れでこっそりキス、っていうのさ。 「どーいたしまして」  だから、そう言いながら、棚に隠れて、お礼代わりに軽いキスを一個した。

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