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第2話 僕の妹
僕の妹、―――|中知羽里《なかちうり》は、ちょっと変わっている。
朝、目が覚めた彼女は布団に入ったまま、周囲の様子を入念に観察する。万が一、大切な夢から醒めてしまったら困るので、目覚ましは鳴らさない。きょろきょろと一通り、部屋に異常がないかを確認すると、体を起こす。パジャマから制服に着替えながら、隣の家に住む幼なじみがうっかり扉を開けてしまったときのことを考えながら、かわいく驚くために身構える―――が、今日もそんなラッキースケベ的な幼なじみは存在しない。
制服に身を包んだ彼女は、本棚の前に立ち、しばらく悩むと、「農業の基礎」「猿でも分かる商業の基本」「麹の仕組み」の三冊を選び、読みかけのBL小説と一緒に、学生鞄に仕舞う。できるだけ勢いよく扉を開けて、何事も起きないことを確認すると、階下のダイニングへと向かう。用意されたサラダとスクランブルエッグをゆっくりと食し、牛乳を飲む。ぽやんとした見た目に反して、意外にもきっちりしているため、性格的に寝坊することはないが、最後に食パンを咥えたまま、「いってきま〜す」と挨拶をし、勢いよく扉を開け、家を出る。
曲がり角はできるだけ助走をつけて一気に曲がり、工事現場のマンホールや袋小路を探しながら登校する。高校の門をくぐり、一度外に戻って、ゴブリンがいないかを確認し、教室へと足を向ける。校内の、スキンシップが激しい陸上部の先輩後輩を観察し、自分の平凡顔の幼なじみをつい目で追ってしまう生徒会長を観察し、ヤンキーの尻を見ている眼鏡の優等生をこっそり観察する。
空からなにかが降ってこないかをちらちら確認しながら現国の授業を受け、校門の外が突然山の中になっていないかをそわそわ確認しながら数学の授業を受け、いつ教室の床が光りだしてもいいように警戒しながら世界史を学ぶ。いつ校庭に不思議な城が出現してもいいように、体育の授業中も自らの鞄をそばに置いておく。
昼休みにお弁当を食べ終えると、図書室で怪しげな本を一通り開いて確認し、食後の散歩をするふりをしながら、理科室、校舎一番北の十三階段、校舎裏、体育倉庫を見回って教室に戻る。午後の授業を終えると、教室の扉を開けて外を確認し、掃除を終え、要注意の生徒会室に出向く。午後4時44分には教室に戻り、きょろきょろと誰もいないことを確認して、白壁に手をつき、校舎を後にする。
黄昏時には、交通量が多くはないのに、なぜか大型トラックがよく通る、公園の横の道をバレないように徘徊し、帰路につく。夕飯を食べ終え、自室に戻ると、分厚い魔方陣の本を用意して、床に水性マジックで円を書き、その上で寝そべって宿題を終える。
夜9時にはコンビニに行く、と家族に断りを入れてから、袋小路を確認しながら、若い男性店員が二人シフトに入っているコンビニに出向き、苺スフレわらび餅を買う。OLや疲れてげっそりした会社員が一人で歩いていそうな道を通り、家に戻る。
購入した苺スフレわらび餅を食し、風呂場に向かう。ビニールに入れた服と靴を持ちながら、シャワーを浴びると、お風呂の底に渦的なものがないかを確認しながら湯船に入り、ほうっとため息をつく。風呂から上がり、髪を乾かし、歯を磨いて自室に戻ると、新品の運動靴を履き、ようやく就寝する。
―――それが彼女の日常。
僕より一つ年下の彼女がその習慣をはじめたのは、中学二年生のときだった。
はじめの頃は「ああ、そういう時期あるよね」と高をくくっていた僕も、まさか彼女が高校一年生になるまで、その習慣を続けるとは思ってもみなかった。ぽやんとしているくせに、ずいぶんと頑固で、一度決めたことはやり遂げるタイプらしい。
そう、僕の妹は、異世界を目指している。
羽里はその習慣を微細も変えることなく、四月に僕の高校に入学してきた。
耳より少し下で切りそろえられた黒髪、人形のように長いまつ毛で覆われた大きな瞳、ぷくりとして花びらのような唇、まだ幼さの残る頬は透き通るように白い。
肌の白さとそばかすがコンプレックスで、毛先がくるっとしてしまう前髪を伸ばして、できるだけ顔を隠そうとしている僕とは、似ても似つかない。
そして、
「お兄ちゃん、魔方陣を描こう!」
ーーー今。
←↓←↑→↓←↑→↓←↑→
これから来る夏を感じさせる、心地のいい五月の午後だった。
午前授業で解散となったその日、蒼蒼と美しく澄み渡った空の下、その爽やかな初夏の風が僕の部屋のカーテンをふわふわと揺らしているというのに、羽里は、地下五十六階くらいの密室で、蛙と蛇の干物を、ぼろぼろの古鍋で煮込まれた紫色の液体にいれた後に、魔術師が言う台詞を吐いた。
僕はお誂え向きに、ふうむ、と考えこむような動作をした。
僕は、僕の部屋の僕の椅子に座った僕の前で、にこにこしている妹の手に、一体どこで見つけたのか、恐ろしく古いぼろぼろの分厚い本の存在を確認した。なるほど、と僕は思う。どうやら今回はあの古ぼけた本を、どこかから見つけ出してきたようだ。
妹は毎度毎度、このように、一体どんな生活をしていれば、そんな物にぶち当たるんだ、と言ったような明らかなアーティファクトを発見しては、平然としれっとした顔で、僕の前に持って来る。どこで見つけてくるのか、ということは、僕の知るところではないが、何故ぶちあたるのかという疑問の答えはわかる。
先程説明したような生活をしているからだ。
僕のような、正しい真っ当な思考を持った、ごくごく普通の一般人からしてみれば、その恐ろしく奇妙奇天烈摩訶不思議な日常を送っている彼女ではあるが、異世界転移を本気で目指している変態的見地から考えてみると、彼女のその奇行は、着実に成果をあげていると言える。
そして、兄のことを、「お願い」と一言言えば、BLゲームであろうが、BL漫画であろうが、BL小説であろうが、魔法陣であろうが、なんでも一緒に共有できると思っている彼女は、こうして、ぽやっとした顔で、兄に無理難題を提示してくるのだ。
あくまでも僕は、兄としての威厳をもち、兄として敬わられ、兄として大切にされる関係を望んでいるのである。なので、たとえ僕が多少妹には甘い性格であろうとも、僕は言わなくてはならない。僕は意を決して、口を開いた。
「嫌だ」
「え!どうして?!」
難しい質問だ。
というか、彼女はどうも、わたわたと慌てた様子で僕のことを見てくるが、冷静になって考えてみると、その問いは僕が問いたい問いだった。
「どうして僕が魔法陣を描くのを手伝わないといけないんだ」
「これを拾ったの」
先ほど僕が目にした、分厚い古ぼけた本だった。
その今にも崩れてしまいそうな本は、彼女が近所の神社の、軒下で見つけたのだそうだ。大抵そういうところには、一昔前の小学生が歓喜しそうな性的な雑誌が落ちているものだ、と踏んでいたが、まさか魔方陣の本が落ちていることがあるとは。僕的には新発見だった。
「随分、古そうな本だな。字もよくわからないし」
雨ざらし野ざらしにされていたのだろう。おそらく元より古い本であったのだろうが、もはや表紙も中身もまっ黒で、かろうじていくつかの魔方陣の絵が見てとれた。
「お兄ちゃん、よく見て」
「―――あれ? 字が」
「そうなの!日本語でも英語でも、アラビア語でもない。絶対に異世界の本だと思って」
そんな、まさか、と、僕は一瞬動きを止めた。よく見てみると、確かに見たことのない模様のような文字が羅列しているのが見えた。
「あの神社はきっとそういう『場』なんだと思うの。異世界転移は、要するに『神隠し』なんだし、なにかしらの入り口が、あの神社にはあるのかもしれないと思って」
心霊特番で、よく霊媒師が言っている、なにかおかしな現象が起こる「磁場」というものだろうか。おかしい。彼女はいつも通り、ぽやぽやしながらおかしなことを言っているだけなのに、なぜか筋が通っているような気がする。
「今から行くから、準備してね。お兄ちゃん」
なにを? というのが顔に出ていたのだろう、彼女は続けてこう言った。
「武器」
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