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第4話 呪いの猫

  「お兄ちゃん、祈りを捧げて欲しいんだけど」  そんな神目線じみたことを羽里が言い出したのは、あの異世界召喚紛いの事件から数日が経った金曜日の夜だった。  母さんの作った星空シチューを食べ終わり、僕がぼやっとテレビを見ているとき、通常の家庭であれば、和やかな団らんがあってもいいところを、すごい圧力で、妹に、信仰を強要された。  誰目線で、誰に祈ればいいのかは、この時点では、よく分からなかったけれども、十六年間日本人でやってきた僕が祈るのは、初詣でお願いごとをするときくらいのものである。 「嫌だ」 「え!なんで?!」  また、妹はわたわたと慌てている様子だが、その問いは僕が問いたい問いだった。サッと彼女が取り出したのは、なんと毛の長い黒い猫のぬいぐるみだった。  僕は思わず、ヒッと小さく悲鳴をあげてしまった。  猫のぬいぐるみなんて、ちょっと探せばどこにでもある。おもちゃ屋にだって、ゲームセンターにだって、いくらだって並んでいる。僕は、特に猫を恐れているわけではない。非常に愛らしい動物だと思うし、本物だろうと、ぬいぐるみだろうと、見たところで、悲鳴をあげるような事態は、今まで生きてきて一度だってなかった。  が、しかし。  これは、―――なんというべきか、確実に呪われている。  その黒猫は、もはやグレーとも言えるほど、まばらに色褪せた毛が、伸び放題になっていて、赤い瞳を見開き、なぜかひらひらとしたドラキュラのような服を着て、僕のことをじっと見ていた。怖い。心なしか隈のように、目の下が暗い気もする。生気がないわりに、妙に眼光が生々しく、もはやぬいぐるみというよりは本物の剥製のようで、今にも動き出しそうだった。怖い。普通に生きていて、一体どこで、こんな呪物に行き当たるというんだろう。干物じみた怪しい老人が、暗い袋小路のつき当たりでやっている古道具屋、みたいなところに売っていたのだろうか。もう、そんな店を見つけた時点で、異世界転移など目指さなくても、十分にファンタジーだ。そこからめくるめく奇怪な物語が始まることだろう。 「どうして僕はこれに祈りを捧げないといけないんだ?」 「これは、呪いの猫なの」  知ってた。 「この猫に祈りを捧げることで、異世界転移ができるのか?」  確かに、見た感じ、アンティークの猫なんだろうし、何かしらの呪物だろうとは思うけれど、どちらかと言うと、異世界転移よりも、そのまま魂を取られて、霊界にでも誘われそうだ。 「お兄ちゃん、よく見てよ。この目の色を」 「赤い目?」 「そうなの。わざわざ昔の職人さんが、こんな目の色のぬいぐるみを作ると思う?赤目の猫はいないでしょ」  確かに。日本に生まれてから、ゲームやアニメや漫画で、さも当たり前のように赤目のキャラクターが出てくるから、失念していた。いや、待てよ。アルビノっていう可能性はありそうだけど、黒猫だしな、と思い至る。まあ、だとしても、現在作られたものならとにかく、昔からある人形やぬいぐるみに赤目をあしらうのは、珍しいかもしれない。 「異世界のぬいぐるみってこと?」 「その可能性が高いと思うの」  それはどうなんだろうか。確かに少ないだろうが、昔にだって、想像力豊かな人間はいただろうし、赤い目の黒猫のぬいぐるみを作りたいっていう人がいても、そう変な感じはしないけどな、と思う。それに、異世界に赤い目の猫がいるのかということも、わからない。危うく、うっかり納得してしまいそうになり、彼女の言い分に汚染されてしまっている気がして、僕は身震いをした。  それに、彼女は『異世界の』と言ったが、あくまでもラノベ等の創作物に出てくる異世界の、ということを忘れてはならない。 「たとえそうだとして、どうして僕が祈ることに?」 「三日三晩、一緒に行動してみたんだけど、なんにも起きなかったの」  もちろん祈ってもみたんだけど、と、言う羽里は、少し残念そうだった。どうしてなんだろ、どうやったらいいのかな、と首を傾げて悩み、そして、彼女は続けた。 「だから、男の人の生気が必要なんじゃないかと思って」  人の生気を吸う前提の話だった。  なるほど、この妹は、自分で何も起きなかったからと言って、僕のことを頼ってきたのかと思いきや、僕の生気を頼ってきたのか。異世界転移どうこう以前に、うちの妹はぽやんとした顔をして、悪魔なのかもしれない、と思う。 「お兄ちゃん、これは、異世界の封印された邪神様の仮の姿。」 「じゃ、邪神?なんだそれ。もっと普通の神じゃだめなのか?」 「お兄ちゃん、普通の、たとえば慈愛の神でもいいけど、その女神様が封印されたぬいぐるみの毛が、こんなことになると思う?」  思わなかった。  まずい。どうしてこんなに彼女の言っていることが、筋が通っているように感じるんだろう。確かに普通の、慈愛の神が封印されてる猫があったら、なんだか周りに花が咲いたり、あたたかくなったりはしそうだけど、その猫の色褪せた毛が、こんな草むらみたいに伸び放題なんてことは、なさそうだった。  いや、待てよ、と思う。まだ邪神が封印されていると決まったわけではないから、やっぱり幽霊とか悪魔とか、そういう路線でもいいはずだった。 (どうして神限定で封印されていると分かるのか。そもそも猫じゃないか)  そこまで考えて、僕はそのとき、猫の着ているマントの裾に、値札のようなものがついているのに気がついた。値札、ではなく、それは商品タグであった。商品タグというものは、通常商品の説明が書いてあるタグである。先程、妹に「どこで見つけたんだ」と尋ねたら、友達にもらったと言っていたが、その友達は、本当に骨董品屋あたりで見つけたのだろうか。手書きで書かれたそれには、当たり前だが、商品の説明が書かれていた。 『邪神』  僕は愕然とした。そして思った。なるほど確かに、この猫には、邪神が封印されているようだ。 「ね」  なんということだ。妹はこの一文字で全てを片付けようとしていた。だから、おとなしく生気を差し出して、と言わんばかりに、すっと猫を手渡された。 「お兄ちゃんお願いっ」と言って、要求される内容が、どんどんおかしなことになっている。よく思い出してみよう。すこし前までは、もっとかわいい要求だったように思うのだ。例えば、届かないものを取って欲しいだとか、虫がでたからどうにかして欲しいだとか。が、今や、要求されていることは、「邪神に生気を差し出せ」である。いくらかわいくお願いされたとことで、到底その希望は叶えられそうにない。 「お兄ちゃん、お願いっ」 「うっ………」 「大丈夫。今日はちょうど十三日の金曜日だし、安心して」  そういう現世の欧米限定の縁起の悪い日にちが重要なのかは、甚だ疑問だ。仮にそういった宗教的な意味合いが日にちに求められているのだとしたら、仏滅でもいいのではないか、―――と考えたら、今日は仏滅でもあった。そして、なんと新月でもある。すごい、と、僕は妹を見直した。  彼女のいう通り、こうして今日という日は、もはや邪神を呼び起こすために存在しているわけだった。その、ひしひしと伝わってくる彼女の気合いから、邪神猫への期待値の高さが窺い知れる。そして、一体この事実のどこに安心する要素があるというのだろう。  僕は、安心できなかった。 「だから、嫌だよ」 「大丈夫、ぬいぐるみを肌身離さずいればいいの」  良いわけがなかった。  健全な高校男児が、肌身離さず呪われた猫のぬいぐるみを抱えているという事実は、もれなく、恐ろしい犯罪の匂いがする。たとえ僕が、健全な、アンティークドールのコレクターだとしても、始終それを持ち歩くことはないだろう。しかも、それが毛が伸び放題の呪い猫なんだとすれば、友達ができないどころか、町中でひそひそと怖がられる危うさだ。なんて恐ろしい。僕は意を決して口を開いた。 「嫌だ」 「え!どうして?」  僕の思考でも読んだように、私は鞄に入れていたけど、と、妹は言った。でもやっぱり最低限、ぬいぐるみを持っているのが妹のような女の子であれば、まだ世間は許す事だできるのではないか、と考える。むむむ、と押し黙ってしまった僕を見かねて、彼女は言った。 「じゃあ、家で祈るだけでいいから!」 「―――ああ、それくらいなら」 「やった!じゃ、寝る前にでも、祈っといてね」  私の異世界転移か異世界転生頼んどいてね、と言って、彼女はそそくさと部屋へと戻って行った。  なんだろう。この最初に無理難題を吹っかけておいてから、すこしレベルを落とした要求をして、あっさりそれを叶えてもらう、という悪徳商法のような手口は。取り残された僕は、一人ため息をつくのだった。  その夜、自室で、僕は呪い猫と向かい合っていた。  ほかの家族に『邪神』と書かれた札を見られては、おそらく、例の、左目が疼く下りを見られてしまったくらいの、死にたくなるほど困ったことになるので、丁寧にハサミで外させてもらった。  見れば見るほど、おどろおどろしい出立ちだ。どうやったらぬいぐるみの毛がこんな、呪われた市松人形みたいなことになってしまうんだろう。それにしても、祈りを捧げるというのは、―――。 「なにをすればいいんだ?」  儀式的なイメージだと、蝋燭でも立てたりするのだろうか。だが、当たり前だが、そんなものはなかった。仮に男子高校生の部屋に蝋燭があるのだとすれば、それは仏壇用の蝋燭のお得パックを買いすぎた母親が、置く場所がなくて置いちゃえ的なときだけだろう。そして、うちには仏壇はない。  とりあえず窓際にでも置いてみるか、と、猫を窓辺に移動させた。適当なことでも祈ってみようと思い、なにも出てきませんように、と、跪いて祈ったそのとき、猫はうご―――かなかった。が、カチャリと扉を開ける音がした。 「……乃有くん……」  そう背後でハッと小さく息を飲む母さんの音が聞こえた後、ぱたりと扉が閉まる音がした。  完全に黒歴史になった。値札を切り取るよりも、先に気にしなくちゃ行けないことを失念していた。 (鍵ーーー!!!)  おかしなことに、僕の左目の邪眼はうんともすんとも言わなかったが、僕の心は闇に染まった。  そして。  項垂れた僕の頭の上から、からかうような声が聞こえたのだった。 「―――我輩を呼んだのは、お前か?」  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→  心が闇に染まり、床で俯いていた僕は、その低い男性の声に「へ?」と、顔を上げた。僕の眼の前には、先ほどのおどろおどろしい呪い猫があるはずだったのだ。そう、先ほどまで、恐ろしいとすら思っていた、邪神が封印されているはずの呪い猫が。そして、その猫は今、僕の目の前で動き出し、僕に語りかけてきたのだ。その猫は「心地よい闇だ」と言った。もしかすると、先ほどの僕の心の闇を糧にして、本当に復活してしまったのかもしれない。だとしたら、それは、とんでもない事態であった。  だが、僕の前にいる、猫、ーーーいや、確かに猫ではあるのだが、その、ふわふわと浮かび上がる、ドラキュラなような服装をした、光る赤目の、その姿を見て、僕は思わず、つぶやいた。 「二頭身…」 「おい!」  先程までの、おどろおどろしさは一体どこへ行ってしまったというのだろう。目の前にいる猫からは、全く恐ろしさを感じない。スンと冷静になった僕は、「邪神様を目の前にして、なんていう態度だ」と憤慨するその猫を、改めて観察してみたのだ。大きな二つの黒い耳、大きな逆三角形の三白眼の赤い瞳、ドラキュラのようなひらひらの服に、黒いマント。さっきまでの毛は一体どこに行ってしまったというのだろう。  完全に、ただのぬいぐるみだった。  僕は手を伸ばして、そのぬいぐるみに触ってみた。「おい」「やめろ」「無礼者」と繰り返す猫に構わず、ひたすらぷにぷにとその猫の頬をつねった。怖さは全く感じなかった。そして、結論が出た。 「しゃべるぬいぐるみだな」 「お、お前!」  そして、その全く威厳のない姿を見て、思った。  願い通り、僕の心の闇を糧にして、邪神が復活した様子なのだから、これは羽里に引き渡してしまおう、と。妹は小躍りして喜ぶだろう。僕はその猫を抱き、立ち上がると、ドアの方へと足を向けた。すると邪神は「おい」「待て」と若干焦ったような声を出し、そして、苦し紛れに、邪神っぽいことを言い出した。 「妹がどうなってもいいんだな」  ピクッと僕の体が震えた。確かに、これはただのしゃべるぬいぐるみに見える。だが、本当に、もし、本当に、この中に邪神が封印されているのだとすれば、それを妹に引き渡すのは、確かに、大問題であるのだった。僕は動きを止めた。 「本当に、邪神なのか?」 「ふん、ようやく話をする気になったか。今はまだ力が完全に戻っていないだけだ。そのうち恐ろしい姿に戻って、お前なんか食べてやるからな」  僕は表情でその猫を摘み、ゴミ袋に放りこみ、その袋を口を閉じようとした。「わ、悪かった!食べない!食べないから!」と、邪神がゴミ袋の中で、もごもご動いていたので、仕方なく、出してやることにした。  そもそも邪神というのは、一体どういう位置付けなんだ。願えば何かを叶えてくれるのだろうか。それとも、世界を滅ぼすのだろうか。とにかく、意味もなく、理由もなく、呼び出してしまったと告げるべきだろうか。その『邪神』という言葉の圧力に負けて、僕は一瞬のうちに、様々な可能性を考え、怯えかかった。が、目の前の平和そうなぬいぐるみを再び目にした途端、全ての恐ろしさはどこかへ消え去った。多分、 ーーー、 (どう転んでも、大したことはなさそうだな…) 「お前、失礼も大概にしろよ」 「え!まさか心が読めるのか?」 「顔に出てんだよ!」 『邪神の怒り』と言葉にしてしまえば、それはマグマをも溶かすほどの怒りのように思えたが、実際は、三歳児がお菓子が食べたいと、ぷりぷり怒っているほどの威力だった。僕は失礼だと頭ではわかっていたが、二頭身の猫のぬいぐるみに対して、態度を改めるつもりは特になかった。それで、一体これからどうなるんだろうと様子を見ていたら、向こうも、それでなんなんだ、と言ったような態度で待機していることに気がついた。 「え、僕は、特に邪神に用事はないけど」 「え!!!!」  いや、確かに、祈りを捧げてしまったのは、間違いなく僕ではあるのだけど、ーーーと、そこまで考えて、あ、そうか、と、僕は気づいた。祈りを捧げたのは僕だった。  目の前の、邪神は、その逆三角の三白眼をまあるくして、固まっていた。そして、僕がじっと見てるだけなことに気がつくと、ハッとして、ぶんぶんと首を振ると、こほん、と、小さく咳払いをした。そして、言った。 「明日になれば、お前は必ず、我輩の助力が必要になるはずよ」  僕は、ポカンとしてしまった。その様子を見て「お前、まさか我輩が苦しまぎれにそんなことを言っていると思っているわけじゃあるまいな」と憤慨していた。明日、何かが起きるんだろうか、と首を傾げている僕を見ながら、邪神はにやにやと笑うと、可笑しそうに言った。 「これから、お前の運命はちょっと面白いことになるぞ」  僕は思った。  僕にはちょっと面白い妹がいる。そして、先日、そのちょっと面白い妹のせいで、魔法陣を書くことになり、ちょっと面白いことに、異世界の人っぽい長い髪の男の人が一瞬だが、召喚されてしまった。そしてさらに、ちょっと面白い妹に聞くところによると、友達から譲り受けたという、ちょっと面白い呪いの猫を渡され、祈ってみたら、それにはちょっと面白い邪神が封印されていたのだ。  僕の人生がこれ以上、ちょっと面白いことになってしまったら、もうそれは、ちょっと面白いで済まされないのは明白だった。  しかも、邪神目線での『ちょっと面白いこと』である。 (まずい。この先の僕の人生は真っ暗かもしれない!)  一体何が起こるのだろう、ゴジラが攻めてくるのだろうか、と考え、身震いする。僕の運命は、というのだから、そんなに大きなことではないのかもしれない、と思い直す。もしかすると、僕がゴジラに変身してしまうのかもしれない。  その様子を見ながら、相変わらずくつくつと、邪神が笑っていた。 「心地よい闇だな」  (くそう、――――邪神め)

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