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第13話 砂漠の日常

  「あっ、待って、ん!え、エミル様、そ、そんな大きなの、無理ですっ」 「大丈夫だよ。ノア。優しくする。逃げないで」  耳元で、優しくそう囁かれて、ビクッと震えてしまう。  エミル様の実験室に、連れてこられた僕の目の前には、大きな注射器を持ったエミル様がいる。あの日から、もう半年の月日が流れていた。  そう、あの日、エミル様の恋愛相談を聞いたあの日から、エミル様は、本当に、憑き物が落ちたかのように、開き直り、なぜか僕に、嫌がらせかのように、実験と称していろんなことをするようになった。  そして、奴隷である僕には、もちろん拒否権はなく、今も、見たこともないような大きさの注射器で、血を吸い取られている。一体何に使うのか、本当に恐怖でしかない。  毎日、「おはよう、ノア」と、それはそれは美しい、女神様のような笑顔で名前を呼ばれる度、僕は恐怖に震える毎日を送っている。  それが僕がこの世界で抱えている闇の一つである。 「ええええエミル様、そんなに僕の血を取って、一体何に使う気なんですか?」 「うんー、人間本体を検体にしてみたことが、今までなかったんだ。あ、今度、爪切った時に、爪もらってもいい?髪も集めてるんだけど」 「〜〜〜っっ!!!」  僕本体になんの需要があるというのか。  あの日以来、エミル様はとても表情が豊かになった。それは、アルノルト騎士団長も、セバスさんも、みんなが驚いていて、もちろん僕も驚いている。だが、それはなぜか、実験動物である僕にだけ、向けられている感情なのだ。  よくはわからない。  よくはわからないが、おそらく、エミル様は、僕という格好の実験動物を見つけることで、失恋の痛手から立ち直ろうとしているのではないかと思うのだ。  僕だって逃げてしまいたい。逃げてしまいたいけれども、僕は現状、エミル様に買われた奴隷であり、そして、物語の結末を迎えるまで、逃げることはできない。  それに、あの日のエミル様、それから、あの日までのエミル様を思い出すと、僕はそれでも放っておくことができなかった。あんなに悲しそうに生きてきた人が、こんなにも生き生きしているのだ。だが、しかし、エミル様のことを放って置けない僕の心に広がる黒く深いもやもや。  その名は『絶望』である。  一人で部屋にいるときに、くっくっくという嬉しそうな邪神の笑い声が、毎日のように聞こえてくる。そして、この、とち狂った魔術師は、やたら色っぽい声で、毎日のように、僕に恐ろしいことを尋ねてくる。 「ねえ、ノア。私の精液をノアの体内に入れてみてもいい?」 「待ってエミル様!ほんと待って!それ、本当に、一体なんの研究なんです?!」 「試しに、一回だけ」  何故、何のために、どうやって、の答えが、何一つ思いつかない。エミル様の精液を僕が体内に入れると、何が起きるというのか。ーーーと、そこまで考えて、僕は、まっかになって、固まってしまった。 (精液を、体内に…って、そういう?)  僕が「え!」と、カチンコチンになって固まっている前で、エミル様が大きなスポイトを取り出したのが見えた。まっかになってしまっていた僕は、自分の頭が、スンと冷静になるのを感じた。  まさかエミル様は、あのスポイトで、自分の精液を、僕の鼻の穴にでもつっこもうというのだろうか。  新しい。  いや、そうではなかった。それは、とんでもない変態プレイであることに、僕は気がついた。  そして一度冷静になった僕の頭は、エミル様が、下穿きをくつろげ出したところで、再度、冷静ではいられなくなった。 (え、まままま待って。今?!ここで精液を採取するの?!)  僕の脳裏に、一瞬で、エミル様の、艶かしい、恐ろしくピンク色な映像が浮かびかけた。僕はバッと両手で、まっかになった顔を押さえた。僕はか細い声で「エミル様、本当にだめです。待って」と言うのが精一杯だった。  そして、僕を見て、その存在すら忘れていたかのようなエミル様は、きょとんという顔をした。僕は指の隙間からそれを見ていた。  それから、僕の様子を見て、くすっと笑い、また無駄に色っぽい声で言った。僕は、この無駄に色っぽい声を、本当によく聞くようになってしまった。そうして囁かれる言葉は、僕の想像をはるかに越えた恐ろしい言葉ばかりなのである。聞いて欲しい。このとち狂った変態魔術師の言葉を。さあ、どうぞ。 「ノアも一緒にする?ーーー採取」  僕はもう倒れそうだった。  渋るエミル様を促して、背中を押し、今日のお仕事へと向かわせるまで、結局、小一時間かかってしまった。前までの氷のようなエミル様も、あれはあれで、困った人ではあったけれど、こうして開けっ広げになったエミル様は、なんだろう…なんだか頑固なおじいちゃんみたいな雰囲気もあるのだ。いや、ファンキーめの、ちょっとおちゃめな、頑固おじいちゃんというか、説明するのは非常に難しい。  ただ、エミル様は、目に見えて元気になった。だからそれは、僕もやっぱり、嬉しく思っている。  こうして、僕は、命からがら、採取の危機をかいくぐっている。  そして、エミル様の、今日のお仕事なのだが、ーーー。  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→ 「えええエミル様ああああ。お、大きすぎます!!!」 「そんなことないよ。ノアならきっと、受けとめられるよ」  僕は今、砂漠のど真ん中で叫んでいるところだった。  そして、やたら僕に対して開けっ広げになったエミル様は、実験と並行して、僕を自分の仕事に付きあわせることに決めたらしい。どうしてなのかはわからない。だけど僕は、こうして数日に一度、一緒に砂漠のど真ん中に連れてこられては、叫ぶ日々を送っている。  今、僕の目の前にあるもののことを、説明させて欲しい。  巨大な|そ《・》|れ《・》。  ぬるっとした、透明な液体を、たらたらと滴らせ、その全体は、太陽に反射して、てらてらとイヤラしく光っている。ぴくっぴくっと、時折反応を見せる、太い棒状の部分は、赤黒い色で、よく見ると血管が浮き出ているのだ。頭の部分は、見るからに凶悪で、数々の人間を泣かせてきたことが予想された。僕のことを獲物だと判断したように、口の部分から、ツーっと粘着質のある、透明な液が再度、滴り落ちた。 「や、やだ。こんなの、絶対に無理です!」 「ノア。大丈夫だから、力抜いて」  ひくっと僕の頬が引き攣った。  僕は本当に苦手なのだ。正直、日本のサイズですら、僕は涙目になるくらいなのだ。まさか、こんなに巨大な、信じられない大きさのモノを前に、僕が耐えられるわけがなかった。そして、本当に涙がこぼれ落ちてしまいそうに、なりながら、自分を保つために、叫んだ。 「こんな、こんな大きな、サンドワームだなんてえええええ!!!!」 「大丈夫だよ、ノア。いつものことじゃないか」  僕の目の前には、百メートルはあろうかという、巨大なサンドワームがうねうねとその巨体を、あらわにしたところであった。這う度に、ズシンズシンと地面が揺れ、ぶわっと砂埃が舞う。口元は布で覆っているが、僕はその度にぎゅっと目を瞑った。  そう、僕は、エミル様の仕事の一貫である、王都近郊のサンドワーム討伐に、毎度駆り出されているのだ。  僕は、一介の奴隷でしかないというのに、エミル様は、初回から特に説明もなく、僕の首ねっこをつかんで、本当に砂漠に放り投げる勢いで、いや、本当に、砂漠に放り投げた。  僕が、まだ頭に、たくさんのはてなマークを浮かべている前に、大きな影が落ち、そして振り返ったところには、巨大なミミズがいたのだった。  どんなスパルタだ。  エミル様は、まるで僕が、ミミズを嫌いなことを知っているかのように、「こんなのが|王都近郊《ノアの近く》をうろうろしているんだよ。殲滅したいだろう?」と、尋ね、そして、それから、僕は本気で殲滅するために尽力しているのだ。だけど、毎回ソレを前にすると、どうしても恐ろしくて、涙目になってしまう。そして、何故か、それを見て、エミル様はにやにやと嬉しそうに笑っているのだ。  よくはわからない。  本当によくはわからないのだが、エミル様は、僕という、ミミズに怯える哀れな存在を笑うことで、失恋の痛手から立ち直ろうとしているのではないか、と、僕は思っている。そう、実験同様に、僕はこうして、エミル様の面白おかしな失恋回復に巻きこまれ、毎日、いろんな闇を抱えながら過ごしている。  ユクレシアでの経験がなければ、僕はとっくに、ミミズの腹の中に収まっていることだろう。本当に、あのとき、ヒューにたくさん魔法を教えてもらっておいてよかった。ユクレシアの魔法は、この世界でも使うことができ、僕は本当に、ヒュー様様だと、毎日思っている。  そして、半ば泣きながら魔法を連発した僕の前で、ズシーーーンと大きな音を立てて、サンドワームが砂漠に倒れた。その拍子に、全てを覆うほどの砂が舞い、エミル様が、さっとマントの中に、すっぽりと匿ってくれた。 「あ、ありがとうございます」  いつも、こうして匿ってもらったとき、エミル様のマントの中のあたたかさと、エミル様の規則正しい心臓の音がとくとくと聞こえて、僕はちょっと赤くなってしまう。  正直、その優しさがあるなら、連れてこないで欲しい、とも思ってしまうのも、本当だ。でも、どこか吹っ切れたエミル様が、嬉しそうに、にこにこしているのを見ると、どうも絆されてしまうのだ。セバスさんも、嬉しそうに、一緒に出かける僕たちを見送ってくれるから、それで、非常に断りづらい。  そして、僕より頭一つ分くらい大きなエミル様は、「おつかれさま」と言って、いつも、ちゅっと僕の頭に口づけるのだ。それがどういう意味なのか、いつも考えて、悶々としてしまう。多分、子供へのご褒美のようなもので、きっとなんの意味もないんだろうな、とは思う。  そうして僕たちは、王都へと帰還するのだ。  帰り道。  エミル様と僕は、ラクダと馬を足して二で割ったような、ラウマという生き物に乗って帰る。曲がりなりにも、ユクレシアで一年を過ごした僕は、もう馬にも乗ることができる。しかし、エミル様が、砂漠は慣れてないと足を取られるから難しいと主張するので、僕は、エミル様の股の間にすっぽりと収まって、ゆらゆらと揺られながら、帰るのだ。  いつもそのとき、ミミズの恐怖で緊張していた体は、その心地よい揺れで、眠くなってしまう。僕は今日も、案の定、眠くなって、そして、何故か、ユクレシアの夢を見た。

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