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第15話 真夜中のこと

  「逃げよう」  夜中に目を覚ました僕は、そう呟いた。  たらたらと冷や汗が流れていた。まさか、ヒューとのあんなことを夢に見てしまうだなんて、と、僕は今の今まで寝ていたというのに、どっと疲れが襲ってきた。  いや、わからない。毎日疲れ果てているからこそ、こうして今、あんな夢を見て、股間が兆してしまっているのかもしれなかった。  できるだけ、ヤマダくんたちのことも、ヒューとのあんなことも、思い出さないように、思い出さないように、と、心がけていたというのに、まさか、あんなえっちなヒューを思い出してしまうとは、思わなかった。  ユクレシアでの旅の途中から、薄々気がついていた。  僕は、ヒューの、あの王子様みたいな、つんとした顔が、多分、ものすごく好みなのだ。男なのはわかっている。が、あの妹と一緒に時間を過ごしている僕にとって、若干、性別のくくりがあやふやなのは、仕方ないことのようにも思う。  そして、現実として、ヒューと出会ってから、はじめのはじめから、本当に最後まで、僕はずっと、ヒューのことを「王子様みたい」と思っていたのだ。今だってそう思っている。  でも冷静になって考えてみれば『王子様』という存在は、人によって、頭に浮かぶその姿形は、全く違うはずだった。金髪碧眼の甘い顔の王子だろうが、野性味あふれる王子だろうが、あるいは可愛い系の王子だろうが、なんだろうが。  僕にとっては、あの顔だったのだ。  ヒューがもし女の子であれば、あの顔は僕にとっては『お姫様』なのだ。  それはもうズガンと鉄砲で、五重丸のどまんなかを撃ち抜かれたような、どまんなかっぷりで、あの顔で何か言われると、どうにも流されてしまうのだ。しかも、それに加えて、あのつんとした顔が、あんなになるなんて…と、羽里の言ってた言葉が、毎度思い出されていた。  ーーギャップ!ーー  いや、待て。それは違った。  羽里は『デレ』のことをそう言っていたのだ。ヒューは別に僕にデレていたわけではない。あれは、ただの、処理だったはずだ…と、考えて、僕は恐ろしいことに気がついた。いや、なんだろう。羽里の持っているBL漫画で、幼馴染同士がああいうシチュエーションになって、処理だと思ってたら、体から慣らされてた的なものがある、という腐った情報が僕の脳裏をよぎったが、僕はそれを気合いで、なかったことにした。 (あれは処理だったはずだ。女っ気のないパーティだったわけだし)  それに、『デレ』と言えば、確かに、旅の後半、ヒューはよく笑ってくれるようにはなったが、あれは親愛の笑顔であって、主人公に、キャラクターの『ヒュー』が向けていた溺愛の笑顔ではないはずだった。綺麗だったけれども。ものすごく、かわいかったけれども。そして、かっこよかったけれども。そして、先ほどの夢が、再度、思い起こされそうになった。  僕はバッと顔を両手で覆った。 (事実でもあるけれども!)  少しでも気を抜けば、僕はさっきの夢をまた思い出してしまいそうで、ヒューの幻影を振り払うように、僕は頭をぶんぶん振った。  いや、待て。そうだ、そもそも、これはそういう話ではなかった。  僕は疲れているのだ。  僕は、ユクレシアから帰還後すぐに、魔法のランプによって、この砂漠の国に飛ばされ、その後から、毎日、変態魔術師の実験と称した、変態行為に付き合わされ、そして、この世で一番おぞましいと僕が思っている生物の巨大版と、ほぼ毎日戦わされているのだ。  わかっている。  奴隷として買われたのだから、当たり前だ。それが僕の仕事であることに間違いはなかった。僕が言っていることは、「何様のつもりだ」的なことであることに、間違いなかった。  奴隷市場に連れて行かれたときだって、戦闘奴隷のようなものであれば、僕の生活は、まあどうにかなりそうだと、自分でも思っていたのだ。今の状況は、願ったり叶ったりなのである。  だが、しかし。 「なんで、なんで、ミミズ…」  僕は、くっと眉間を抑えた。  ミミズ以外の何かであれば、僕は、僕だって、もう少し頑張れたはずだった。いや、それでも半年間は耐えてきたのだ。雨の日はないけど、風の日にも負けず、雪の日もないけど、夏の暑さにも負けず、丈夫な体を持ち、僕は毎日がんばってきた。が、僕の精神は毎日ずんずんがんがんエミル様に、えぐるように彫刻刀で削られ、今や、すかすかの枯れ枝のようになっていた。  僕が涙目になっているのを、それはそれは楽しそうに見ているエミル様の様子が思い出された。  僕は思った。 「逃げよう」  僕は、自分に言い聞かせるように、もう一度呟いた。  セバスさんのことを考えると、あまり長い間逃げ続けるわけには行かないかもしれない。それでも、少しだけでいい。ほんの一週間くらい、ミミズを見なくてもいい日が続けば、僕は、またがんばれるかもしれなかった。僕は、風呂敷に最低限の荷物を包み、『少し暇をください』と、一言書き置きを残し、屋敷の窓から、そっと外に出た。なんとなく、イメージとして、逃げるときは風呂敷包みな気がした。  そこで、ふよふよと浮かぶ邪神が、尋ねてきた。 「どこに逃げるんだ?」  その様子を見て、僕は、おや?と、首を傾げた。どことなく、手伝ってくれそうな雰囲気がある。邪神が手伝ってくれるというのなら、僕はもしかしたら、一週間と言わず、二週間くらいなら、逃げられるかもしれない、と、少し期待した。  味方なのかと思いながら、恐る恐る告げてみた。 「と、とりあえず、近郊の町に行こうかな…って、なんか楽しそうだな」 「ああ。見つかったときの『絶望』の味が楽しみで」  完全に敵だった。  僕は思い出した。そうだ。このぽんぽこ猫は、邪神だった。僕は、これから僕の身を襲うであろう絶望を思い、身震いした。邪神はそれだけ言って、ポケットサイズに姿を変えると、僕のポケットに戻って行った。自由すぎる。だが、神に文句を言っても仕方なかった。 (贅沢を言うのはやめよう。三日…いや、四日くらい。できれば五日)  そう思いながら、僕はまだ暗い街に足を踏み出した。  そして、ポンと肩を叩かれた。そして、耳元で声がした。 「早起きだね。ノア」  腰に響く、性的な声だと思っている。僕はいつもこの声を聞くと、なぜかまっ赤になってしまうのだ。ギギギと首を後ろに回した僕の、すぐ真横に、神的に美しいご尊顔があった。いや、邪神は二頭身だから、それ以外の神的な。  朝、あんなに弱いと言うのに、何故、今こちらにおられるのだろう。  よくはわからない。よくはわからないが、僕は思った。 (こっわ!!!!!)  見つかるのが、信じられないほど早すぎた。僕の首には、鈴でもついていただろうかと、思わず首に手をやってしまった。 「えええええエミル様、どうしてここに?」 「昔の夢を見て、目が覚めてね。ふと窓を見てたら、一階の窓から人が出てきたんだよ。どうしたの?ノア。散歩かい?」  僕はガタガタ震えながら「さ、散歩です」と小さな声で呟いた。エミル様の両腕が、僕の肩に乗っていて、そして、「まだ暗いから、危ないよ」と言われた。そして、なぜか、エミル様の寝室に連行されたのだった。  邪神の高笑いの幻聴が聞こえる。  こうして、僕の第一次逃亡計画は、たった一歩で幕を閉じた。  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→ 「ちがっ…違うんです。エミル様。本当に違うんです」 「うん、そうだよね。違うよね」  なぜかエミル様の寝室に連れてこられた僕は、先ほどから、その意味をなさない会話を何回も繰り返していた。エミル様は寝っ転がって、ベッドの縁に座っている僕を見ているのだが、僕がそう言う度に、エミル様が、にこにこと、まるで僕のことを、本当に理解してくれているように、穏やかに相槌をうってくれている。が、目が全く笑っていない。なまじ美形だから、より恐ろしい。  まずい。  このままだと、僕が奴隷として買われておきながら、逃げ出したみたいではないか、と考えて、僕は奴隷として買われておきながら、逃げ出したということに気がついた。エミル様の怒りはもっともであった。僕の精神が危ぶまれていたからと言って、それは、許されることではなかった。  僕は仕方なく、涙目のまま、理由を話した。 「み、ミミズにもう耐えられなくて…」  すると、エミル様は、一瞬きょとんとして、それから、「ああ、そっちか」と言って、顎に手をやり、少し考えるような素振りをした。それから、意地悪そうに目を細めると、僕に言った。 「私もね、昔、苦手なものがあったんだよ。でも目の前で、それをこれ見よがしに、見せられたことがあるよ。怖いよね」 「うっっ」  エミル様の事情はわからない。だが、僕もそんなことをしてしまった覚えがあった。そうか、と僕は思った。苦手なものを目の前で見せられるというのは、こんなにも恐ろしいことであったか。僕は心の中で、ヒューに謝った。 (ごめん!ヒュー!事あるごとに、横でドーナツ食べて、本当にごめん!)  僕の中で、あまりにも『ドーナツ』が平和的な存在すぎて、それに怯えるヒューを、少しかわいいなとすら思っていたのだった。  だけど僕は気がついた。  よくよく考えてみれば、農家の人たちにとっては、ミミズとは益虫であるはずであった。僕は事実として知っていた。ミミズがたくさんいる土は、柔らかく、空気をたくさん含み、水を通りやすくする。それによって、植物たちは伸び伸びと、大地に根をはり、ぐんぐん大きくなることができるのだ。小学校の理科で習った。  自分ががんばって育てている野菜や果実や穀物を、より美味しくしてくれる虫。  そんな彼らを嫌いになるわけなどなかった。だとすれば、農家の人から見てみれば、そんな平和的な存在に怯えるだなんて、と、僕がヒューに思っていたようなことを、思うかもしれなかった。  今、現状、エミル様は農家の人ではないけれども、こうして僕のことを、「あんなものに怯えるなんて」と思っているのかもしれなかった。そうか、エミル様も、そんなひどい目にあったことが…と考えて、僕は気がついた。 「え、じゃあ、やめて下さいよ!エミル様も怖かったなら…」 「……………そうだね」 (え、何、今の間!!!)  なぜかエミル様の目が、虚ろになっていたが、理由はよくわからなかった。もしかすると、エミル様も、僕のように毎日それを見させられて、本当に嫌な思いをしたのかもしれない。僕はもう一度、心の中で、ヒューに謝った。  そのとき、後ろからエミル様のきれいな手が伸びてきて、僕のお腹をぐっと抱えて、引き倒した。エミル様の腕の中に、ふわっと包みこまれて、「ふぇあ?!」と、変な声をあげた僕に、エミル様を目をこすりながら言った。 「とにかく、まだ早朝なんだから、もう一度寝るよ」 「ええええエミル様、こ、この体勢で寝るんですか??」 「君が逃げ出そうとしたせいで、目が覚めてしまった僕が、すぐにまた安眠に戻れるように、協力すべきだと思わない?」  有無を言わせぬ口調であった。そして、それは、僕が脱走しようとした奴隷であることを踏まえれば、その理由は、至極正当なもののように思った。僕にはなんの正当性もなかった。  僕は、抱き枕に徹しようと思った。  たまにお腹をさわっとする手に、僕は緊張してしまい、あの、まふっとした柔らかな枕とはかけ離れた硬さであるに違いなかった。  だが、しばらくすると、すうすうという、小さな寝息が聞こえてきて、僕は、ほっと肩の力を抜いた。力を一度抜いてみれば、エミル様の温度は、とても優しく、疲れている僕を包みこんだ。  僕はつられるように、そっと目を閉じた。  そして思った。 (……あったかい)

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