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第20話 異世界3回目

  「はあ はあ はあ はあ」  ぜえ、はあ、と、荒い呼吸を繰り返しながら、僕は、森の中を、ひたすら走っていた。こんなに走ったのは体育の授業のマラソン以来だ。だけど、あんなにたらたら走っている余裕はない。全力疾走のマラソンである。もはやそれは、僕の定義では、マラソンではなかった。  僕の肺は、過剰に送られてくる酸素をうまく処理できていないようで、先ほどから、胸に空気がつっかえているような、そんな圧迫感を感じている。それでも、立ち止まるわけにはかない。ついには、痛み出した心臓に手をやりながら、僕は少し歩を緩めた。追っ手の姿は見えない。僕は|人《・》|間《・》|の《・》|割《・》|に《・》|は《・》、うまく逃げているのかもしれなかった。俯きながら、歩く。  が、何かが動いた気配がして、僕は、ふっと顔をあげた。  少し離れたところに、銀色の美しい狼がいて、そしてそれは僕を見つけた瞬間に、再び、僕に向かって走り出した。がさがさがさっと草の揺れている場所が、だんだん近づいてくる。  僕はもたつく足をむち打って、また走り出した。  心臓がはち切れそうだった。 (待って…待って…どうして、どうして…)  こんなことになる、数分前、ーーー。つい、先ほどのことだった。 「だ、大丈夫ですか?」 「あいたたた、あれ、ここは一体……」  ペットショップのエプロンをつけたままのお兄さんと、僕は、鬱蒼とした森の中にいた。周りの地面からは、僕たちの身長よりも高い様々な草が生え、その奥には、見たこともない大きな木が連なっているのが見える。行ったことはないが、熱帯雨林とかジャングルは、こんな感じであろうか、と、僕は想像していた。 「えっと、よくわからないけど、とにかく、僕は狭山春人、二十二歳です」 「あっ!はい、ハルトさん。あ、えっと、ぼ、僕は中知乃有と言います、高校二年です。その、すみません。本当にすみません。僕が今から取る行動については、どうか、どうか何も見なかったことにしてください。色々感じることはあると思います。本当に、すみません!」  なぜか異世界の人間と話すときは大丈夫なのに、相変わらず僕は、地球上の人間と話す時は、人見知りをしてしまう。これでも、大分ましになってきているのだ。だが、人見知りをしているというのに、その初対面の人の前で、僕は、ものすごいことをしなくてはならなかった。  僕は、バックパックから、あらかじめ用意していたものを、頭に装着した。 「え?え?」と、びっくりした顔で、首を傾げているハルトさんの反応は、至極当然の反応であった。僕が頭に装着したソレ。羽里が去年の十月に買ってきたものだった。黒いふわふわとした毛。そして光る金色の二つの目。その上には、同素材のふわふわの毛でできた三角形が、二つピンと立っていた。  黒猫の被りものである。妙にリアルな。  去年の10月31日のことだった。あの、ちょっと面白おかしな妹は、猫耳とか、かわいいものにすればいいのに、なぜか、この、リアルな猫のかぶりものを被って、街に出かけていった。あの時は、何故とばかり思っていたが、妹のそのちょっとおかしな感覚に、感謝せねばなるまい。こうして次の年に僕が使うことになるとは、夢にも思わなかった。  首を傾げていたハルトさんが、「え、どうしよう」と言った、気まずい笑顔を浮かべはじめていた。当たり前である。僕だって、突然、知らない場所に飛ばされて、「え、ここはどこ?」というくだりをやっている時に、一緒に飛ばされた男が、突然、猫の被り物を被りだしたら、ドン引きする。たとえ、一緒に飛ばされたのが、美少女だったとしても、それでも引く。それが当たり前の反応であった。  僕は、ハルトさんの気まずい視線に晒され、非常に居た堪れない気持ちでいっぱいであったが、それでもこの被り物の装着だけは、譲れなかった。僕は、多少の変人扱いされても、この装備をやめる気はない。そして、さらにドン引かれるであろうことを、口にする覚悟を決めた。  本当なら言いたくはない。言いたくはないが、それでも。この世界は、普通の世界、いわゆる人間がメインの世界ではないのだ。無駄に怖がらせるくらいなら、僕が引かれるくらい!と、思い、ぎゅっと目を瞑り、そして言った。 「ハルトさん、ここは多分、異世界だと思います」 「………え」 「おそらく、今から、何かしらの動物の顔をした二足歩行をする人…人?が、現れると思いますが、怖いことには、多分、なりません」 「……あ、えっと、へ、へええ…ど、動物の顔?す、すごいなあ。最近の高校では、そ、そういうのが流行ってるんだ〜」  僕にはわかった。  ハルトさんは、ものすごく、ものすごくいい人だと思う。完全に、「不思議の国の陰キャ」である僕に対して、こんなに優しい反応をしてくれるのだ。いい人でないはずがなかった。ヤマダくんも、ミズキさんも、僕と一緒に飛ばされる人は、みんな、本当にみんないい人で、僕は、異世界転移三回目という不運にも関わらず、とても幸運だと思った。  そして、その時だった。  突然、グオオオオオオ、という、地を揺るがすような、咆哮が響いた。  僕とハルトさんは、バッと後ろを振り返った。  振り返った森の奥、少し離れた場所に、ライオンと、白い虎、そして、銀色の狼が立ってた。そう、立っていた。それぞれが、人間の軍服のような服に身を包み、こちらを睨んでいた。  ハルトさんが「へ?!なに??え、ドッキリなの??」と、僕の方を見て狼狽えていた。  僕は、前知識があった。なんせここは、十中八九、「もふもふ♂パラダイス」と似通った世界観のどこかであるはずだったのだ。僕は、この一週間、羽里と一緒に、この世界観を嫌っていうほど見てきた。だからきちんと知っていた。動物が歩くことも、獣化と言って、本物の動物みたいな形態になることも、そして、動物の耳つきの人型にも変形することができることも。だから、獅子王に吠えたてられたとしても、なんら怖くなどないはずだった。シナリオ通りに進むのであれば、今後の展開すらもわかっている。だから、あんな耳をつんざく様な恐ろしい咆哮を聞いても、怯えるはずなかった。 (……らららら、ら、ライオンだ!!!!!)  僕は、完全に狼狽えていた。  異世界は三回目だけれども、人間の世界ではない世界は、はじめてだったのだ。  僕は、ガタガタと震える指先を感じながら、それでも、獅子王の方を見て、言葉を待った。そう、言葉を。きっと話せる。話が通じるはずだ。握った手が、汗でベタベタする。こめかみから、嫌な汗が流れた。キュッと噛み締めた唇は、おそらく白くなっているはずだった。それでも、きっと、ーーー。 「何者だ!ここは王族が管理している神聖な区域da……って、え?!」  思っていた獅子王のセリフは、「もふもふ♂パラダイス」の冒頭と同じだった、ーーー途中までは。  なぜか獅子王の側近であるはずの銀色の狼が、突然、獣化し、明らかに僕を目がけて、走り出すまでは。  僕は目を丸くした。というか、その銀色の狼以外、みんな、目を丸くしていた。  全く何が起きているのかわかっていないハルトさんはもちろんのこと、まさかの、獅子王ですら、そのセリフを最後まで言い切ることができず、「え!」という顔をしているのが見てとれた。目を丸くして固まるライオンを、今までに見たことなど一度もなかったが、僕は思った。  正直、ちょっとかわいい。  が、そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。その巨大な銀狼は、主人公になるであろうハルトさんではなく、明らかに、僕から目線を離さずに、一直線に走ってきていた。僕の背中を、さっきの比ではないほどの、大量の汗が、だらだらと流れていた。 「え?え??え???」  僕は、本当にハルトさんではなく、僕の方に向かっているのか、と、少し横にズレて見た。が、銀狼の目線は変わらなかった。その鋭い視線に、僕は一歩、後ずさり、二歩、三歩、と、後ずさり、そして、それにつられる様に、ついに、僕の足は走り出した。 「え!の、ノアくん?!」 「だ、大丈夫!ハルトさんは、た、多分、多分、大丈夫ですからあああああ」  ハルトさんの驚くような声が聞こえた。が、僕は、全力疾走をしていた。僕の頭の高さまで伸びた野草が、ピシピシと顔を叩いた。猫の被り物をしていたことが功を成した。が、地面はぬかるんでいて、足を取られそうだった。何度も転びそうになりながら、僕は必死で足を動かした。  そして、今、ーーー  がさがさっという音が、僕のすぐ後ろに迫っていた。  おかしい。あの銀狼は獅子王の側近であるはずだった。冷静なタイプの、ツンとした騎士みたいなかんじの、そういう、クールめのキャラであったはずだった。 (こんな、こんな、絶対に、全力で誰かを追い回すようなタイプのキャラではない!) 「じゃ、邪神。なんで!どうして!な、何が?!」  僕は肺の圧迫によって、心臓が潰れているかのような痛みを抱えながら、藁にもすがる思いで、仕方なく邪神に縋った。別に解答を期待していたわけではなかった。何かを期待していたわけでもなかった。今ここには、対価になる様なものもなく、僕はただひたすら銀狼に追いかけられているだけで、チェリーぱふぇノワールも、取り出せるはずがなかった。それでも、愚かな僕は、尋ねてしまったのだ。  制服のポケットからくぐもった声がした。 「おそろいだにゃ、ーーー黒猫」  僕は、死ぬ思いで、走りながら、それでも、ぐしゃとポケットを上から握り潰した。 「ぐえ」  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→ 「な、何、なに?ど、どうして?ふ、わ、悪いことはしません」  僕は完全にパニックだった。  こんな展開は予想していなかった。僕はてっきり、ゲーム通りにことが進むのだと思っていたのだ。異世界は三回目だった。それでも、転移してすぐに、巨大な狼に追いかけ回されるスタートは、想像を超えていた。  ぬかるんだ地面に押し倒され、僕の両肩には、二、三メートルはあろうという狼の、大きな足が乗り上げていた。あれだけ前知識があったというのに、僕の口をついて出たのは、ただの、山で獣に遭遇してしまった時の命乞いだった。 「た、食べないで」 「………」  狼は話さなかった。  それでも、さっき獅子王は話していたのだ。言葉も通じるはずであった。だから、目の前にいるのが、狼に見えても、きっと、きっと僕の言っていることは伝わっている。 「……なんだその被り物は」  低く吐き出された狼の声は、心底嫌そうな声色であった。そして、被り物だということが、もうすでにバレていた。 (もう?!もうバレたの?!まずい)  この国の子供は、人間の赤ちゃんに、部分的な毛と、耳としっぽとが生えたような状態で、生まれてくる。そして、成長していくにつれ、完全に動物の姿になる獣化、を覚え、そして、獣化したまま、二足歩行するような状態を覚える。そして、生まれてきた時と同じ姿、つまりは、耳としっぽと、部分的な毛が生えた、ほぼ人の姿は、愛する人の前でしか、見せない、という常識なのだ。  なぜなら、それは、赤ちゃんや子供の時の姿で、無垢で、無防備な状態だからだ。この国の感覚では、それは、人前で裸を晒しているようなもの、らしいのだ。  そしてさらに、人間は希少な存在であり、毛のないつるんとした肌は、女神のように美しいものだと思われている。つまり、ものすごく、モテるのだ。  それが、主人公限定のことなのか、巻き込まれた僕にも適応されるのかは、わからなかった。それでも、付け焼き刃で、念の為、羽里の被り物を借りてきたというのに、こんなに早くにバレるとは思わなかった。  それぐらい、リアルな猫の被り物だったのだ。 「へ、変体が不得手なんです。す、すみません」 「………」  僕には、それくらいの言い訳しか思いつかなかった。狼は無表情のまま、動かなかった。僕は、被り物の中で、ぎゅうっと目をつぶった。が、ふっと肩にかかっていた重圧がなくなった。ハッと顔をあげると、狼はやっぱり無表情のまま、だけど、僕の服を加えて、立たせると、そのまま、ぷいっと顔を背けて、走って行った。 「………え。ほんと、何??」  そうして、僕は、どうやら無事にオープニングのくだりを終えたハルトさんたちが迎えにきてくれるまで、泥だらけのまま、呆然と立ち尽くしていた。ちなみに、迎えにきてくれた、メンバーの中に、狼の姿はなかった。  ハルトさんは、無事に、あの骨の形をした石器を持っているところを発見され、この国の伝承にある『癒し手』なのではないか、ということで、獅子王に、丁重にもてなされていた。  これは、『癒し手』である主人公が、様々なもふもふと出会い、もふもふ交流し、もふもふ癒して、もふもふ癒されて、もふもふイベントをこなし、もふもふ仲良くなっていく。  ーーー、そういう、ほんわか物語なのである。  ゲームでは、初っ端から、狼が全力疾走で追いかけ回してくるような、そんな展開は、ない。僕は一人、再度小さくつぶやいた。 「………え。ほんと、何??」

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