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第30話 死ぬまでに見たい世界の絶景100

  「わ、わあああ。ユノさん。こっち、こっち見て下さい!」  木々に囲まれた崖肌から、糸を紡ぐように、いくつもの水筋が流れ落ちていた。  僕の目の前には、水色から濃い翡翠色に変わるように透き通った水面が広がっている。大きめの池のように見えるそれは、その糸のように流れる幾百もの滝の、滝壺であるのだが、静かに落水するので、水面の揺らぎが少ないせいか、水底まで見えるのだ。  空の青と木々の緑を映し、太陽の光で色を変え、ゆらゆらと神秘的に輝いていた。僕は靴を脱いで、デニムを膝下までまくり上げると、そっと水面に足を忍ばせた。 「冷たい」 「そうだろうな」  でも避暑にはもってこいのところだな、と僕は思った。どうして、ユノさんと、二人でこんなところに来ているのかというと、それは、今朝のユノさんの一言が、きっかけだった。 「それ、行きたいのか」  僕が読んでいた、街で見つけた本を指差して、ユノさんが言った。  僕が読んでいたのは、この国の自然について書いてある本である。この王国は自然が豊かなので、滞在中に、行ってみたいなと思っていたのだ。  本当は旅行ガイドブックのようなものがあればいいのに、と思わなくもなかったが、当たり前だけど、そんな気の利いたものはなく、参考になりそうなのは、冒険記と自然研究の本くらいであった。そして、それを見たユノさんは、気がついたようだった。  僕が、こくっとうなづくと、ユノさんは、平然とした顔で言った。 「じゃ、今から行くか」 「え!」  僕は思わず、目を輝かせてしまった。  僕が見ていたのは、山奥にある滝のページで、すごくきれいだなとは思ったのだが、なんせ山奥なので、一人では無理かな、と、ちょっと思っていたところだったのだ。ユノさんが一緒に来てくれるなら、とても心強い。  僕の様子を見たユノさんが「じゃあ準備して」と言って、そうして、僕たちは、本当にこの滝壺まで来ることになったのだった。 (ユノさんと旅行は、ちょっと、緊張するけど…)  あの日、一緒に王家のダンジョンに挑んで以来、ユノさんからのスキンシップが何故か激しめになり、家にいる間中、べったりなのだ。そして、僕は毎日のように、狼になったユノさんをブラッシングして、そのまま、うとうとして寝てしまう、というようなことが続き、もはや一緒に寝ることさえも、常習化してしまっている。  考えてみて欲しい。朝起きたら、隣に半裸の美青年が寝ているのだ。ものすごく驚く。  そして、どうやら、朝がものすごく弱いらしいユノさんが、ぼけっとしている間に、僕はこっそり抜け出し、せっせと家事をして、ようやく心を落ち着けることができるのだ。  あんなに僕のことを嫌いだって言ってたのに、「意地を張るのをやめる」宣言から、ユノさんは、僕によく触れるようになった。僕はその甘さに、毎日びくびくしながら、生活している。 (突然決めて、それから態度が180度変わる様子。あの開き直り方は、なんかエミル様に似てる…)  ユノさんは、相変わらず、そんなに口数は多くないけれど、一緒に話したりすることも多くなって、毎日楽しい。ただ、ーーーたまに、不意打ちのようにキスをされることがあって、それだけは、どうにかして欲しい、と思っている。  あの理解のできない、キスに、どきどきしてしまう以外は、多分、大方、うまくやっているのだ。本当に、あのキスだけは、慣れない。  いや、慣れてしまっても困るけど…と、考えて、またズキッと頭が痛んだ。何故かはよくわからないのだが、この頃、どきどきという、胸の動悸に連動して、たまに頭がぼやっとして、痛み出すのだ。  仕方ないので、そのものすごく頭を悩ませるユノさんの行動については、できるだけ、考えないようにしている。その度に、またヒューに「ボケてる」とか、怒らせそうだな、と思っている。  そして今も、ぼーっとしてたら、後ろからユノさんに、どんっと押された。「え、わ」と慌てている間に、僕は、バランスを崩して、結局転んだ。ばしゃーん、と水飛沫が上がる。でも今はもうすっかり夏で、冷たい水が心地いい。  糸みたいな滝が幾百も落ちているところは、多分深いんだろうなと思うが、僕が転んだのは、浅瀬だったので、特に問題もない。ちなみに、「こんなとこ、わざわざ来るやついない」とユノさんがいうので、僕は例の如く、猫マスクを外しているので、濡れても安心である。 「あははっ びしょびしょ」  僕は、ぐいっとユノさんの手も掴んで、引き倒した。僕のことを押したのはユノさんなんだから、そうやっても、怒られないはずだった。ばしゃと音を立てて、ユノさんも水に浸かった。調子乗った僕は、パシャっとユノさんに水をかけた。  ぽたぽたとユノさんの毛から水が滴りおちた。そしたら、やり返された。 「わ!」  しばらく、相手がユノさんだということを忘れて、子供みたいに、二人で遊んでいたら、僕の着ていた白いシャツが全部透けてしまうくらい濡れて、髪もびっしょりだった。僕は髪をかきあげて、後ろに流すと、ちらっと僕の胸元に目を向けたユノさんが、目を丸くして、ピシッと硬直したのがわかった。「え?」と思って、首を傾げたが、ユノさんはぷいっと横を向いてしまった。  それから、しばらく、滝を見て、ぼんやりしていた。この滝は、この崖の向こうにある、湧水が流れ落ちているのだとか。木々に囲まれたこの場所は、確かに、ユノさんが言ってた通り、滅多に人が来ないかもしれない。 (でも…絶景。地球だったら、絶対に『死ぬまでに見たい世界の絶景100』とか、そんな感じ)  そんなことを考えていたら、不意に、手をぎゅっと握られ、いつの間にか、人型になったユノさんがいた。「へ?」と思っていたら、聞かれた。 「キス、していい?」 「…………………はへえ?!い、いや、だ、だめですよ。そうだ!その、いつもですよ!その…だ、だめですよ。全然だめですよ!」  僕が慌てて否定すると、ユノさんの耳が、しゅんと折れた。  いつも何も聞かないで、してくるのに…と、思ったが、僕は、こうして否定する機会を得た。ただ、目の前でへこたれているユノさんが、ーーー。 (か、かわ…)  が、しかし、キスは容認できなかった。  そもそも、ユノさんには、リビィさんだっているはずなのだ。僕が、リビィさんに嫉妬を促す当て馬だったとしても、やっぱりキスはやりすぎだった。  僕はどうしたものかと考えて、この際、好きな人がいることにして、ユノさんを丸めこんでしまおうという、作戦に出た。  僕は言った。 「………前に、会いたい人がいるって言ったの覚えてますか?」  ユノさんは、「ん?」という顔で、僕の方を見た。  好きな人がいる、という体で話そうと思ったら、なぜかヒューの話がはじまりそうだった。が、こういうのはちゃんと、具体性があることが大切だと思うので、もうヒューでいいやと思って、話を続けた。 「信じられないと思うんですけど、僕、他の異世界にも行ったことがあるんです。それで、すごく仲良くなった人がいて。その、大変な人なんですけどね。すぐ怒るし、すぐ拗ねるし、意地っぱりで、プライドが高くて、潔癖症で、神経質で、ああ…ほんとに面倒くさい人なんです」 「…………」 「その人、ーーーヒューって言うんですけど。頭はいいくせに、いつも余計な一言を言っちゃうんですよね。それですっごく凹むんですよ。多分、すごい根暗でもあると思います。考え方がなんか、闇寄りなんですよ。多分、すごい根暗。いつもどんよりしてて」 「…………」  僕の話が進むにつれ、なぜかユノさんの目が虚ろになってきているような気がした。「あれ、なんか怒ってる?」と思ったけれども、とにかく僕は続けた。  こんな機会は滅多にないのだ。ちゃんと伝えなければ。 「でも、僕は、なんていうか、ヒューの、そういう面倒くさいところが、好きなんです。なんていうか、彼は、事実として完璧だし、完璧に見えちゃう人なので、そういう、人間ぽいところが見えると、嬉しくて」  そう、僕は、ヒューのそういうところが好きだ。  旅の途中でも、凹んでいる姿なんて、僕にしか見せなかったけど、僕にだけ見せてくれるっていう優越感みたいなのも、ちょっとあった。 「僕はどうしても元の世界に帰らなくちゃいけなくて、離れちゃったんですけど。でも、会いに来てくれるのを、すごく楽しみにしてて…」  ヒューが地球に遊びにきて「なんだあの動く鉄の塊は!」て、言ってくれるのも、楽しみにしている。そして、ユノさんのことを見てたら、うっかり、日頃から思っていたことを言ってしまった。 「ユノさんって、すごくヒューに似てるんですよね」 「……面倒な根暗に。」 「あっや!ち、違いますよ!そうじゃなくて、ちょっとツンとしてるところがっていうか。あ、でも意地っ張りなとこが…あっ!じゃ、じゃなかった。と、とにかく、でもだから、僕はそういうことは、できません」 (何回も、しちゃったけど!)  そう思いながら、僕は、恥ずかしくなって、ぎゅっと目をつぶった。 「その男が好きなのか?」 「へ、あ、えっと、すごく大切に思ってます」 「………くそう…」  なぜか、ユノさんが両手で顔を押さえて、悪態をついた。小さく「この顔じゃだめなのか…」と、呟やいた気がして、顔??と僕は首を傾げた。が、次の瞬間には、元気を取り戻したらしいユノさんが、キッと僕を睨みながら言った。 「…じゃあ、もう撫でさせてあげないからな」 「え!!!」 「ふん。他の男が好きな奴に、俺の毛はそうそう簡単に撫でされられないな」 「………そ…そんな……」  もしかして、ユノさんが撫でさせてくれていたのは、ファンサービスのようなものだったのだろうか。「俺のことが好きなら、少しくらい撫でさせてやってもいいぜ」的なあれだったのかもしれない。だとすれば、他の人のファンである僕は、確かに、ユノさんを撫でさせてもらう資格はなかった。そして、僕は、同時に、本当にファンな相手にも、ファンサービスされたことを思い出し、少し恥ずかしくなってしまった。 (みんな意外と、ファンに神対応…や、ちょっと対応は行き過ぎてる…か)  それに、ユノさんの言っていることは、最もであった。  どうしてユノさんが、僕にキスをしてくるのかは、よくわからなかったが、とにかく、ユノさんがしたいことを、僕が「だめ」と言ったのだから、僕がしたいことを、ユノさんに「だめ」と言われても、仕方のないことだった。  ユノさんは、不貞腐れたような顔をしながら言った。 「キスくらいしたい。撫でたいなら、交換条件だ」 「………はっわ、ゆ、ユノさん??」  そして、僕が呆然としている間に、また、ちゅっと唇を重ねられてしまった。 「それか、家賃。家賃っていうことにしよう」 「ひ、ひどい!ぱ、パワハラですよ!ユノさん。僕が払うって言ってるのに、受け取ってくれないじゃないですか。だ、大体、僕にき…きす…して、ユノさんに何の得があるって言うんですか」 「家主という権力は、行使して然るべきものだ。大体お前だって、撫でながら、ふらふらと、すり寄ってくるだろ。あんな発情した猫みたいにすり寄られて、こっちだってヤりたくなる」 「なっ!?や、やり?!へ?!い、言い方!言い方!!!」  せっかく、静かで美しいところにいるというのに、僕とユノさんは、低次元で、低俗な内容の低レベルな会話を大声で続けているわけであった。  そして僕は思った。 (なんか、ユノさんって、こういうかんじの人だったんだ…。ほんと、ヒューそっくり…)  そう思って、むうっとしていたら、また、ちゅっと唇から音がした。 「あっ」 (……悪化している…)  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→  ぱちぱちと、焚き火が燃える音がする。  辺りはすっかり暗くなっていた。あの後、なぜか意地になって、僕を追いかけ回すユノさんと、ひとしきり水遊びをした後、昼寝して、気づいたら、夕方だった。  夕飯は、持ってきた食材で、簡単なスープを作って、パンと一緒に食べた。こうして、ぼうっと火を見てると、ユクレシアでの旅を思い出す。  途中からは、ずっとヒューと一緒で、ほぼヒューと旅してるみたいな勢いだった。ごはんはシルヴァンがいつも作ってくれて、野宿の時は、毎日キャンプしているかんじだった。だけど、魔王討伐っていう、世界をかけた使命があったから、やっぱり、こんなにゆっくりと、のんびりと、地球でするキャンプみたいに、楽しめる余裕はなかったかな、とも思う。 (ヤマダくんたちも、元気でやってるのかな…。今、ユクレシアは何年くらい経ってしまったかな…。ヒューが、僕がいない間に地球に行ってたりしたら、どうしよう) (ヒューも、おじさんとかに、なるのかな。あんまり想像ができないな…。なんか眉間に深い皺の刻まれた、ピリピリしたおじさん…みたいなのに、なるような気がする)  つい、ふふっと笑ってしまった。そうしたら、ユノさんに、「何を考えてるんだ?」と、尋ねられた。 「違う世界で、旅をしていた時を思い出してました」 「ああ」  というか、先ほどから、すごく気になっていることがある。ご飯を食べる前に、ユノさんが、持ってきた天幕を出してくれたのだが、どう見ても、ユクレシアで使っていたものにそっくりだ。 「なんかこの天幕…、他の世界で使ってたのにそっくりで。ていうか、そのまま…」 「ーーーえ。ああ、天幕なんて、どこでも似たようなものだろ」  若干、ユノさんが慌てたような気がして、「ん?」となった。が、しかし、実際に寝る段階なって、僕は恐ろしいことに気がついてしまった。  そりゃあ、世界が違うのだから、当たり前だけど、この天幕だって違うものに違いなかった。そして、ユノさんのいうとおり、天幕なんて、どこで買っても、大差は無いものだろう。地球のように文明が全く違ったり、あるいは、砂漠の国のように、気候が全く違ったりすれば、違うかもしれないが、ユクレシアとモフーン王国の気候は似てるし、文明も似通っている。天幕の仕様が似ていたとしても、おかしくはなかった。  が、目の前にある天幕は、本当に、ヒューと使っていたもの似ていて、その天幕は…その、ほぼ、えっちな思い出しかなかった。なんだかそこに入るのが、すごく、すごく恥ずかしくなって、固まってしまった。 「………」 「………」  なぜか、僕の隣で、同じようにユノさんも固まっていた。とにかく、でも寝るところがないし、まさか、中身まで同じわけじゃないし、と思って、中に入ろうと入り口の布を開けた。その瞬間、中身までが全く同じような幻覚が見えた…が、「あ」というユノさんの声が聞こえたかと思った、次の瞬間、パッと全く違う敷布と毛布とライトに変わっていた。 「あれ…今?」  僕は目をこすりながら、首を傾げた。なんかヒューの天幕に、中までそっくりだった気がしたが、気のせいだったみたいだ。もしかしたら、僕がさっきまで、ユクレシアを懐かしがっていたからかもしれない。  ユノさんを見てみても、なんら変わらない涼しい顔で「寝るぞ」と言っていたので、僕はもう考えるのをやめて、寝ることにした。  なかなか寝つけなかった。そして、夜は結構、長かった。 「………」 「………」

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