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第33話 雪だるま
「心地がいい。なんて心地がいいんだ」
ユノさんに借りている僕の部屋で、ふよふよと浮かび上がりながら、邪神が大きな三白眼を閉じた。そして、噛みしめるように、浸るかのように、うっとりと、ほうっとため息をついた。僕は、虚ろな瞳になって、じとっと邪神を睨んだ。
邪神が心地よいと言っているのであれば、それは僕の闇のおかげであった。
そう、この世界も、残すところ、後、三ヶ月なのだ。
この世界では、絶望は何もなかったが、僕の心は、苦悩と葛藤に塗れていた。そして、気になることも、一つだけである。
(ユノさん……)
僕がこの家で一緒に生活するようになってから、お互い、仕事がある時以外、僕はほぼ、ユノさんと一緒にいる。朝起きて、朝ご飯を食べ、夕ご飯を食べ、夜寝るまで、たまには、寝るときですら、ずっと一緒なのである。こんなにも、他人と時間を過ごしたのは、ヒュー以来のことだった。
色んな場所に行き、色んなものを見て、色んなことをして、すごく楽しくて、楽しすぎて、そして、それは、三ヶ月後には、もう二度とすることができないことになるのだ。
ズキッと胸が痛む。僕は、もうすでに泣きそうだった。
「なんだろうな、お前のその、前向きと後ろ向きの、色んな感情が絶妙に入り乱れる感じが、とてもいい。普段からずっと暗い奴も、それはそれで、闇が深くて嫌いではないのだが、お前は、陽気と陰気とがいい具合に混ざり合い、素晴らしいハーモニーを…いてっ」
僕は邪神をグーで叩いた。
床に落ちそうになり、むっとした顔で僕を見る邪神に文句を言う。今日は珍しく、ユノさんが一人で出かけているから、ユノさんの部屋の掃除でもしてしまおうかと思っていたのに。
「なんだって今日に限って、外に出てくるんだよ」
「普段はお前の周りに、あの魔術師がいるからな。見つかると面倒だ」
「は?ユノさんは魔術師じゃないよ」
「知っている。お前は、どの異世界に行っても、やたら魔力の高い、魔術に詳しいやつの近くにいるからな。我輩の存在は、見つからぬ方が良い」
ああ、それでいつも隠れているのか、と僕は思った。
邪神は、どうやら僕に出会った時は、ものすごく弱っている状況だったらしい。確かに、思い返してみても、毛の色は抜け、恐ろしい姿の呪い猫になっていたからな、と思った。
だんだん回復してきたのか、自分の大きさを変えるくらいしか、していなかった当初に比べ、形を変えたり、姿を消したり、徐々に色んなことができるようになってきていた。
『望みを叶えて、対価をもらう』というのが、邪神の基本システムであり、僕の望みである「地球に帰る」ということに使う力はあるらしいのだが、それ以外に使う力は、すっからかんになっていたらしい。ユクレシアのはじめの頃は、本当に、ほぼずっと僕の学生鞄で気配を消したまま、眠っていた。砂漠の国でも、僕のポケットで寝ていることが多かった。
邪神は、こんな変な二頭身猫であろうとも、曲がりなりにも神である。
一体何があって、そんなに力を失くすことになったのかは定かではないが、大方、大天使にでもやられたんだろう…と、考えて、「あ、違った。悪魔じゃなかった」と思い直した。すっかり僕の中で、邪神は悪魔と同じ分類になってしまっていた。大体、魔術に詳しい人から隠れなくちゃいけない神様ってなんだよ、と内心思う。
|邪《・》な理由がないわけなかった、と考えて、ああ、|邪《・》神だった、と思った。
「あと、三ヶ月で合ってるよね?」
「ああ」
先週、リビィさんに、後三ヶ月でこの国から出て行くことを伝えた。リビィさんはすごく驚いて、「ユノのことはどうするの?」と開口一番、そう言われた。僕もそれだけが、とても気がかりで、辛い。ユノさんにも、早く伝えないと、と思うのだが、いまだに伝えられていなかった。
ユノさんの好きな料理のレシピを書いたり、本の分類や、部屋ができるだけ散らからないようにする方法とかも、書いたり、そういう、僕が去った後の準備をしながら、泣きそうになる。
エミル様は、セバスさんもエンリケもいたし、友達のアルノルト騎士団長もいた。だから、僕がいなくなっても、一人になるということはなかった。
でも、ユノさんは、一人でこの家に住んでいるのだ。
確かに、リビィさんも、ラッセルさんも、ユノさんと仲が悪くはなさそうだったけど、ユノさんが、王城で働いて、そして帰宅する家に、僕はもういなくなるのだ。流石に、僕も、もうわかっていた。リビィさんとユノさんの幼馴染BLも期待できそうにないのだ。
よくはわからない。ただの想像でしかないが、僕が帰る家に、羽里がいなかったら、すごく辛いと思う。ユノさんにとって、僕が一体どんな存在かはわからないけど、それでも、なんだかそれは、きっと、寂しいことなんじゃないかっていう気がした。
ただの自惚かもしれない。でも、僕は、寂しかった。この家に帰ることがなくなる、という事実が、辛かった。
(だめだ…泣きそうだ)
「あの狼が気になるのか。ふふふ、心地がいい。心地がいいなあ!」
「………」
「あの狼は、お前がいなくなると知れば、さぞかし傷つくだろうな。お前のことをかなり気に入ってるからな。お前と一緒に過ごした家に、一人残されて、もう生きる希望も持てないかもしれんなあ!」
「……ねえ、待って。神様ってこんな意地悪なこと言うものなのか!?曲がりなりにも、神様だろ」
お賽銭を投げて、お願い事をしている僕に「はっはっは、もうあいつは生きる希望も持てないかもしれんなあ」なんて、神社の神様が思ってたら、初詣に行こうだなんていう気持ちは、もう二度と持てない気がした。
「お前は、邪神教の信徒ではないではないか」
「じゃ、邪神教……」
確かに、僕は邪神教徒ではなかった。
そうか、僕は、邪神教徒ではないのに、願いを叶えてもらっているから、心の闇を対価に取られているのか、と、ようやく知った。
では、邪神教徒であれば、どんなものを対価に、願いを叶えてもらっているのだろう、と僕が首を傾げていると、邪神が言った。
「賽銭だろ」
「え!金?!」
「ああ。生贄を捧げられることも、たまにあるが、時代錯誤だな。教徒からは金、他からは闇。以上」
「………」
邪神が意外と現実的だということを知った。
そして、もはや悪魔の一種に、カテゴライズしていた邪神という存在は、もしかして、闇金の一種なのかもしれない。一体、邪神がその金で、何を買いたいのかはよくわからない。が、実際、チェリーぱふぇノワールが好きなことを考えると、なんか駄菓子でも買うんだろう、と、僕は思った。
そして、邪神の金の使い方とか、どうでもよかったってことに気がついた。それよりも、今は…違う。
(生きる希望も持てないなんてことは……ないよ。僕にそこまでの価値は)
そう思って、少し俯いた瞬間、邪神がパッと姿を消した。
カチャと、玄関の扉が開く音がして、ユノさんが帰ってきたことがわかった。言っていた時間よりも、ずっと早い。今日はユノさんと、雪原を見にいこうって、約束していたのだ。まだ準備もできていなかった。
僕は、パタパタと、階段を駆け降りた。
「ユノさん、おかえりなさい!」
←↓←↑→↓←↑→↓←↑→
「ゆ、ゆのさん!カマクラを作ってみたいんですけど!」
あの後、予定通り、僕とユノさんは、近郊の山の中腹にあるという雪原まで来ていた。誰にも踏み荒らされていない、一面の銀世界に、僕は目を輝かせた。
カマクラって何?と、首を傾げているユノさんに、こういうのです、と、木の棒で、雪の上に絵を描いて説明した。
意外と中があったかいらしい、という未確認の情報を披露し、僕たちは雪だるま制作と同時に、カマクラも作った。ユノさんは全然乗り気じゃなかったけど、ユノさんのおかげで、結構すぐに完成した。こんなところで、雪遊びだなんて、なんて贅沢なんだろう。
作った小さな雪だるまに、三角の落ち葉を挿して、狼の雪だるまにした。両手の上に乗せて、「ユノさん雪だるま」と笑って、ユノさんに見せたら、ユノさんが、なぜか、少し照れたように、ぷいっと横を向いた。
銀世界の中に佇む、銀狼の横顔を見て、僕は思った。
(すごい…かっこいい……)
「雪の中だと、好きな人が綺麗に見えるってよく言うけど、雪の中のユノさんのかっこよさは、すごいですね。もう芸術ってかんじ。カメラがあったらなあ」
「カメラ?」
「僕の世界で、映像とか画像を記録するんです。この世界にも、そういうのありますか?」
ユノさんは少し考えて、持っていた鞄の中から、水晶玉のようなものを取り出した。それを見て、「あ」と僕は思った。ヒューが発明した、記録水晶に似ていたからだ。もしかすると、この世界でもあるのかもしれない。
手の平サイズのそれを、ユノさんが持って、景色を映し、それから、僕のことを写した。「え、僕もですか?」と、僕は恥ずかしくて、ちょっと笑ってしまったけど、ちょうど手の上に持ってた、ユノさん雪だるまと一緒に写してもらってから、そっとユノさんの方に寄った。
水晶の中には、僕と、ユノさんと、ユノさん雪だるまが映っていて、その後ろには、ただ、雪原と山脈が広がっているだけだった。
僕は、ぽつりと口にした。
「なんだか…世界で、二人だけみたいですね」
隣で、ユノさんが、はっと息を飲み込むような音がした。「え」と思って、ユノさんの方を見ようと思ったら、ぎゅっと抱きしめられた。鼻先が、ユノさんの胸にばふっと当たって、「ん”」と、くぐもった声が出た。ぎゅううっとユノさんの腕が強くなって、ユノさんの顔を見ようにも、確認できなかった。
どうしようと思っていたら、上からユノさんの声がした。
「ーーーさっき、リビィに聞いた。後、三ヶ月で、出てくって」
ユノさんの声は平坦で、どういう風に思ってるのか、よくわからなかった。僕は、心臓がズキンッと、刺されたように痛んだ。でも、それでも、伝えるべきことは、わかっていた。
「…………はい。あの、週末に、ユノさんに伝えるつもりでした。こんなによくしてもらったのに、勝手なこと言って、すみません…」
僕の背中にまわされた、ユノさんの両手がピクリと震えるのがわかった。そして、再度、ぎゅううっときつく抱きしめられた。
ユノさんは、しばらく動かなかった。僕は、とくとくと鳴る、ユノさんの心臓の音を聞いて、他の人の心臓の音がどうかはわからないけど、ヒューの心臓の音と同じだと思った。多分、誰の心臓の音も一緒なんだろうけど、それでも、ユノさんの音も、すごく優しい音だと思った。
僕は、ユノさんに、なんて言ったらいいのかわからなかった。
僕も、動かないで黙っていた。
「世界で、たった二人だったらよかったのに」
ふと、聞こえてきたユノさんの声が、何かに耐えるような、震える声だった。僕はその声を聞いて、もう、涙が溢れそうだった。僕と二人だけだったら、きっと飽きちゃうよって頭では思ったけど、そのユノさんの声色を聞いて、心はそうはいかなかった。すごく、悲しんでるんだって、わかったから。
すごく、楽しかった。この世界での毎日は、ユノさんのおかげで、輝いていた。
ユノさんはヒューにすごく似ていて、僕は、まるで、ユクレシアでできなかった、ヒューとの楽しい毎日を、やり直しているような気持ちだった。ユクレシアの世界観は、終末だったのだ。荒廃している場所も、モンスターに食い荒らされている場所も、多かった。
だけど、この国は違う。
ヤマダくんが、ユクレシアを救った直後から、まるで、陽の光が大地に染み込むように、地表は緑に彩られ、草木が芽吹いた。きっと、きっと、僕がいなくなった後のユクレシアは、きっと、きっと、美しい場所だったに違いないのだ。
僕は本当は、美しく生まれ変わったユクレシアで、ヒューと過ごしたかった。
この国で、ユノさんと過ごしたみたいに。
一緒の家に住んで、毎日「おはよう」から「おやすみ」までの時間を共有して、一緒にご飯を食べて、色んな話をして、たまに喧嘩して、たまに言い争いになって、それでも、楽しくて、たまに一緒に出かけて、美しい世界で、たくさんの思い出を作っていきたかった。
僕はそれを、そのできなかったことを、ヒューの代わりに、ユノさんとたくさんしていたように思うのだ。そしてそれは、すごく、すごく楽しい日々だった。
「ぎゅうってしていい?」
ユノさんが、僕に尋ねた。ユノさんは、もうとっくに僕のことを抱きしめていて、僕は混乱した。でも、その後、ぎゅうっと抱きしめられた。それから、「キスしたい」と言われて、体がビクッと跳ねてしまった。
ユノさんの胸に、押しつけられた体勢から、顔をぐいっと動かして、そっとユノさんの顔を覗いてしまったのだ。
心臓が、止まってしまうかと思った。
ユノさんは、眉間に深いしわを寄せ、泣きそうな顔で、唇を噛みしめていたから。苦しい、辛い、どうして、というユノさんの気持ちが、僕にそのまま流れこんできた。僕はハッと息を飲んだ。
ユノさんは、何かを言いかけては、唇をつぐみ、また何かを言いかけては、ぎゅっと眉を寄せ、そして、ぎゅうっと一度、強く目をつぶり、そのまましばらく苦しむような顔のまま、止まった。
(ユノさん…)
そして、申し訳ないというような、本当に辛そうな顔をしながら、泣きそうな声で、僕に言った。
「好きなんだ、ノア。お前のことが、ずっと、ずっと好きなんだ」
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