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第35話 桜が舞って
(『思い出』かあ…)
小高い丘の上に座った僕とユノさんの前で、満開の桜が、少しずつ、こぼれるように舞っていった。
日本ですら、見たこともないほどの、一面の桜の花。丘の上から見る景色は壮観で、王都を包みこむかのように、幾千もの桜の木が咲き誇っていた。青い空までもが、どことなく、薄ピンクに色づいているかのようだ。
(きれいだな…でも)
散りゆく桜というのは、どうにも胸をしめつける。それが、視覚からくる情緒的なものなのか、あるいは、ただ単純に、僕の置かれた状況のせいなのかは、定かではなかった。
それでも、この美しい景色が、僕の中で、もう二度と見ることのできない『思い出』になるということは、ひどく胸を痛ませた。
自分が、自分で、エミル様に言った言葉を思い出していた。
『好きな人と過ごした思い出まで、なかったことにすることはない』って。
思い出す度に、辛い気持ちになるけれど、それでも、過ごした日々の楽しさは、本物なはずだった。それでも、すごく、辛かった。きっと、そう思えるまでには、長い時間が必要な気がした。
先ほどから、いつものように、草の上に座った僕のことを、股の間に挟んで、後ろから抱きしめているユノさんは、無言だった。あれから、あの「好きだ」と告白された時から、愛情表現は激しくなったけど、ユノさんの口数は、日に日に減っていった。僕の顔を見ては、顔を歪め、僕が何かを話しかければ、ぽつりと返事をするくらいで、見ているこっちの方が、辛くなるくらい、本当に元気がなくて。
いつも耳も垂れ、尻尾も、ただただ、悲しそうに揺れているだけだった。
少しでも、元気になってくれたら、と思って、早起きしてお弁当を作った。たくさん作ったサンドイッチも、おにぎりも、美味しくなくはないはずなのに、なんだかちっとも、味がしなくて、僕も悲しくなった。楽しみにしていたはずなのに、満開の桜の花を、こんな気持ちで見ることになるだなんて、思ってもみなかった。
(………僕はなんて無力なんだろう)
せめて、通信具が完成すれば、とか、僕が気持ちに応えてあげられたら、とか、色んな「もしも」を考えたけれども、どれもうまくいかなかった。でも、だというのに、どの「もしも」も、上手く行かないのに、僕は、ユノさんのことを、恋愛対象として、好きになってしまいそうな自覚があった。
(だって、本当にヒューにそっくりで…)
それでも、そうやって見てしまう部分は「ヒューに似ているところ」なのだった。
どうしてこんなにも、他人が似ていることがあるのだろう、と疑問には思うけど、それでも、それは、ユノさんのことを好き、ということにはならないはずだった。
僕が唇を噛みしめていると、ユノさんが、スッと手を出して、僕の前で開いた。
「これ、もらって欲しい」
「え?」
ユノさんが取り出したのは、小さな犬歯のように見えた。差し出されたそれは、美しく磨かれた象牙のように、なめらかな輝きを放っていた。銀色の金具がつけられ、繊細なチェーンに繋がっていて、首から下げる用みたいだった。
「気持ち悪いかもしれないけど、俺の子供の時の犬歯。この国では、綺麗に磨いて、一番大切な人に贈る。守り石の代わり。加護がついてる」
「……そ、そんなのもらえません」
「同じようなの、つけてたことあっただろ。一緒に持っておいてよ」
「え??」
僕は、未だかつてネックレスのようなものをつけたことはないはずだった。でも、今はそれどころではない。そんな大切なものを僕がもらってしまっては、これから先の未来、ユノさんに大切な人ができたときに、きっと後悔してしまう。僕はもう一度強く断ろうとして、ユノさんの眉の下がった顔を見てハッと息を飲んだ。
「お願い…それだけでも、連れてってよ」
「っっ」
もう、叫び出してしまいたかった。
泣き叫んで、苦しいと、辛いと、ユノさんの胸に縋り付いて泣いてしまいたかった。
ユノさんは、ヒューじゃないのはわかっていたけど、僕は、ヒューと別れなくちゃいけないみたいに、もう二度とヒューに会えないみたいに、身を引き裂かれるようだった。
(泣きたい。泣き出してしまいたい。泣き叫んでしまいたい。でもーーー)
本当に辛いのは僕じゃないはずだった。
僕は、ユノさんにこんな顔をさせている元凶で、僕が何をやっても、何をしても、何をどうやっても、僕はユノさんのことを幸せにはできなかった。どうしたら、どうしたらいい、と、考えて、考えて、何度も枕を濡らしたけど、それでも、僕にできることは、何もなかった。
僕は悪者で、僕は、ユノさんの気持ちを踏み躙るだけしかできない、無力な…いや、最低な人間だった。
ご飯を一生懸命作って、掃除して家をピカピカにして、でもなんだか、それすらも、別れの前に僕が足掻いているだけ、のような、嫌な気持ちになった。この頃、僕とユノさんは、何も言わずに、抱きしめあって眠っていた。何もできない僕が、ユノさんにできることは、ぬくもりを分けてあげることくらいだった。
(それすらも…もうすぐできなくなる…)
ちょっとでも気が緩むと、涙が溢れてしまいそうになるのだ。
僕は、こぼれそうになる涙をぐっと堪えて、力なく笑うと「大切にします」と言った。肩口にあるユノさんの頭が、こくん、とうなづいた。僕の前に回されたユノさんの手が、震えていることに気がついて、ぐずっと鼻をすすってしまった。
しまった、と思ったときには、遅かった。
ユノさんはぎゅっと目を閉じて、僕に言った。
「ごめん、ノア。ごめんな」
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そして、晴れ渡った五月の美しい青い空の下、ハルトさんは、獅子王と結婚することになった。
砂漠の国のミズキさんのときみたいに、盛大な結婚式だった。だけど、僕の心の中は、全く違う心境だった。エミル様と別れるのも辛かった。でも……僕は……。
もちろん、祝福はしていた。ミズキさんと同じで、ハルトさんも本当に僕によくしてくれた。優しくて、あたたかい人だった。結婚という晴々しい日を迎えることができて、僕も一緒にお祝いすることができて、すごく、嬉しかった。でも。
僕は、おそらく今日、地球に帰るのだ。
ユノさんは、何故かなんとなく、それを察しているのか、朝から僕の手をぎゅっと握りしめて、離さない。朝から、挙式中も、それから、一緒に家に戻って来てからも、ずっと離さなかった。でも、挙式が終わってしまった以上、別れの時は、もうすぐだった。僕たちは、いつもみたいに、二人でソファに座っていた。
いつもみたいではあったけど、僕はバックパックを背負っていた。その姿を見たユノさんは、力なく笑って、「もうすぐなのか」と、一言尋ねた。僕は「…多分、そうです」と小さく答えたけど、明確に「いつ」なのかはわからなかった。
ひどいことをしている自覚はあった。それでも、どうしても、いつもバックパックの中に忍ばせている、ヒューの異空間収納袋を置いていくわけには、いかなかった。
「あの、ユノさん。ほんとにあり…んっ」
いつもみたいに、不意打ちで、ちゅ、と唇に、ユノさんの唇が当たった。
僕はがんばって、精一杯、普通の様子を装いながら「もうっ ユノさん」と、怒った風な声を出した。だけど、ユノさんの目に、いっぱいの涙がたまっていることに気がついて、僕はもう、涙を我慢することができなかった。
ぼろぼろっと溢れてしまった涙に、僕は、鼻水を啜りながら、「あ、あれー」とか馬鹿みたいな声を出した。
ユノさんが、僕の手をぎゅっと握りしめて、言った。
「行かないで、お願い。ノア。俺のこと、置いてかないで」
僕はハッと息を飲んだ。
「お願いだ。もう、俺は…もう、俺には…お前がいない時間が、耐えられない」
僕の口から「あああ」と、息と混ざり合った、掠れた音が出た。ぽとぽとと落ちる涙で、ユノさんがゆらゆらと滲んだ。ユノさんは、続けた。
「好きなんだ、ノア」
ユノさんの目から、つっと涙が流れ落ちた。
抱きしめたいと思った。この瞬間、僕は、ヒューのことも忘れて、ただ、ユノさんのことを抱きしめてあげたかった。ユノさんが握っていない方の手を、僕はユノさんに伸ばした。
そのとき、白い光が僕を包みこんだ。
ユノさんがしっかり掴んでいる僕の手の感覚が、少しずつ、鈍くなった。
まっしろになった世界の中で、最後に一つだけ、ユノさんの声が聞こえた。
「お願い……もう、ひとりにしないで…」
小さく、縋るように漏れた言葉は、ユノさんの悲痛な叫びだった。
僕は息を飲んだ。ぎゅっと掴まれた手の温もりが消える。
僕の目からは、涙がとめどなく溢れた。「ふうっ」と息を吐き出し、僕は崩れ落ちた。僕は、しばらく、自分の部屋の床に伏せて、涙を流した。
「ああああああああ」
ユノさんが目の前にいない今、僕はもう、我慢することなく、ただただ、このどうしようもない気持ちを、吐き出した。肩を震わせ、嗚咽を漏らし、時に叫びながら、ただ、涙を流し続けたのだった。
(こんなの… こんなの…)
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