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第37話 魔法都市

  「さてと、本当に来ちゃったな…」  僕の目の前には、まるでテーマパークのような、ファンタジックな街並みが広がっていた。ここは、おそらく、水上にある、魔法都市ヴェネティアス。街中に張り巡らされた水路の上をゴンドラが行き来している。  僕がモフーン王国から帰還した一週間後の週末だった。  父の日のプレゼントを選ぶのを手伝って、と、羽里に言われて、一緒に買い物に行くことになった。一人で男物の売り場に入るのが、どうやら恥ずかしかったらしい羽里と、出張の多い父のために、パスポートケースを選び、帰宅する途中だった。 「あれ、あの女の人、あっち入ってっちゃった。あそこ行き止まりなのに」と、言いながら、羽里が追いかけようとしたのだ。僕は「先に帰ってて」と羽里に言い、その人を追いかけることにした。  邪神のいうことを信じるならば、僕が巻き込まれなければ、羽里が巻き込まれるのだ。行きたくは、なかった。本当に、行きたくはなかったけど、僕はその女の人を追いかけ、案の定、シャボン玉のように、奇妙な虹色に輝く膜を通り抜けたら、ーーーこの場所に、立っていたのだった。 「魔法都市ヴェネティアス……」  気づいたら異世界、というパターンは、はじめてだった。  ヒューは、異世界側が何かしらの干渉をしなければ、早々異世界転移なんて起きない、と言っていたけれども。こういう、歩いていたら、突然転移してしまった、というパターンのときは、どうなるんだろう…。  とにかく、僕のやるべきことは決まっている。  今回、この世界に迷いこんでしまった女性は、戸惑っているところを、客足が少ないカフェのオーナーに拾われ、異世界の知識で、カフェを盛り上げていく…という乙女ゲームであった。僕は、こっそりと建物の影から、先ほどの女性が無事に、オーナーと遭遇するのを見届けてから、そっとその場を去った。  今回の攻略対象は、大人優しいカフェオーナー、王道王子様系の領主の息子、明るいチャラ商人、ツンデレ魔法学院の優等生である。  そう、ご察しの通り、問題は、その四人目、ツンデレ魔法学院の優等生、ーーーフィリーニ・クレーティ。通称『フィリ』。髪は薄い水色で、瞳も水色、だけど…顔は完全にヒュー。 (とにかく、フィリにだけは絶対に遭遇しないこと。それから、宿と職の確保)  今回は、特に邪神に何年になるのか、ということは聞かなかった。カフェで働き出した主人公が、誰かと付き合うまでの話なのだ。結婚云々が関わっていない分、そこまで長い時間がかかるとも思えなかった。  なので、安めの宿屋に長期滞在しながら、適当に働こうというのが僕のプランであった。もし、金銭に余裕があれば、他の都市に移動してしまうと言うのも手だな、と思っていた。  ただ、この世界観の中で、この魔法都市ヴェネティアスは、一番栄えている都市なのだ。ユノさんにもう一度だけ「ありがとう」と、ちゃんと伝えることを目標にしている僕は、魔道具の開発が最優先事項であった。ユクレシア、砂漠の国、モフーン王国、と様々な世界に飛ばされてきたが、この魔法都市ヴェネティアスは、おそらく、一番発達した文明の中にある。そして、魔法都市と言われるほどの場所なのだ。 (それなら、やっぱり栄えている都市の方がきっと、通信具を作るための情報が入る…)  僕は、モフーン王国で使っていた地味なローブを異空間収納袋から取り出し、頭から被った。とにかく目立たないように行動する必要があった。なぜなら、僕は、今回は絶対に、攻略対象とも、主人公とも、関わりたくなかった。 (また、誰かを悲しませるようなことには…絶対しない。どうせ僕はいなくなるんだ。もう僕は、誰とも深く、関わらない)  魔法学院のツンデレ優等生とは、特に、関わりたくなかった。  とにかく、僕は、異空間収納袋に入っている、ユクレシアや砂漠の国で集めたアイテムのどれかを換金して、今日の分の宿代にしなくてはいけなかった。ゲームの中で、主人公が、おつかいに行くときに、換金所が出てきたことがあった。僕はとにかく、そこを目指した。  実は、今回、僕は恥ずかしくも、食い気味に、フィリの攻略をさせてもらった。羽里がそれはそれは、にやにやしながら、「へえ、ふーん、ほー」と、変態親父みたいな表情で、僕の様子を窺っていたが、背に腹は変えられなかった。  よくはわからない。  よくはわからないけど、僕は異世界転移をするたびに、なぜかツンデレ属性の人とばかり関わるという、パターンがあるのだ。今回もそうかどうかはわからない。それでも、回避するに越したことはない。それに、今回のツンデレ担当は、ヒューにそっくりのフィリなのだ。フィリの行動パターンを把握して、それとは絶対に被らない行動を取りたいと思ったのだ。  そして僕が、換金所のあるエリアに差し掛かろうとした時、僕の目の前に、ドーナツ屋の看板が目に入った。 (え、あ…ドーナツ……)  主人公が働くことになる、カフェのライバル店である。ショーウィンドウから見た店内には、色とりどりのトッピングがされた、おいしそうなドーナツが、たくさん並んでいるのが見えた。僕は急いで換金所に行き、お金になりそうな適当なアイテムを換金して、当面の軍資金を作ると、すぐにドーナツ屋に戻った。  そして、紙袋いっぱいに、たくさんのドーナツを買いこみ、にこにこと溢れてしまう笑顔で、外に出た、瞬間。  僕の頭のよりも、少し上、薄い水色が一瞬見えた気がしたのだ。あの色は、エミル様がくれた、水色のドーナツにちょっと似てる、と、うっかり二度見してしまった。  そして、瞬時に後悔した。  そこには、驚愕に目を見開いた『フィリ』がいて、そして、そのきれいな顔が、ぱあああっと、花が咲くように、全開の笑顔になりかかったのを見て、僕は思わず叫んだ。  そして、全速力で逃げ出した。 「ぎゃああああああああああああああ」  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→ 「はあ はあ はあ はあ」  僕は、ぜえぜえと、肩を上下させながら、荒い息を吐いていた。  なぜ、何故フィリが、僕の顔を見て、全開の笑顔になりそうだったのか、どうして魔法学院が授業中であるはずの時間に、あんなところを歩いていたのか、僕には見当もつかなかった。が、今一番の謎は、ーーー。 (な、なんで、なんで追いかけてくるの!!!)  路地裏の壁に手をつき、体を半分に折りながら、僕は、けほっと咳をした。涙目になりながら、その涙の理由が、全速力で走ったからの生理的なものだけではないような、そんな気がしていた。 (そっくりだった…本当に、そっくりだった……)  懐かしさと、苦しさで、きゅうううっと心臓が締めつけられた。  僕はわかっていた。ユノさんと、あんな別れ方をしてから、僕は、ヒューに会いたくて、会いたくて、仕方がなかったのだ。恋愛感情を自覚したこともある。ユノさんとの別れが辛すぎて、ヒューに抱きしめて欲しかったっていう甘えもある。ユノさんとヒューは違う人間で、僕は、ヒューのことがやっぱり好きなんだって、再認識したかったというのもある。  そんな甘ったれた今の僕に、あの顔のフィリと関わっていける自信はなかった。 (とにかく、逃げなくちゃ。どこか、絶対に、絶対に見つからないところに…)  僕は重い足に、なけなしの力を入れ、グッと踏み出した。フィリの魔法学院とは反対方向の、街の外れの方に向かおうとして、後ろから声をかけられた。 「おい。なんで逃げるんだ」  ドクンッと心臓が跳ねた。  後ろからかけられた声は、明らかに|ヒ《・》|ュ《・》|ー《・》|の《・》|声《・》だった。  羽里の言っていた通り、ユクレシア物語のヒューの声優さんと、この乙女ゲームのフィリの声優さんは、一緒だった。もちろん声優さんの声と、本物のヒューの声は違う。だけど、僕は、あのヒューの涼やかな声も、大好きだったのだ。そして、今、その涼やかな声は、多少の怒気を孕んで、僕の後ろから投げかけられた。 (まずい…フィリは、魔法学院一の魔法使い…どうやって逃げ……あっ)  そこで僕は、そうだ、『ルクス』を使えばよかったのか、と、気がついた。この世界は、様々な魔法を使うことができるはずだった。僕は、ユノさんに教えてもらったルクスを発動し、僕の体のまわりを、黄緑色の光の筋が舞った。フィリのびっくりした顔が一瞬見えた。  何かを話そうと口を開こうとしたフィリをそのままに、次の瞬間、僕はもう、その場には影も形もなかった。  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→  結果的に、どうやら僕は逃げきることができたようだった。まだ昼過ぎではあったけど、早くしないと宿屋が埋まってしまうかもしれない。とにかく、僕は宿屋を探すことにした。実はさっき、ドーナツ屋さんで、おすすめの宿屋を聞いておいたのだ。  僕もだいぶ、異世界に適応できるようになってきているような気がする。  今、僕が歩いているのは、海岸の近くだった。  この魔法都市ヴェネティアスは、水上に浮かぶ魔法都市なのだ。ふと横を見れば、水色とセルリアンブルー、それからコバルトブルーがグラデーションになったような、美しい海が広がっていた。 「すごい…」  思わず僕は、その光景に見惚れてしまった。  海は地球でももちろん美しい。それでも、やっぱり異世界は、どこか魔法めいていて、きらきらと輝く水面がきれいで、きっと海の中にも、不思議な世界が広がっているんだろうな、という気がした。僕は、整えられた白い防波堤に手をつきながら、その様子をしばらく眺めていた。  そして、その時、後ろから声がした。 「お前。まさか俺が、生体探知もできないと思ってんの?」 「!!!!!」  気づけば、僕の後ろから、慣れ親しんだ涼やかな声がした。  ビクウッと体を震わせたが、恐ろしくて、後ろを振り返る気にならなかった。僕の体の、右と左に、なぜか綺麗な手があるのがわかった。本当に、くっついてしまいそうなほど、すぐ後ろに感じる気配の近さに、僕の背筋をツーと冷や汗が流れた。なぜか僕は、長く伸びた両腕に、閉じこめられているところだった。 (生体探知………そうだ。フィリに、そんなことができないわけない…でも…)  どうしてわざわざ自分を追ってくるのかがわからなかった。  フィリはツンデレなのだ。こんな風に、人を追いかけたりするタイプのキャラクターじゃない。ましてや、こんな、腕の中に主人公を捕まえるみたいな体勢。 「なあ、なんで逃げんの」  何も言わずに怯えている僕に痺れを切らしたのか、あるいは、怯えている僕が面白かったのか、理由はよくわからない。なぜかフィリは、ちゅっと僕のうなじに唇を落とした。  僕の口から「ひうっ」と変な声が出た。  僕はもはや涙を浮かべながら、でも、何か言わないとまずい気がして、ゆっくりと、怯えながら、おずおずと、右後ろを振り返った。  そして、はっと息を飲んだ。  目の前には、好きで、好きで、大好きで、考えるだけで胸がきゅうっとなってしまう、大好きな人の顔。今、首筋に触れた、この薄い唇が、どんな温度で、どんな柔らかさで、僕の唇に触れた時にどんな感触がするのか、僕は、知っていた。 (いや、違う。違う人だ…。フィリ。これはフィリ。ヒューじゃないんだから)  気を抜けば、その胸に身を委ねたくなってしまう。  会いたかった。会いたくて、会いたくて、会いたかった。ヒューに会えなくなって、僕の時間軸ではもうすでに、五年の月日が流れていた。  でも違う。これは違う人なんだと、勘違いしそうになる頭で、必死に否定をする。僕の後ろにいるのは違う人。なぜか、僕がすごく弱いうなじに唇を当ててきたけど、違う人。違う人、違う人、違う人。わかってる。わかってるのに。  それでも、はあっと僕の口から、熱い息が漏れた。 「っっ、お前、そんな顔、ーーー」  びっくりしたような顔をしたフィリは、なぜか、僕の左手をスッと取り、|何《・》|か《・》を確認した。そして、ちょっと怪訝そうな顔をして、そしてまた僕を見た。チッと小さく舌打ちすると、僕の両頬をぎゅうっと片手で、ぎりぎりと潰しながら、言った。 「街中でそんな顔してんな。それで、なんで逃げるんだよ」  僕は、なんて説明したらいいんだろう、と、考えをめぐらせた。  なぜか僕が逃げたことで、逆にフィリとの接点を作ってしまったらしい。この世界で、絶対に絶対に関わりたくなかった人物に、転移してから一時間も経たないうちに、ばっちり接触してしまった。しかも、これはおそらく、濃厚接触だ。記憶に残らないくらいの接触であれば、まだどうにかなったかもしれない。が、その可能性はもうすでに潰えた。  とにかく、僕はフィリとはこれ以上絶対に関わりたくなかった。記憶に残らないのはもう無理ならば、嫌われたらいいという結論に達した。  そして、なんでもいいから、僕のことを嫌ってくれたらいいと思い、もう思いついたまま、本当のことを言おうと思った。 「…か、顔が」 「顔??」 「その顔が、見たくないんです!!!!」  そして、明らかに不機嫌で不穏で、不吉な、地を這うような、低い低い声が耳元で聞こえた。 「……………へえ」

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