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第44話 鏡

  「…………」  あの後、フィリと別れたあと、ぽつぽつと小雨がふり始めていた。  そしてそれは、今や、かなりの激しい雨になっていて、僕はフィリがちゃんと帰れたかな、と心配していた。  でも、あのフィリのことだから、「俺を誰だと思ってるんだ」とか、言われそうだ、と思って、ふっと笑ってしまった。 (あー…あと二週間。いや、まだわからないけど。あの二人の密着度を考えると、もう恋人同士みたいだった)  ゲームではどうだったっけ、と、もう一度思い出してみる。 『フィリ』には、誕生日に海で告白されて、それでキスして終わりだったはずだ。オーナーの場合は、攻略ブログの情報ではあるけど、あのカフェで告白されて、キスして、指輪をもらうはずだった。婚約とかそういう情報はかかれてなかったから、ただ単純に指輪をもらうだけなのかもしれないけど…、と、そこまで考えて、「あれ?」と僕は思った。  さっき、彼女たちは手を繋いでいなかっただろうか。 (あれ……普通、付き合ってないのに、手ってつなぐんだっけ……)  よくわからないな、と思った。もうすでに付き合ってる可能性があった場合、もしかして、期限が早まることもあるのだろうか。  ミズキさんの四年があったのだから、その可能性もなきにしもあらずだった。  僕は「はあ」とため息をついた。 (どちらにしても…もう後ちょっとだけ……)  すると、その様子を見ていたのか、邪神がどこからともなく姿を現した。どうしてこう、一番見たくない時に、この面白二頭身猫は、現れるんだろう。内心舌打ちをする。  どうせ、ろくでもないことを言われるんだろうと思った。 「いやあ、お前は本当に、どの世界でも色んな種類の、絶望と葛藤があって、面白いなー。もしかすると、我輩が関わったの人間の中で、一番面白いかもしれん。毎回味が違って、とても趣がある」  やっぱりろくでもないことだった。  そして思う。『僕』が面白いわけではなかった。  僕を取り巻く環境が面白すぎるだけだった。  面白い妹から始まり、面白い異世界で、おかしなツンデレに囲まれ、僕は、毎度、さまざまな絶望と葛藤を抱え、最終的に、そのおかしなツンデレのことを、ほぼ毎回好きになってしまい、新たな絶望と葛藤を抱え込んでいく。そういうループの中にあるのだ。  そして、出会った人たちのことを思い出す。 (ヒューはどうしてるかな。エミル様は元気かな。ユノさんはちょっとでも元気になったかな。フィリは僕がいなくなったら、どうなってしまうんだろう…)  そのとき、僕の心を読んだかのように、邪神がおかしなことを言い出した。 「お前の顔を、あの鏡で写してみたらどうだ」 「え?」 「あの『想い人を映す鏡』だ。そんなに恋焦がれているのなら、もしかしたら、お前の想い人でもうつるかもしれんぞ」  僕はため息をついた。  あれは、確かに魔法陣は本当にそれっぽいことが描かれていたけれども、結局ただの鏡で、不発だったのだ。あれが本物だったなら、僕はヒューが今どうしているのかを、知ることができるはずなんだから。 「そんな、まさかな」と思いながらも、僕は、なんとなくヒューの異空間収納袋から、鏡を取り出してしまった。  僕は、その邪神のあからさまな誘導に、全く気がつかなかった。  ちょっと古ぼけているその鏡を撫でながら、ヒューが映りますように、ヒューが映りますように、と思いながら、自分の顔を写してみたのだ。  そこには、見慣れた自分の顔。そして、あのときのように、鏡の表面が、ゆらゆらと虹色に揺れたかと思うと、そこには、ーーー。  薄水色の髪、水色の瞳の、フィリが、自分の部屋で、ぼんやりと外の景色を見ている姿が映し出されたのだ。 「…………え?…フィリ??」 (どういうこと………?) 「え、待って。いやいやいや、ちょっと待って」  あのとき、僕とユノさんが鏡を覗いたとき、鏡は僕とユノさんを映したのだ。それで、今、鏡はフィリを映している。これはもしかして、僕が、モフーン王国にいたときは、ユノさんのことを好きで、今はフィリのことを好きという意味か、と考えて、いや、違うだろ、と思いとどまる。  だって、あの時点で僕はまだ、ユノさんのことを好きにはなっていなかったはずだった。だから、もし本当に、この鏡が本物で、本当に、想い人が映るんだとしたら、ヒューが。 (ヒューの|魂《・》|の《・》|現《・》|在《・》|位《・》|置《・》が映るはず………………え?) 「え、待って。待って。待って。『魂』が………?」  そのとき、恐ろしい可能性が、僕の頭をよぎった。  似ている、と何度も思った。フィリに至っては、本人と区別がつかないほどに似ていると、何度も思った。こんなに似ていることってあるんだろうかと、何度も何度も思っていたけど、そんな、そんなはずはない。 (ヒューの魂の現在位置が、もしも、もしもフィリだったら……?) (え……???だとしたら、ユノさんも?え????え???) (え、待って。待って。フィリが、ユノさんが、もしも、もしも、ヒューの魂の、あの時点での、それに、今の、現在位置なんだとしたら、それって………)  それは、ヒューがもう、生きていないということに、他ならなかった。いや、もしかすると、ヒューの魂が、ヒューになる前の、前世という可能性もあった。それでも。それでも僕は、ヒューがもう生きていないんじゃないかという可能性ばかりが頭に浮かび、震え上がった。  追い討ちをかけるように、邪神が言った。 「ほう、お前の想い人の魂が、ちゃんと映ってるではないか」  僕は目を見開いて邪神を見た。邪神はいつも通り、にやにやした顔で浮かびながら、丸い手をむにむにといじっていた。   内臓を握りつぶされているみたいな、ものすごい圧迫感と、息の仕方を忘れてしまったみたいに、僕の呼吸は早くなった。心臓がばくんばくんと、爆音で鳴り響く。 (いや、違う。違う。違うよ)  思考を放棄しようとする頭で、リヴィさんの言葉を必死で思い出す。  そう、時間軸は外側から見たら、一定方向に流れているとは限らないのだ。そうだから、違うはずだ。ヒューが生きていないっていうことにはならない。できる限りの否定を、思いつく限りの否定を、考え、考える。理論上のことはわかる。何が正しいのかもわかる。だけど、ーーー。  だけど、事実が一つある。  どんなに取り繕っても、どんなに色んな可能性を考えても、その事実だけは、くつがえらない。  今、この時点では、ヒューは生きていないのだ。  ひゅっと口から嫌な音がした。  はあっはあっと、息を吸い込みすぎて、呼吸がうまくできなかった。頭に酸素がまわりすぎて、ひどい恐慌状態にあった。それでも、震える手で、もう一度、鏡を見る。  まっくらな夜の雨が降る外を、ただぼんやり眺めていたフィリの唇が「のあ」と、動いたような気がした。  僕は、ベッドのサイドボードに、鏡を置き、そのまま、駆け出した。  不安定に置かれた鏡が落ちたのか、ガシャアアアアンと何かが割れる音が、後ろから聞こえた。  それでも、僕には振り返る余裕なんてなかった。  扉をバンッと開け、転がるように、階下へ降りると、そのまま、雨の降る街へと走り出した。大粒の雨が、ばんばん僕の顔を濡らし、流れ落ちていった。  それでも僕は、走るのをやめるわけにはいかなかった。  濡れた服は、どんどん重さを増して、それにつられて、足もどんどん重くなった。  それでも重い足を、どうにか踏み出して、一心不乱に駆け抜けた。 (ヒュー…ヒューなの?ヒューがそこにいるの??)  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→ 「ふぃり!」 「ーーーえ、わ、ノア?」  扉を開けたフィリは、びしょ濡れの僕を見て、驚いた顔をしていた。  僕は、フィリの服を濡らしてしまうかも…と考える余裕もなくて、その姿を見た瞬間に、フィリに飛びついた。  抱きしめて欲しかった。ただ、抱きしめて欲しかった。  僕の後ろで、パタン、とフィリの家の扉が閉まった。  フィリはきっとびっくりしただろう。冷たい雨に散々濡れたと言うのに、僕の頭は全く冷静じゃなかった。ちゃんと考えることができれば、リヴィさんの言っていた言葉を、ちゃんと加味することができたはずだった。でも、この時、この瞬間、僕は、ヒューが今存在していないっていうことが、ただ恐ろしくて、怖くて、泣きそうだった。  そして、ーーー。 (ヒューの魂は、フィリの中に…)  フィリの肩口に、頭を寄せながらじっとしていると、フィリの心臓の音が聞こえた。  それは間違いなく、フィリが生きている証で、そして、ヒューの魂が紡がれている証だった。はあはあ、と肩で息をしながら、涙をこらえながら、このやりようもない気持ちをどうすればいいのかと考えていた。  頭では、わかる。頭ではわかっているのだ。それでも。  フィリの顔が見たくて、僕は顔をあげる。  そこには「ん?」と、僕を見るフィリの顔があって、その優しい表情に、僕は涙がこぼれそうだった。ぎゅっと唇を噛みしめて、こらえる。口角は、きっと下がってしまっている。  きっとフィリは、わけがわからないと思うだろう。それでも、僕は、泣きそうな声で、尋ねた。 「フィリ。魂って……もし、魂が同じだったら、その人間って似るのかな…」 「泣きそうな声で、聞くことか?それ。……さあな。ノアは、どっちがいいんだ」  フィリの言う通りだった。  現状僕は、ずぶ濡れになって走ってきて、突然、魂の話をはじめる、とんでもなくやばい奴だった。それでもフィリは優しくて、ずっと僕の濡れた背中を、さすってくれていた。  僕は考えてみた。  もしも、ヒューも僕も、死んでしまって、もしも、また違うどこかの世界で会うことができたなら。もし、ヒューがフィリみたいに、そっくりな性格で転生してくれたなら、もし、僕が僕みたいな性格のままで転生できたなら。お互いに、記憶がなかったとしても、僕はきっと、きっとまた、ヒューのことを好きになってしまうと思った。  死んだ後のことはわからない。  今だって、フィリが、ヒューの前の人生なのか、後の人生なのか、わからない。  それでも、もし、もし転生して、またヒューに会えるなら、僕は、ーーー。 「似てる方がいい」  ぽろっと涙が溢れてしまった。堪えても、堪えきれなかった。  だって、だってーーー。 「何回でも、好きになれるから」  はじめはまた、ケンカ腰の出会いかもしれない。お互いにまた、意地をはって、言い合って、また、ドーナツを挟んで、いがみあうことになるかもしれない。それでも、ーーー。  それでも僕は、あの、おかしくて、不器用で、誰よりも優しいヒューのこと。  好きにならないわけはなかった。 (何回だって、好きだよ。好きになっちゃうよ。だって、だって、) (ヒューだから)  僕の目から涙が溢れたのを見て、すこし上から「はあ」とため息が聞こえた。でもそのため息に反して、すごく、すごく優しい声で、ふっと笑いながら、フィリが言った。 「じゃあそれでいいだろ」  こくこくと僕はうなづいた。その優しい声色に、またひとつ、ぽろっと涙が溢れた。  フィリとの出会いだって、いい出会い方だったとは、きっと言えなかった。僕はフィリの顔を見て、悲鳴をあげて、逃げ出したんだから。それでもやっぱり、逃げてもやっぱり、僕はフィリのことを、好きになってしまったのだから。 (好き…好きだよ…フィリ)  それから、フィリが尋ねた。 「何だよ。好きな奴の魂でも、俺の中に入ってたのか」 「………ええ?!」 「なんか、そんな顔。してる」  好きな人の魂が、目の前の人間の中に入ってたときみたいな顔が、一体どんな顔なんだかわからないけど、もう、フィリはなんでも知ってるみたいだ、と僕は思った。  まさか、自分が言ってることが、本当に正解だとは思ってないだろうけど、僕がひとつ何かを言うと、フィリは千通りくらいの答えの中から、答えを選んでいるような気がする。  あまりにもびっくりして、つい、頭の中で、正解〜☆、とか言う、現実逃避をしながら、呆然としてしてしまった。でも、本当のことは、言えるわけはなかった。そんなこと言われたら、フィリだって困ってしまう。僕はできるだけ、普通に聞こえるように、笑いながら、「それ、どんな顔」と言った。  しばらくそうして、玄関の辺りで抱き合っていたけど、ぽつりとフィリが言った。 「じゃあ、何回でも好きになってよ」 「……え?」 「何回でも好きになってくれるんだろ」  両手で頬を挟まれて、ちゅ、と唇を落とされた。  別に僕は、フィリの中に、好きな人の魂が入っていたとは言ってなかった。でも、フィリはもしかしたら、そう思ったのかもしれない。僕は、なんだかそれはやっぱり言ったらいけないことのように思って、否定しようと口を開こうとした。  そのとき、フィリが真剣な顔で、僕の名前を呼んだ。 「ノア」  なんだろう、と思って、僕もじっとフィリのことを見つめ返した。フィリは続けた。 「魂云々はさ、俺にはよくわからないよ。ーーーでも」  上から見下ろされて、僕はよくわからなくて、「ん?」という顔で、フィリの次の言葉を待った。  フィリはちょっと意地悪そうな顔をして、僕の額に、こつんと額を合わせ、それから妙に艶かしい声で言った。 「自分のことを狙ってる男の部屋に、泣きながら走ってきちゃったら、」  フィリの水色の瞳が、夜の色を灯した気がした。 「これからされることは、ひとつだよ」

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