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ハルちゃんにそう言われて、気づいたら僕はうんと頷いていた。
僕は、とても疲れてたんだと思う。母さんが出て行くと言い出してから三日ほど殆ど眠れてないし、そこにハルちゃんが現れて、撫でてくれて、家に来ないかというので僕は付いてった。ハルちゃんちって、あの、ハルちゃんちだけど、まあもうどうなってもいいや、とも僕は正直思っていた。
子供の頃、母さんの愛人が来ている間、僕は家に帰ることができなかった。母さんが僕の頭を、良い子ね、待っててね、と撫でてくれるので、僕はいつまでも公園で待つことができた。いつまでも公園にいる僕に声をかけてくれたのが、当時は中学生で、四つ年上のハルちゃんだった。ハルちゃんは年下の僕をひとつも馬鹿にすることなく、いつも優しかった。ハルちゃんは家にも連れってってくれた。
ハルちゃんちは、ハーレムだった。比喩じゃなく、ハーレムだった。
気功整体院をやっているハルちゃんちには、いつも女の人が4、5人いて、よくハルちゃんのお父さんとまぐわっていた。ハルちゃんのお父さんは僕が遊びに行くと、奥の部屋で女の人を喘がせながらすごく快活な声で、おお来たんか、待っててな、もうすぐ飯にするから! と言ってくれた。
整体用のベッドが並んでいる大きな部屋には、鉄板焼きができる大きなテーブルがあり、いつもハルちゃんのお父さんはそこで信じられないくらい美味しい焼きそばを作ってご馳走してくれた。
ハルちゃんちにいる女の人たちもやってきて、みんなで楽しく焼きそばを食べた。
やがて、近所でそれはそれは悪評が高いハルちゃんちに僕が出入りしていることが母さんにばれ、シクシクと泣く母さんを見て僕はハルちゃんに行くのをやめた。
『楓、なんで俺のうちに来なくなったの?』
ハルちゃんにそう聞かれたのを僕は覚えている。
『母さんが、悲しむから・・・』
そっか、と言ったハルちゃんの悲しい顔は今でも忘れられない。
何年かぶりかのハルちゃんちは、かたちは何も変わってなかったけど、誰もいなかった。大きな鉄板焼きのテーブルは物置になってた。奥の部屋に並んでいるベッドはひとりぶんだけ使われた形跡があって、ひとりぶんの椅子と、物が積まれたテーブルもやっぱりひとりぶんスペースだけが空いている。この家のどこもかしこも、ハルちゃんひとりぶんの気配しかなかった。
僕は、なんで誰もいないの、と聞くことは憚られて黙ってた。うちだって今日、母さんが出て行ったところだ。なんでいないの、って誰かに聞かれても、僕だって困る。いないから、いないんだよな。
その代わり、一番気になってたことを聞いた。
「ハルちゃん、売春してるの? さっき、無理やり犯す依頼だったって言ってたけど」
「ん? ああ・・・売春じゃないよ。マッサージサービス」
「マッサージって・・・」
「父さんがやってたの、楓も知ってるだろ?」
「え、あれってマッサージだったの? ここ、ハーレムだったんじゃなくて?」
「ハーレムじゃないよ。あの女の人たちは、患者さん。ずっと死にたい気分のままの人だったり、イライラが収まらない人だったりを、マッサージして症状を軽くしてたんだ」
「へえ・・・」
「楓も受けてみる?」
は?
僕の頭を撫でてた手がゆっくり降りてきて、僕の首を撫でた。ぞわぞわっと鳥肌が立って僕は歯を噛み締めた。なんだこれ、気持ち悪いのに、気持ちいい。
「ハ、ハルちゃん」
「楓、オナニー依存症なんだろ? 非常階段で抜きはじめるなんて尋常じゃないな」
「うう・・・」
「触れば分かる、さみしくて体が悲鳴あげてる。なんでこんなことになる前にもっと早く俺のところに来なかったんだよ?」
ハルちゃんの手が腰まで降りると、すごい気持ちよさがじゅわっとお尻に広がった。僕は慌ててその手を掴んだ。
「やめてよ、ハルちゃん」
「なんで? 楽になる」
「いらない、楽にはなりたくない」
「楽になりたくない?」
「なりたくないよ、だってハルちゃん、僕のこと好きじゃないでしょう?」
「・・・え?」
「好きじゃない人と、こんなことするのはおかしい」
ハルちゃんはしばらく黙ってから、僕の体から手を離した。軽く言う。
「はは、そんなそんなまともなこと言う奴と久しぶりに話した。飯、食ってく?」
僕は頷いた。
明け方だった。僕は夢を見ていた。真っ白なワンピース姿の母さんの夢だ。
母さんはきれいで、ふわふわして、可愛いものが好きだ。幼いころの僕はずっと女の子の服を着て暮らしていた。僕は女の子の服を着るのが好きだった訳じゃないけど、僕が可愛い服を着たら母さんが喜ぶのが嬉しかった。小さい僕を母さんはよく「私のお人形さん」と言って抱きしめてくれた。
僕が成長して声変わりを始めた頃から、母さんは僕とあまり一緒にいたがらなくなった。背が伸びるほど食欲が増える僕を、あまり甘いお菓子を食べなくなった僕を、ベッドから足がはみ出てきた僕を、母さんはどんどん好きじゃなくなっていって、僕に興味もなくしていった。だけど僕は叩かれたこともないし飢えたこともない。母さんは、僕に親切だったんだ。
そう感謝するほかに、僕にどうすることができただろう。
僕のことを嫌いな人に、僕のことをもっと好きになってくださいなんてお願いするのは無茶なことだろう。そして、僕がその人のことを大好きであるのなら、なおさら無理なお願いなんてできはしない。
声をかけられた気がする。
「眠りながら手を噛むなよ、傷つくだろう」
「うう・・・」
知らないよ、眠っている時の僕のことなんて、誰も知らないんだから。
目が覚めたらすっかり朝になってて、何故か僕の手にはぐるぐるにタオルが巻かれていてびっくりした。
「楓、起きた?」
出かける準備を済ましたハルちゃんが、寝ている僕を上から覗き込んできた。
「俺はもう出かけるけど、ここにいればいいから」
まだ目覚めきれないまま僕はうなづく。そしたらぐっとハルちゃんの顔が近づいてきて、くちびるにくちびるが乗っかってきた。口内にぬるっと入ってきた舌が僕の舌をひとなめした。そのあとすぐにハルちゃんの顔は離れて、じゃあいってきます、と言ってハルちゃんはいなくなった。
えっ。
なんで、今、キスされたんだ?
えっ ちょ、僕、はじめてなんだけど、あっ いや、でも昨日は手で抜いてもらったんだっけ、えっ でもあれは事故なんじゃ。
誰もいなくなって静まり返った部屋で僕はパニックになったが、しばらく経つと考えるのも疲れて、そのまま、また、寝た。もう一度目が覚めたらもうお昼だった。ぼんやりとした頭で、さっきのくちづけは寝ぼけてたから気のせいかもしれない、と思った。・・・いや、そんな訳ないか。
ひょっとして、頼まれれば誰とでも寝るらしいハルちゃんは、性的なことに対してとても緩いのかもしれない、とも思い当たった。そもそもハルちゃんはハーレムの中で育ってきたんだし、きっと・・・そういうことなんだろう。
様々なオナニーグッズで陰気に自分を慰めてはきた僕に、恋人がいたことはない。キスくらい、ハルちゃんにとってはなんでもないことかもしれないけど、僕にはまったく慣れていないことだし、自分が万年のさみしさを抱えて拗らせてることも自覚してる。過度なスキンシップにいちいち振り回されるのは、なんだか、からかわれてるみたいで不本意だった。
「はぁ」
オナニー、したい。
心が惑わされて、傷口がじくじくするみたいに胸が痛む。早く家に帰って、慣れ親しんだディルドでさっさと前立腺を刺激して抜いちゃいたい。そうすれば頭がぼんやりしてあとは眠るだけだ。
「帰ろうっと」
のろのろと身を起こす。ハルちゃんは、大学に行くって言ってたっけ。家の鍵はどうしたらいいのかな。どこかに置いてあるかな。
眠るところと、食事をするところ以外は乱雑に散らかっている部屋を見回した。部屋に山積みになってるものは、おおむね本だ。専門書から、自己啓発本まで、さまざまな本が積み上がっていて、その中に大学からの封筒が混ざってた。大学名を見て驚く。
ハルちゃん、めっちゃ頭いいんだ・・・。
顔もいいし、体格にも恵まれてるし、優しいし、せ、性的マッサージ? までできるんなら、滅茶苦茶モテるんじゃないのかな。まー、いいけど、僕には関係ないけど。
コンコンと、音がしていることに僕は気づいた。入り口からだ。
カーテンの向こうの整体院と書かれたガラスの戸を開けたら、女性がいた。真っ黒な髪の、ロングスカートの、大きなカバンを持ってる。女性が言う。
「あの、陽流さん、いらっしゃいます、か・・・」
「あー・・・、いえ、今は出かけています」
「あっ じゃあ、いい、です・・・ごめんなさい・・・」
「あっ いえ、僕はもう出るので」
ちょうどいいから僕と入れ替わりで中に入って待ってもらおうと思ったのに、もういなくなってた。ハルちゃんの彼女かな。悪いことしちゃったかなあ。
だけど、その後も、ハルちゃんの彼女候補は何人もやってきた。
「ハルは?」
「あ、出かけていまして」
次はピンクの髪に真っ黒な服の女性だ。がっかりして帰っていった。その次の子はすごく上品なワンピースの美人。残念そうに言って帰っていった。「ハァ? いないの?」三人目はめちゃくちゃ綺麗な年配の女性だ。怒って帰っていった。
僕は家に帰りたいのに鍵は見つからず、その間にも次々と女性は訪ねて来て、帰るタイミングを失い続けた。
「え? ハルいないの?」
「ハイ、スイマセン」
もう何人目か数え忘れた彼女候補に僕はおざなりに声をかける。彼女候補が言う。
「いいけどさあ、ハルのせいで裕輔はいなくなったんだしさあ、ちゃんとしてほしい」
裕輔? ハルちゃんのお父さんの名前だっけ?
いなくなったんだ・・・。ハルちゃんのせいって、なんだろう。
あれよあれよとあっという間に夕方になってしまい、そのうちにハルちゃんが帰ってきた。
「ごめんごめん。看板出してないからこないと思ってたのに、誰かいると思って入ってきたんだな。え? いやいや、彼女じゃない。お客さんだよ。マッサージの。遠慮がなくて困るよ。楓もびっくりしただろ。今度から出かけるときはシャッター下ろしていくよ」
「いや・・・」
僕もう帰るし、と言おうとしたらまたハルちゃんが、飯食ってくだろう? 弁当だけど、買ってきたから。と言う。ふたりぶんの食事が並べられる。断りきれずに僕は座る。素直に言うと、おなかも空いてた。
ハルちゃんとふたりきりで食事をするのはこれで二度目だ。
ハルちゃんといると不思議な感じがするときがある。空気がふわっとあたたかくなるような、視界がパッと明るくなるような、そんなの。食事のためのお茶を用意したり、テーブルを拭いたりしてると、とても気持ちが落ち着いてきて、ずっとハルちゃんとこんな生活をしていくのかもしれない、そんな気持ちになった。
心の中に小さな火が灯ったような、この感覚が心地よくてあの女の人たちはハルちゃんに集うんだろうか。
そのことをかいつまんで、つまりはみんなハルちゃんのことを好きになっちゃうんだねと、ハルちゃんに言ってみたらハルちゃんは首を捻った。
「うーん、違うと思うな。彼女たちの目的はもっと、こう、はっきりしてて・・・ああそうだ。楓、手出してみて」
差し出された手に僕は自分の手を乗せた。
ハルちゃんは僕の手を軽く握って、話し出した。
「俺がやってるのはつまり気功マッサージなんだけど。気ってさ、血液に乗せると流しやすくてさ、性欲ってつまり性器に血液をためて発散させるわけだから、悪い気をそこに集めてはじけさせると、まあ、鬱を蹴散らすには手取り早いんだよね。楓がオナニーばっかりしてたのもそう言うことだと思うんだけど」
なんの遠慮もなく自分の自慰について説明されて僕は顔が赤くなる。
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