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愚かな男
それが大切なモノだと気付くのにはあまりに時間がかかった。
それはもう…
俺の手元にはない。
BARの裏にある一室。
男達の溜まり場となっているそこに、トオルはいた。彼の顔には生気がない。いつもならジッとわたるを見つめるその瞳も虚で色がない。
誰もがそれを分かっていた。
その場にいる男達全て、彼の調子がいつもとは違うことを分かっていた。
ただそんな姿を見るのは皆初めてのことで、戸惑っているのだ。
どのように接すればいいのか分からない。
彼が一途に思っていたわたるに振られた時でさえ、こんな情けない姿を見せたことはなかったというのに。
いつもとは違う雰囲気が漂う中、やっとトオルに声を掛けたのは、一回り年の離れたバーの店主、隅田だった。
「どうしたんよ、トオル君らしくない。みんな怖がっとるやろ。」
「別に。」
「わたる君がきよと付き合ったときはケロっとした顔しとったやろ?なんや、それより傷付くことあるっちゅうんか。」
いや、あの時も確かに傷付いて、修復不能なまでへこんだ。それでも、支えてくれた人がいた。その人はもう、いない。いや、自らの手でその人を傷付けたのだ。償える筈がない。
「なんや、言えんのか。でもな、そんな顔しとったらみんな心配すんねん。触れて欲しくないんやったら、そんな腑抜けた顔はやめぇや。」
「…。」
無言。無言。
どうやら本当におかしくなってしまった。
この男というもの、喧嘩は強く、どんな状況でも冷静で冷徹。表情筋など殆ど動かない。それがこの男だった。
そして、彼が唯一取り乱すのは、わたるだけ。わたるが全てであったはずなのだ。なのに、この男が今取り乱している理由はわたるではない。
隅田は考える。
そして、ふと思い出した。
「なぁ、もしかして先月、なんかメルヘンな人形持ってたやろ?それとなんか関係あるんか。」
それは記憶に新しい。
ウサギの人形だったか。
まったく、似つかわしくないモノを持ったこの男に、笑い飛ばした記憶がある。ピクリと反応した眉に、図星だと判断した。
「確かお前、わたる君のお迎え以外の日は別の奴と帰っとったやろ。それにここに来ることも減っとったな。わたるがきよと付き合うたのが原因かと思っとったけど、ちゃうんやな。誰か、大事な奴でも出来たんか。」
隅田が導き出した答えは間違っていない。なにより、トオルが肯定するかのように頷いたのだ。
「もう遅い。」
「遅いってなんや。」
「あれにはもう、新しい連れがいる。」
「…お前はまた諦めるんか。まぁ、それもお前の勝手や。けど、敢えて言わせてもらうわ。お前は本当にそれでええんか?なんや、わたるのときはもうお前も諦めとったから何も言わんかったけど、でも今回はお前、諦め切れてないんちゃう?」
違う。
諦めるだとかそれ以前の問題。
トオルは何もしていない。ただ、そこにいて当たり前の人間がいなくなっただけ。
トオルは何もしていない。いつも隣に歩いていた人間がいなくなっただけ。
トオルは何もしていない。ただ、ただ、知らない間に懐に入っていた人間が、知らない間に手の中から消えていただけ。
追いかけもせず、捕まえもせず、もちろん愛を呟くこともなかった。
わたるとは大きな違い。わたるには愛をこれまでかというくらい呟いた。きよと付き合う前には自分に振り向かせる為に必死になった。
付き合った後も、未練のように送り迎えをして大切に守っていた。トオルはわたるがいれば良かった。
わたるがあれば幸せだった。
ただそれは見せかけの幸せ。
もう終わった幸せ。
もう、隣に置きたい人は決まっている。もしかしたら、わたるのように容易に諦められないかもしれない。
「あいつは今日どこにいる。」
「きよなら二階や。わたると一緒に行ったで。」
「そうか。」
トオルは静かに立ち上がり、二階に繋がる階段へ向かう。
隅田はその後ろ姿を静かに見守った。
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