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初めての恋を、どうしても告げられない男のお話

「ねえ、カースは初恋って知ってる?」 「……初恋……?」 やけに耳慣れない言葉を口にする少年に、俺は思わず聞き返した。 夜の静けさに包まれた薄暗いテントには、中央にランプがひとつぶら下がっている。 テントの中は、俺とこいつの二人きり。薄闇の中でも、少年の周りだけは何故か明るく見えた。 「うん、今日教えてもらったんだ。初めての恋の事なんだって」 お日様のように眩しい金色の髪を揺らして、少年はにこにこ笑って答えた。 そのくらいの事、世間に疎い俺だって流石に知っている。 しかし、その話題にはあまり触れたくなかった。 「ふうん」 素知らぬ顔で手元のナイフに視線を戻す。 俺は今、藁のベッドに腰掛けて木片から釣り用の浮きを削り出しているところだった。 俺の気を知ってか知らずか、少年はヒョイとベッドに上がると俺の背中に引っ付いてきた。 カサカサと藁の擦れる音。子どもらしい俺より高めの体温が、背からじわりと熱を伝えてくる。 「おい。俺は今刃物を扱ってる、あまり寄るなよ」 低く告げた俺の声を気にする様子もなく、少年は俺の肩から両腕を伸ばして「うーん」と呟く。 こいつは、俺がどんなに手を滑らせたところで、自分を傷付ける事なんてないと思ってるんじゃないか? 「僕、皆の初恋の話し聞いてたら、気になっちゃったんだよね」 声変わり前の高い子ども声が、俺の耳元で弾んでいる。 やはりそうきたか……。と思いつつ、俺はせめてもの抵抗で少年から顔を逸らす。 なるべく顔を覗き込まれないように。 俯けば、緩く括った細い黒髪が俺の顔を隠してくれる。 「カースの初恋って、どんな風だったの?」 問われることを覚悟していても、なお心臓が跳ねる。 「……」 なるべく平静を装って、黙々とナイフを動かしていると、待ちくたびれたのか、少年が俺の肩にぐりぐりと額を押し付けてきた。 「僕には、話したくない?」 残念そうではあるものの、明るく話す少年の声。 「そっか。……嫌な思いさせちゃったならごめんね。大事にしてるんだね、その人の事……」 少年の声に、ふっと寂しさが混ざる。 「――っ、そういう、訳じゃない」 思わず口にしてから、失言に手の甲で口元を覆う。 視界の端で、少年は少しだけ寂しげに微笑んで「そうだといいな」と呟いた。 いつも明るい少年の、どこか儚げな姿。 俺は無意識にナイフと木片を机代わりの樽に放る。 ……顔を合わせないようにしていたのに。 気付いた時には、俺は少年を振り返っていた。 少年は俺を見上げると、寂しさを残した金色の瞳で、それでも嬉しそうに微笑んだ。 その小さな頭を、俺は胸元へ引き寄せる。 ……違う。違うんだ。 俺は、お前以外に……お前より前にも、後にも、人を好きになったりしない。 俺にとってはリンデル……お前が、初めての恋なんだ……。 そんな想いを一滴も漏らさないよう飲み込んで、俺は、寂しげに俯く少年の頭をなるべく優しく撫でる。 俺の浅黒い指の間で、少年の金色の髪がふわふわと揺れた。 「ねえ……。カースは僕のこと好き?」 ぽつりと尋ねられて、俺は慎重に言葉を選んで答える。 「ああ。お前を嫌う奴なんか、ここには居ねぇよ」 俺の答えに、腕の中の少年が小さく笑う。 やはり、どこか寂しそうに。 「そっか。ありがと……」 「……っ」 ぎしりと軋む胸の奥へと、金色の少年を強く抱く。 俺にされるがまま身を任せる少年は、まだこんなに細く、柔らかく、幼い。 俺の言葉で、その未来を奪いたくはない。 そう願う自分と、この少年の全てを俺に縛り付けてしまいたいと強く求める自分が居る。 こんな物が……こんなどうしようもない物が、初恋だなんて。 「カース……? どうして……そんな顔してるの?」 細く小さな指が、慰めるように俺の頬を優しく撫でる。 金色のつぶらな瞳がテントにひとつきりのランプの灯りを宿して、揺れる麦穂のように俺を覗き込んで揺らめく。 俺の浅黒い肌とは対照的な白い指が、俺の肩口で緩く括った黒髪を優しく掬った。 「僕の初恋はね、カースだよ」 リンデルは、俺にだけ聞こえる声で甘く囁くと、細い指に絡ませた俺の髪にそっと口付ける。 「カース、大好き」 ドッと心臓が鳴る。まるで胸を殴られたような衝撃が、大波となって全身へ血を送る。 「……っ!」 顔が熱くなってくるのが分かる。 逃げるように逸らした俺の視線を追うように、少年が大きく首を傾げた。 不意に視線が絡まれば、花のような笑顔が俺へと真っ直ぐ向けられる。 ぎゅう、と胸が引き絞られるような感覚。 息が詰まって苦しいのに、どうしてもリンデルの笑顔から目が離せない。 ……こんなに、俺は何もかもが思い通りにならないというのに。 お前は……そんな風に嬉しそうに笑って言うんだな。 この想いが『初恋』だと。 「僕、ずっとカースと一緒に居たい……」 願いを込めて、少年が告げる。 何も返せない俺に、こんな俺に、それでも真っ直ぐ伝えてくれる。 「あのね、僕、強くなるよ。お頭よりも、もっともっと強くなるから」 不意に出されたアイツの名にギクリと体が強張る。 そうだよな……。リンデルにとっちゃ、俺はアイツの物みたいに見えてんのかも知れねぇな。 アイツを倒せば、俺を自分の物に出来ると、こいつも、そんな風に思ったんだろうか……。 こいつならそんな事考えやしないと勝手に思い込んでいたのか。俺は勝手に落胆する自分に心の内で自嘲する。 「そしたら、お頭も一緒に、三人で暮らせないかな?」 「……は?」 くりっと小さく首を傾げたリンデルを、俺はポカンと見下ろす。 「どうして……アイツも一緒なんだ……?」 「そしたら、お頭がカースに痛い事しようとした時、僕が『そんな痛いのはダメだよ』って言えるでしょ?」 「――っ」 この少年だけが。いつだって、俺を痛みから救おうとしてくれる。 その真っ直ぐな気持ちが大切過ぎて、受け取りきれずに戸惑う。 俺が、この汚れた手で受け取ってしまったら、この輝くようなまっさらな少年が、俺のように汚れてしまいそうで……。 俺は無意識に小さく首を振って、顔を背けた。 「カースは、お頭が好き……? ……僕よりも……好き?」 悲しげな声に、弾かれるように答える。 「っ、あんな奴、大っ嫌いだ!」 リンデルが、俺の勢いに一瞬キョトンとした顔をして、それからクスクス笑い出した。 「そっか、カースはお頭が『大っ』嫌いなんだ」 ……何がそんなにおかしいんだよ。 しばらく鈴を転がすような愛らしい声で笑っていたリンデルが、ふっと真剣な目で俺を見上げた。 「でも、お頭はカースが好きだよ。『特別に』好きみたいだ」 言われて、急激に心が冷える。 こいつは……。 本当に、どこまで知っているのか。 俺とアイツの関係を、どこまで理解しているのか。 アイツの俺への執着は、ちょっと尋常じゃない部分がある。 それでも、他の団員は俺の事をお頭の『お気に入りの玩具』程度にしか捉えていないはずなのに。 ごくり、と唾を飲めば、少年は俺を宥めるように柔らかく笑った。 「だから、お頭からカースを全部取っちゃうのは、可哀相だと思うんだよね」 優しい声で、ふわりと笑いながら。それでも、少年は俺をアイツから取り上げられると言った。 取り上げる事は出来るが、それではアイツが不憫だと。 「それに、カースがどうするのかは、カースが決める事だから……ね?」 言いながら、少年は白い指先で俺の黒髪を梳いて、そっと手を離した。 言外に『僕はカースの自由を奪わないよ』と囁かれたようで、息が苦しくなる。 俺を優しく見つめる金色の双眸には、俺の浅く歪んだ心なんて底まで見透かされてしまってるんじゃないか……? 二十歳も年上の俺なんかより、リンデルはよほど広くて深い心を持っている。 こんなところで、俺やアイツに食い潰されていいような人間じゃない。 俺は、こいつが陽の光の元で、胸を張って生きる姿が見たい……。 「僕、一日も早く一人前になるから。カースをいつでも守れるくらい、強くなるよ。だから、もうちょっとだけ……待っててくれる?」 これ以上ないほどに真剣な声で、まだ十にもならない少年が、俺に将来を誓おうとする。 「リンデル……」 苦い思いの中で、それでも確かに感じる喜びが、俺をまたどうしようもなくさせる。 「カース、大好きだよ」 愛を込めて囁かれた言葉。 俺は、それを受け取る事も出来ないくせに。 お前を……手放す事も出来ずにいる……。 細い両腕が、俺の頭を包み込むように伸ばされる。 求められて、戸惑いながらも唇を重ねれば、少年からホッと緩むような気配が伝わる。 俺が……不安にさせてしまっていたのか……。 罪悪感が胸を灼く。 「カース……」 少年が小さく囁いて角度を変える。 俺を深く求めるように、俺の頭を抱える両手に力が込められる。 俺もお前が好きだよ、リンデル……。 だからこそ、お前の未来を、奪いたくないんだ……。 まだ伝えられそうにない思いを抱えたまま、俺はどうしようもなく目を閉じた。

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