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第8章

ニコラスはサリネの屋敷の程近く、庭園の中に建てられた温室の一つにいた。  温室はすりガラスになっており、はっきりと中が見えるわけではないが、ニコラスらしき影が見え隠れしている。  サリネは開けっ放しの扉から中へと入った。「陛下っ!」  ニコラスは防水性の作業着を着て、ホースから木に水を撒いていた。  外とは違い、温室の中は蒸し暑く、サリネは羽織っていた毛皮のストールをラヴィに手渡す。 「サリネ様っ」  サリネの姿を見たニコラスの顔は信じられない、とでもいうように華やいだ。  端正で男らしい顔を嬉しさで歪め、初めて会った時のように水色の瞳を細めている。  サリネはその表情を見て、思わずたじろぐ。ニコラスには本当に、邪気がないように見えた。 「来て下さったのですねっ、その服はメアの伝統的な衣装ですね、健康的でサリネ様によく似合っていますっ! そろそろ昼時でしょう? ちょうど休憩にしようと思っていたところです、何か食べるものと飲み物を用意させましょう、ゼスター、サンドイッチと紅茶をっ、それと外にテーブルと椅子を運んでくれ」 「かしこまりました」  ニコラスに忠実な使用人はどこからともなく現れ、素早く主人の命令を遂行する。  ニコラスの勢いに負けてしまったが、サリネはニコラスと仲良くお茶をしにきたのではない。  ラヴィに助けを求めようとすると、ラヴィはゼスターたちの手伝いをしていた。 「お加減は大丈夫なのですか? やはり無理をされていたのですね。体調の悪さに気づかず申し訳ありませんでした」 「い、いえ……そんな、陛下が心配なさるほどでは」  優しく体調を心配され、サリネは目が泳ぐ。  完全にニコラスの調子に持っていかれているような気がしている。  早く言いたいことだけを言って、ここを立ち去りたい。しかし、ニコラスの嬉しそうな顔を見ていると、なかなか切り出すことができない。  もじもじしていると、温室の外から声がかけられた。 「陛下、奥様、ご用意ができました」 「ありがとうゼスター、それにラヴィも。さあさあサリネ様、先にお席についていてください。ここは蒸し暑いですからね」  ニコラスに言われがまま、サリネは椅子に座らされた。しばらくすると作業着を脱いだニコラスが温室から出てきた。ゼスターに手渡されたタオルで汗を拭った後、用意された席に着く。  清々しい陽光に清潔なクロスが照り映えている。テーブルの上にはサンドイッチと紅茶、お菓子が並べられており、真ん中にはピンク色のたくさんの花びらをつけた花が品のいい花瓶に飾られている。 「どうぞ、卵は食べられますか?」 「……好物です」  嘘だ。卵はあまり好きではない。メア・ドゥリース帝国のそれは味が薄いからだ。  ニコラスに勧められた卵のサンドイッチを手に取り、一口齧る。口に卵の味が広がった瞬間、サリネは驚いた。  具の卵焼きは塩が入っているのか少ししょっぱいが、味が濃厚だ。そしてサンドイッチのパンは甘い。それらが口の中で合わさり、とても美味しかった。  サリネは生まれて初めて濃厚な卵を食べた。 「美味しい……」  思わず感じたことを口に出すと、ニコラスは嬉しそうに説明を始めた。  「そうでしょう? シャルパンティエは畜産も有名なんです。卵も今日鶏卵場から届いたばかりの新鮮なものですよ。今度は別の卵料理を用意させますね。次はこの生ハムはどうですか? ペーストに使うオリーブオイルは下の農園で作った物で、僕もお気に入りなんです」 「オリーブは暖かい気候でしか育てられないはずでは?」  シャルパンティエ王国は寒さが厳しく長い。サリネの祖国であるメア・ドゥリース帝国は暖かいので、オリーブ農場などがあったが、ここでは厳しいだろう。 「色々工夫しているんです、冬でも暖かい気温を保つために温水をパイプに流してそれで室温をあげたり、寒さに強いオリーブの種を改良したり」 「晴蘭花もそれで花を咲かせたのですか?」 「ええ、そうです。思い出の花なので……どうしてもここで咲かせたくて、気に入って頂けましたか?」  ニコラスは今朝、贈った花束のことを言っている。メッセージカードの内容が頭の中にチラつくが、今、そのことでニコラスを責めるのはあまりにも的外れなように思えた。 「ええ、とても嬉しかった」  花の贈り物自体はとても嬉しかった。特に晴蘭花は祖国の雰囲気を感じられ、懐かしい気持ちになった。それにサリネが好きな花でもある。  破顔、という言葉の通りの表情をする人物をサリネは初めて見た。  屈託なく、何の下心もない。サリネに喜んでもらえて嬉しい、という無邪気な笑顔を見て、サリネも自分が暖かな気持ちになっていることに気がつき、顔が赤くなった。  急いで暖かい紅茶を飲み、サリネは暑いふりをして、赤面を誤魔化した。

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