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第9章
それからニコラスとサリネは昼食を共にするのが日課となった。
ニコラスは大抵昼頃から休憩時間をとり、その時間で温室の植物の世話をしたり、昼食を摂る。
サリネと昼食を摂ると、必然的に花や植物の世話が疎かになってしまう。なので、サリネはニコラスの手伝いをするようにした。
ニコラスと昼食を共に摂ったり、植物の世話をする内に、サリネは自分がニコラスをかなり誤解していたことを自覚せざる得なかった。
ニコラスにはサリネが抱くアルファのマイナスイメージに当てはまるところは一つもなかった。
身体こそ大きく、アルファ然、国王然としていて、黙っていればそれなりに威圧感があるものの、サリネがいるとその威厳は形なしだ。笑顔で寄ってきて、嬉しさを隠そうともしない。最近そのギャップが可愛くて仕方なく思えてきた。
それに私を女扱いしないでほしい、とサリネが言うと、以前贈ったメッセージカードのことも謝罪してくれた。
後はサリネのため、晴蘭花だけでなく、メア・ドゥリース帝国の花を育て、それを部屋に飾ってくれたり、食事の味付けをメア・ドゥリース帝国風に変えてくれたり。
ニコラスはとてもサリネを大切にしてくれていた。サリネが知っているアルファのように強引なところもなく、オメガだから、だとか、アルファだから、だとか、そういう括りで話もしない。サリネという個人をとても尊重してくれているように感じていた。
サリネがいつものように温室へ行くと、花壇に何か置かれているのに気がついた。
それは晴蘭花の花びらが押し花になっている栞であった。
ふと疑問に思い、その栞を手に取る。
ニコラスはこんなものを持っていただろうか。
サリネがその栞を観察していると、ニコラスが側に来たので尋ねてみた。
「こんなもの、いつの間に作っていたのですか？」
「ああ、それはね、だいぶ昔に作ったんです。僕が昔、メアに留学していた話は以前したでしょう？ そのとき、大切な人がくれたんです」
ニコラスの大切な人、という言葉がサリネに突き刺さる。
よくわからない焦燥感を覚える。
そういえばサリネもシャルパンティエ王国からメア・ドゥリース帝国に留学していた姫を知っている。聞く機会を失していたので、思い切ってその姫について尋ねてみた。
「陛下はアルファの姉か妹はいらっしゃいますか？」
「？ いいえ。僕にはオメガの兄がいるだけですよ」
「そうですか、私はシャルパンティエから留学していた姫君と仲が良くて、一緒に花を育てたりしていたのですが、その姫君が帰国してから周りの者に聞いてもそんな姫などいなかった、と言われてしまって。一体、誰だったんでしょうね、あの姫は」
ニコラスは遠い目をした。そして寂しそうに口角をあげ、笑った。
「ええ、誰なのでしょうね、サリネ様と一緒に花を育てていたのは……」
サリネはニコラスに栞を返す。本当は返したくない、と思った。
何故自分がそのような感情に至ったのかはよくわからないが、それは世間一般的に言う嫉妬だということは自覚している。
ただその感情に至った理由はわからない。
理由もわからない嫉妬の気持ちに任せて、他人の大切なものを隠したり、捨てたりするのはあまりにも幼稚じみている。返したくない、などと少しでも考えた自分をサリネは恥じた。
「危ないので、高いところは僕がやります。サリネ様は下で落ちた花や果実を拾ってくださいませんか？」
「いいえ、大丈夫。これでも木登りは得意だったし、高いところは平気なのです」
脚立に登り、大きな剪定バサミを手にしたサリネは下で心配そうに見上げているニコラスに向けて、大丈夫だ、とでもいうように剪定バサミを振り上げる。
「落ちないでくださいね、絶対に。怪我をしますから」
「そこまで鈍臭くありませんよ」
今日は背の高い木の上に咲いた花を取ろうとしていた。
実はサリネには狙いが一つある。
この木の花はとても綺麗で、また滅多に花を咲かせないことで有名なのだが、ニコラスが育てていたそれはなんと花を咲かせた。
それでサリネは押し花の栞を作ろうとしている。
ニコラスは、大切な人に貰ったという晴蘭花の押し花で作った栞を持っている。認めたくなかったが、サリネはその栞と大切な人という存在に嫉妬していた。
どうすれば良いかと考えていた時、この珍しい花のことを聞き、ならばそれを押し花にして自分も同じように栞にして渡そうと考えたのだ。
対抗心である。
その花が欲しい、押し花にして母に渡したい、と言ったら、ニコラスは快諾してくれた。サプライズで渡すつもりだったので、母に渡したい、と嘘をついた。
上にあるから取ってあげます、と言われたのだが、それを拒否し、自分でとる、と言い張ったら、それも渋々許してくれた。
誰の力も借りず、自分の力で取りたかった。
でないと、それで栞を作り、ニコラスへ渡しても意味がないと思ったのだ。
「危ない、脚立の上で立たないでください」
花はサリネが思っていたよりも奥に、上にあった。
脚立の上に立ち、手を伸ばし、ようやく剪定バサミの先で切ることができる。
ニコラスは脚立の上で立つな、と言っていたが、そうしないと取ることができない。
サリネは身体を伸び上がらせ、先端を伸ばした。
剪定バサミの刃が花の根本を捕らえる。柄に力をこめるとパチン、と音がした。
「え？」
花が落ちていく。それと同時にサリネは自分の身体も落ちていることに気がついた。
「あっ」
「サリネっ」
脚立は結構な高さだった。あそこから落ちたら、無事では済まされないだろう。
浮遊感が思ったよりも長く続く。咄嗟の判断で剪定バサミを遠くへ放り投げる。そして、頭から落ちるのを防ぐため、身体を捻った。するとどうも体勢が中途半端になってしまう。このままでは地面に足がついた瞬間、足首が内側に曲がってしまうだろう。
下手をすれば足首が折れてしまうかもしれない。だが間に合わない。
サリネは目を瞑り、衝撃に備えた。
しかし、思っていた痛みや衝撃はやって来なかった。
何かにふわりと抱き留められ、いつもより濃いニコラスの香りが鼻腔をくすぐる。
「あぁっ！ だから危ないと言ったのにっ」
目を開けると少し怒ったような、心配しているかのような表情のニコラスの顔が見えた。
淡い水色の瞳がサリネを見つめている。
しかし、ぼうっと見惚れている時間はそう長くなかった。
「あ、えっ！」
自分の身体を確認すると、ニコラスに抱き上げられているのがわかった。どうやら落ちたサリネをニコラスが下で抱き留めてくれたようだ。
「わ、私、そのっ……」
ニコラスの顔どころか、身体も何もかもが近い。サリネは顔が真っ赤になった。
初夜の時以来だ。ニコラスとここまで密着するのは。
（わ、ど、どうしよう）
不快な思いは全くしない。
胸板も厚く、腕も太い。何となくわかっていたことだが、ここまで接近して初めてニコラスの男らしさを実感できた。
普段は花いじりが趣味で、アルファらしくはないのに身体付きは完全に男性のアルファだ。
変に胸が高鳴る。以前はその身体つきが怖くて拒否したのに、今は嫌な感じはしない。そして発情期でもないのに、身体が熱くなってきて、サリネは慌てた。
「あ、お、降ろしてくださいっ」
顔も熱い。ニコラスの顔を見ることができない。
今、邪な思いを少しだけ抱いてしまった。
「ありがとう、ござい、ますっ」
ぺこりと頭を下げ、サリネは一目散にニコラスから離れ、逃げ出した。
このまま抱きしめられていたら、おそらくみっともなくニコラスに縋ってしまっただろう。
それにあの時は怖くて仕方なくて、離れたくてしょうがなかったのに、今は全然違う思いを抱いてしまったことにも戸惑いを覚えている。
部屋に戻り、戸の前で座り込む。
（これは多分……）
サリネは頭をふり、その思いを振り払う。
「ありえない」
自分からあんなに拒否をしておいて、今更好きだなんて言えるはずがない。
あの栞に嫉妬して、対抗心から同じ物を渡そうとしたのもこの思いが原因だ。
座り込んだまま、顔を手で覆い、膝へ額を当てる。サリネはしばらく動けなかった。
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