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ほかほか焼きうどん
結局、買えたのはビールとスルメとナッツだけになってしまった。
お腹が空いていたのに、腹の足しには到底ならない。
よって、菜月の作ってくれる『美味しいご飯』。
それを期待するしかなくなってしまった。
一体どうしてこんなことに。
茂はしょんぼりへこんでいるエコバッグを持って、帰路を辿っていた。
うしろからは菜月が、こちらはたっぷり膨らんだエコバッグをお供に、にこにこ着いてきている。
自転車で来ていたらしい。前カゴにエコバッグを入れて、本人は自転車を引いている。
「意外と近くに住んでたなんて、嬉しいですね」
「俺はそんなに嬉しくないがな……」
茂の塩っぽい返答にも、菜月はめげない。
ゴールデンウィーク中だから、今夜は凝った料理を作って楽しむつもりだった、なんて話している。
凝った料理なんて作るのか。
いや、男子高校生がスーパーに自ら買い物に来るあたりで、料理が多少は好きなんだろうけど。
でもこの様子では、かなり自信がありそうに見える。
そうこうしているうちに、茂のマンションに着いた。
マンションとはいえ、あまり上等なものではない。
オートロックもないし、かろうじてついているエレベーターも乗るとガタガタ振動する始末。
「へー、結構古……年季が入ってるんですね」
茂の自室の前へ着き、鍵もカードキーなどではなく、ごく普通の金属のものだったからだろう、菜月は思わず口に出してしまった、という様子で言い、すぐに言い直した。
「悪かったな! 気に入らないなら帰ったって……」
「ああ! すみませんでした! 気にしません!」
どうだか、気にならないなら最初からそんなこと言わないだろ。
内心、そう悪態をついて、でもここまできておいて追い返すこともできない。
「ほら」とドアを広く開けて、菜月を入れた。
菜月は律儀に「お邪魔しまーす」なんて言って、靴を脱いだ。
しゃがんで、くるっと靴の向きを変える。
育ちが良さそうだな。
茂にそう感じさせてしまう行動であった。
茂も続いて中に入り、靴を脱ぎ、廊下をまっすぐに進んで突き当たりのドアを開けた。
そこはリビング。
奥にキッチン。
古いが広さと設備はそこそこいいのだ。
間取りだって、2LDK。
一人暮らしなのでリビングはそう広くないが、寝室は広くて、もう一部屋、作業や仕事をする部屋もある。
男一人の暮らしにはじゅうぶんだ。
「意外と片付いてるんですね」
自転車の前カゴから持ってきたエコバッグを手にし、リビングに入った菜月はまたしても素直な感想を口にする。
茂の「気に入らないなら帰れ」も同じであった。
「あ、いや、すみません。俺はこんな綺麗に片付けられないものですから……」
男一人暮らしという偏見があったようだ。
そして菜月自身も掃除や片付けはそう得意でないらしい。
苦手なことがあるというのも垣間見られて、茂はちょっと楽しく思ってしまった。
積極的で、行動力もあって、おまけに料理も自信があるらしい。
だが人間、完璧じゃないってことだな。
そんなことを考えつつ、茂はリビングを抜け、キッチンへ入った。
「ほい。あんま使ってないけど、一応フライパンとかはある。なにがいるんだ」
キッチンもそこそこ綺麗であった。
とはいえ、これはあまり料理をしないためもあるが。
「えっと、包丁とまな板、あとお鍋とフライパンがあれば」
菜月が言ったのはごく普通のことであった。
シンプルな料理らしい。
それはこの持ってきた買い物したてのエコバッグの中身で作るなら、そうかもしれないが。
「調味料とかはありますか?」
「えーと、塩コショウと……コンソメがあったけど使えんのかな。賞味期限、来てるかも」
「えー、味付けができないと困りますよ」
茂が棚から探ったコンソメは顆粒のもので、賞味期限はやはり過ぎていた。
だが幸い、一ヵ月も経っていない日付。
菜月は慣れているように、「このくらいならヘーキですよ。ちょうど良かったじゃないですか、捨てずに済みますよ」なんて余計なことまで言ってきた。
茂は「そうっすね……」なんて答えるしかない。
「じゃ、お借りします。テレビでも見ててください」
そう言って、何故かキッチンから追い出されてしまった。
茂はちょっと戸惑う。
押しかけられたとはいえ、流石になにか手伝ったほうがいいだろう。
だが、しばらく見ていて、知る。
多分これは、俺が手を出さないほうが早くできる。
それほど菜月の手際は良かったのだ。
エコバッグから野菜を取り出して、軽く洗って、皮を剥いて、まな板で切っていく。その手つきは慣れ切っていた。
お言葉に甘えてリビングにいるか。
ほんの数分で思い知り、茂はすごすごとキッチンをあとにした。
惣菜を買ってきてビールと共に一人、食べるつもりだったのに、妙なことになった、と実感しながら。
「できましたー! お皿、どこですか?」
少し前から、肉や野菜に火が通る美味しそうな匂いが漂ってきていると思ったのだ。
その香りに不覚にも期待してしまっていた茂は、声をかけられて立ち上がった。
流石に作ってもらっている身。
呑気にテレビを見たりスマホを弄ったりする気にはなれなかったので、仕事用のタブレットで散漫に状況確認なんてしてしまっていた。
空きっ腹の誤魔化しに、さっき買ったスルメを開けて摘まみながら。
「……焼きうどん?」
茂が出した皿に、菜月が盛ったのはまずうどん。
ただし茹でたのではないようだ。
軽く焼き色がついていて、香ばしい香りを立てていた。
「はい! うどんを買っていたんで。桜庭さんちにお米があるかわからなかったですし」
「どうせ米も炊かないよ、俺は」
炒めたうどんの上に、今度は野菜と肉が盛られた。
同じように炒められているが、実に美味しそうな香りを漂わせていた。
ほかほかと湯気もたっぷりと。
肉と野菜の炒めたての匂い。
この家で嗅いだことははたしてあっただろうか。
しかし空きっ腹の身は、その非常に魅力的な香りに顕著に反応してしまった。
グゥー……と虫が鳴く。
「ふふ、もう食べられますよ。リビングでいいですか?」
「あ、ああ……」
菜月は焼きうどんの皿を持ってリビングへ行くので、茂は慌てて冷蔵庫を開け、お茶のペットボトルを取り出した。
お茶も出さずに料理なんてさせてしまったことを、今さら実感した。
いい大人なのに、情けないことである。
グラスに冷たいお茶を注ぐ。
グラスはふたつ。
リビングのテーブルに並べた。
一緒に持ってきていた箸を手にし、うかがうように菜月を見てしまったけれど、菜月はにこにこした顔で、「召し上がれ」なんて言ってくれた。
リビングのローテーブルの向かいに座り、頬杖なんてついて言ってくれる様子は無邪気でかわいらしかった。
それにせっかく作ってくれたのだ。
いただく以外の選択肢はない。
「じゃ、お言葉に甘えて……。いただきます」
焼きうどんに箸を入れる。
ふわっと湯気が立ち、肉の香ばしい香りが漂った。
まずはキャベツを摘まんで、ひとくち。
「……甘い」
キャベツという野菜がこんなに甘いのか。
茂は初めて知ったような気持ちになってしまった。
「ほんとですか。火の通りが悪ければ生っぽいですし、通しすぎれば焦げた味になりますから、今日は上手くいきましたね」
初めて使うキッチンで、これほど上等に作ってしまうのだ。
茂は感心した。
次に食べたにんじんもやわらかく、肉もふっくらちょうど良い加減に火が通っていた。
野菜の下からうどんを引っ張り出す。
さっき焼き目がついたところも美味しそうだったのに、野菜や肉を乗せたために、汁がまぶされて、しっかり味がついていた。
「美味い」
ちゅるっと麺を吸い込み、咀嚼する。
もちもちと弾力があって、噛み応えがある。
惣菜のものを買ってはこうはいかないだろう。
新鮮な食材を使って、それも作りたてでなければ。
「それは嬉しいです」
菜月は、茂が「こんなんで良かったら、おやつにどうだ」と勧めたスルメの袋からひとつ摘まみだした。
口に運んで、固いスルメをもちゅもちゅと食べている。
その様子はなんだかより幼く見えてかわいらしい。
起きてからなにも食べていなかったのだ。
がつがつと、というほど勢いよく食べてしまい、すぐに平らげてしまった。
皿は綺麗に空っぽになる。
「ごちそうさま」
ふぅ、と息をついて、グラスのお茶を煽る。
腹は心地良く満たされていた。
お腹がいっぱいで、満腹感と幸福感が体中に感じられる。栄養がゆっくり回っていくのすら、実感できるような感覚すら覚えた。
「お粗末様でした」
菜月はスルメを飲み込んでから、そう返事をしてくれる。
「ありがとな。すげぇ美味かったよ」
ここまで言いそびれていたお礼をやっと口に出す。
菜月は茂の言ったそれに、嬉しそうに、そりゃあもう、ここまでで一番嬉しそうににこっと笑い、「それは良かったです!」と弾んだ声で言った。
「料理、上手いんだな。好きなのか?」
僅かに残ったお茶を飲みながら聞いてみると、そのまま頷かれた。
「はい! 作るのも食べるのも好きです。楽しいですし、美味しいものって幸せになりますよね」
「そうだな」
茂は平和な気持ちで軽く相づちを打ったのだが、直後、お茶を噴き出しそうになった。
「恋人ができたら、料理を振る舞うのが夢だったんです」
にこにこそんなことを言ってのける神経がわからない。
茂はむせそうになるのをなんとか堪え、言い返した。
「俺は恋人じゃないんだが」
「え、でもそのうちなってくださるでしょう?」
事実を言ったのに、菜月はしれっと答える。
「そんな予定はない」
「えー、話が違います」
きっぱり言ってやっても、今度は膨れられた。
もはやぬけぬけと、と言っても良いくらい図太い返しであった。
「俺こそそんな話は聞いていないが!?」
話の進め方はやはり強引であった。
が、美味しいものでお腹が満たされたあとだ。
おまけにその美味しいものは、目の前のこの子が作ってくれたのだときている。本気で怒ったりできるものか。
「……はぁ。ま、礼は言う。材料費も出すよ。いくらくらいかね」
腰を上げて、放り出していた財布を手に取る。
開けようとしたけれど、それは制されてしまった。
「要りませんよ。家で使うやつをちょっと使っただけですし」
「それなら余計払わないとだろ。お父さんやお母さんの金なんだから」
ここだけは譲るわけにはいかない。
大人として。
なので引かずにいたのだが、菜月もここは抵抗しても無駄だと思い知ったらしい。
「じゃ、五百円くらいで……」と、五百円玉一枚を受け取ってくれた。
茂としては、倍は払って良かったのだけど、妙なところで謙虚である。
そのあと、お茶もなくなって、気付けば日も暮れかけていた。
流石に連れ込んだ……いや、勝手にやってきたのだが、高校生を遅い時間まで居させるわけにはいかない。
茂は「適当なとこまで送るよ」と言い、菜月を家から送っていった。
自転車だから一人で大丈夫だと言うので、大通りに出たところで別れた。
「今日はありがとうございました!」
何故か菜月のほうがお礼を言うのだった。
「お礼を言うのは俺のはずなんだが」
しかしそのお礼の意味は、あまりかわいらしくなかった。
「恋人に一歩近付けましたね! また作ってあげますね」
「ありがたいが、近付いてはいない!」
にこっと笑って言われたこと。
茂は全力で言い返したのに、菜月はひらっと手を振って、軽々自転車にまたがって走り出してしまった。驚くほど速いスピードで走り去ってしまう。
茂はどういう気持ちで見送ったらいいのかわからないまま、その小さな背中を見送った。
部屋に戻ると、自分の平らげて空っぽになった皿と、同じく空になったふたつのグラスが残っていた。半分ほど中身のなくなったスルメの袋も。
誰かがこの部屋に来たの、どのくらいぶりかな。
茂は皿とグラスを洗うべく、キッチンへ運びながらなんだか感慨深くなってしまった。
あんなことを言って、言われたけれど、確かにこの行為は恋人のするようなものだった、と認めざるを得なくなって、ひとつ頭を振って、冷たい水を勢いよく出して皿洗いをはじめた茂だった。
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