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ため息の電話

 ゴールデンウィークも明けて、一気に初夏の空気が漂いはじめる。  茂の学校も同じこと。  中庭では桜の葉は青々茂って、立派な葉桜になっているし、その下を行き来する一年生たちももう学校になじんできたのだろう、友達同士で楽しそうな様子。  茂の生活はあまり変わりなかったけれど。  なにしろこの生活をはじめてから六年ほど。もう同じことの繰り返しなのだ。  新鮮さがないわけではないけれど、流れがわかってしまっているからこその、少しのマンネリズムというのはどうしてもある。  しかし、散漫な生活の中でも、新鮮な出来事はある。  おまけにこれこそ流れなどわからない。  水曜日の菜月との邂逅……デートとは言ってやらない……である。 「こんにちはー、暑くなりましたね」  待ち合わせていたカフェ。  菜月はやってくるなり制服ジャケットを脱いで、椅子に掛けた。  確かに今日は気温が高く、夏日だと朝の天気予報でもやっていたくらいだが。  ジャケットを脱いで、ワイシャツとネクタイだけになった姿。  なんだか妙に、無防備で子供っぽくて、なのに骨格や筋肉の形も見えて、男を感じさせるようでもあり。  大人と子供、中間の年頃ならではの色っぽさが感じられた。  数秒、見入ってしまって、茂は、はっとした。  慌ててアイスコーヒーをすする。  子供にこんな視線を向けるなど、いけないだろう。いい大人が。 「あと十日くらいで衣替えなんです。高等部の夏制服は初めてなんで、楽しみです」  だが菜月は茂のその視線は気付かなかったようで、ワイシャツとネクタイだけの上半身で、椅子に腰掛けた。  今日もクリームの乗ったドリンクにストローをさす。  菜月は甘いものが好きらしい。  今日のこれも、ココアラテだと言っていた。  こういうところは子供っぽくてかわいいのにな。  茂がそんなふうに思ってしまうことである。 「そうだよな。中等部はどんなのだったか……」 「嫌ですね、中等部の子だって電車に乗ってるじゃないですか」  そう言われてしまうと気まずい。  おまけに菜月のほうからは、中等部時代から茂を見ていたというのだ。  その菜月を気にもかけていませんでした、とも取れる発言であったのだから。  しかしすぐに思い出せるものか。  中等部時代の菜月の格好など。 「ブレザーなのは同じなんですけど、……あ、そうだ! 写真、見たら早いですよね。えーと、待ってくださいね」  菜月は写真で見せてくれるらしい。ココアラテを放り出して、スマホを弄りだした。  その手元に、茂は見入ってしまう。  細い手をしている、と思ったのだけど。  節々はしっかりしているし、意外と大きくもあり。  やはり完全に子供ではないのであった。 「あった! これです、去年の夏にあった文化祭のときのやつですね!」  菜月が嬉しそうに差し出してきたスマホ。  そこには確かに、今と似たブレザー、でもデザインや色などが少し違うものを着た菜月が、友達らしき子と仲良さげに写っていた。  けれど茂は服よりも、菜月の顔立ちや表情が気になってしまう。  確かにこれは、目の前にいるこの子なのはわかる。  だが、明らかに、今より若い。  というより、幼い。  それはそうだろう、中学三年生だ。  十四歳だろう。  子供に決まっている。  子供に決まってはいるが、今、目の前にいて、にこにことスマホを差し出している菜月は、果たして子供なのだろうか。  茂はちょっと混乱する思いを感じてしまう。  一年でこれほど変わってしまう年頃なのだ、とも思わされた。 「桜庭さん?」  茂がまじまじと見たものの、なにも言わなかったからか、菜月は不思議そうに小首をかしげた。その様子はやはり子供らしいのであった。 「……あ、悪い。楽しそうだな、とかなんか学生時代を思い出したよ」  半分言い訳だったが言うと、菜月は「そんな、おじさんみたいな」なんて笑ってくれた。  そこへブルルッ、と茂のスマホが振動する。  テーブルに置いておいたそれ。  着信らしい。  大学か、仕事か、それとも……。  思って画面を見て、茂はぎくっとした。  ぱっとスマホを手に取ってしまう。 「あ、電話ですね」  菜月は自分のスマホを手にしたまま、何気ないことを言ったけれど、茂はそれどころではない。  手に取ったスマホを持って席を立った。 「悪い、ちょっと出てくる」 「はぁい。ごゆっくり」  電話に出るというニュアンスで言ったこと。  菜月はにこっと笑って言ってくれた。  が、どうもこの笑みも優しい言葉も、心に痛い。  だって、この子は電話の相手のことも、それが茂とどういう関係なのかということも、まったく知らないのだから。 「……ああ、出た。……久しぶり」  カフェの外に出て、スマホの電話応答ボタンをタッチする。  幸い、かけ直すには至らず、相手はそのまま応答してくれた。 「ああ」  久しぶり、と言われても、確かにそうではあるが、あまり良い『久しぶり』ではない。  茂の「ああ」は濁ってしまった。それも向こうの気には入らないのだろうが。 「仕事中だった? 今、いいかしら」 「や、今日はもう上がり。なんだ?」  一応、気遣ってくれる言葉を言ってはくれたけれど、心から茂を思いやってのことではあるまい。  電話をする間、捕まえられればいい。  そういう気持ちが電話から伝わってくる。  でもそれで構わない。茂は話を促した。 「今度ね、咲耶(さくや)の幼稚園で父兄参観日があるのよ」  電話の相手が言ったこと。  それは茂にとって大切な存在の話であった。  『悪い』  『仕事だから』  『忙しいから』  もっと冷たいなら『俺には関係ないから』。  ほかの用事ならそう言っていただろうに、この名前を出されると弱い。  まったく、杏子(きょうこ)ときたら、俺のことをちゃんと知ってやがる。  茂は内心、ため息をついてしまった。 「そうか。……出たほうがいいか?」  茂の言ったことには、嫌そうな声が返ってきてしまったけれど。 「当たり前じゃない。そうじゃなきゃ、連絡なんかしないわ」  ため息でもつきたい気持ちを押し殺している。そういう声音であった。 「私はあなたなんかに会いたくないけど、咲耶は別でしょ。『パパ、来てくれるかな?』なんて言って……、来るわよね?」  ため息でもつきたいのはこっちだよ。  思ってしまった。  内容はともかく、杏子の声にはとげが滲みすぎていて。  それはそうだろうが。  離婚した元・夫に好意的な声をかけるほうが違和感だろう。 「予定、確認しとくよ。いつだ?」  でも答えはこれである。  娘の幼稚園の参観日。  おまけに来てほしいと言ってくれたのだという。  それなら行かないはずがない。  そのまま、何日の何時だとかいう事務的な話になり、茂は早々に「じゃあ、また連絡するよ」と電話を切ってしまった。  ピッと音がして、通話が終了する。  スマホを見下ろして、はぁ、とため息をついてしまった。  あまり面白くない電話であった。  杏子と電話で話すときは大概こうなってしまう。  仕方がない、こうあって当たり前だ、とは思いつつ。  だが誘い自体は面白くないとも言い切れなかった。  久しぶりに娘に会えるのだ。  別に面会禁止なんて言われていやしないが、気が引けてしまうのだ。  家を出て行った杏子。  連れて行ってしまった、まだ今よりずっと幼かった頃の咲耶。  つきまとうような、追いすがるような真似はしたくなかった。  向こうに迷惑だ、なんて思ったわけではない。  自分のつまらない自尊心に従って、である。  そういうところも、夫として、親として気に入られなくなったんだろうな。  茂はスマホを見下ろしながら、そんなことを思い出してしまった。  そこでやっと、カフェの中で待ち人がいたことを思い出す。  慌てて店内へ戻った。  もう冷房に切り替わっている店内に入ると、ふわっと涼しい空気が身を包んで、急に現実に戻ってきた気がした。  席に向かうと、菜月はココアラテのグラスを持ってストローを咥えていたけれど、すぐこちらに気付いてくれた。 「あ! 桜庭さん、おかえりなさい」  おかえりなさい。  ここしばらく、あまり聞いたこともない言葉だったので、茂はすぐに反応ができなかった。  いや、おかえりって、離席してたんだから、それに対してだよ。  自分に言い聞かせなければいけなかったくらいだ。 「あ、ああ。すまん、待たせたよな」  軽く謝って、向かいの椅子に座る。 「いいえ。大丈夫です? これからご用事とか?」  菜月はうかがうように聞いてきた。  急に用事が入ったのか、と気遣ってくれるのだ。  その気遣いは優しいけれど、ちょっと心に痛かった。 「ああ、いや、大丈夫」  なんだか騙しているようだ、と思ってしまって。  別に言わなければいけない義理はない。  電車と、あと水曜日に一時間ほど会うだけの知り合いの高校生になんて。  そりゃあ、菜月の望んでくれるように、本当に交際するのであったら黙っていてはいけないだろう。  でも今のところ、そういう関係はない。  それに言いたくはなかった。  だって格好悪いだろう。  妻と娘に出ていかれた身の上だなんて。  だが言いたくないと思ってしまうこと自体、菜月に対して思うところある、という証明のようでもあった。  逆に、まったく親しくもない相手であったら、気軽に言えてしまうのだろうから。  「俺、実はバツイチなんだ」ということは。

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