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隠し事は呆気なく

「はーい! みんな、静かにしてくださいねー! 今日はみんなのパパやお兄ちゃんが来てくれてますね」  幼稚園の入り口で参加手続きを済ませ、中に入る。  小さな教室の一室。  保育士の女性が、席に着いた園児たちに話をしている。  幼稚園という場所は慣れない。なにもかも小さく作られていて、どうもむずむずしてしまう。 「今日はせっかく来てもらってますから、パパやお兄ちゃんの似顔絵を描きましょう!」  内容は知らされていなかったけれど、どうもそういう計画だったらしい。  杏子のやつ、教えてくれてても良かったのに、と思っても、今更である。  茂は「ではパパ達はお子さんの席へ来てください」という保育士の先生の指示に従って、移動した。 「パパー!」  茂が近付いていくと、咲耶はぱぁっと顔を輝かせた。  懐かしさでいっぱいになってしまう。  大きくなったもんだ、と実感もした。  前に会ったのは四月だった。あれから二ヵ月近く経とうとしているのだ、子供の成長は早いもの。 「やぁ、咲耶。久しぶり」  茂は咲耶の近くに膝をつき、頭を撫でた。  短い二つ結びにした黒髪は茂譲り。  ふわふわとやわらかな髪をそっと撫でる。 「わたしね! 昨日、なかなか眠れなかったの! パパが来てくれるから!」 「そっか。ありがとな」  咲耶は茂に抱きつかんばかりであったが、まだこれから授業なのである。似顔絵とやらの。  あとでたくさん抱っこしてやらないとな、と思いつつ、茂は「お子さんの向かいに座ってくださいね」という指示に従って、場所を移動したのだけど。 「…………桜庭、さん……!?」  聞こえるはずのない声がした。  呼ばれるはずもない呼ばれ方でもあった。  茂はぎくっとしてしまう。  この声。  誰なのか。  どうしてここで聞こえるのかわからずとも、まずいことくらいはわかる。 「……空条くん?」  そこにいたのは菜月であった。  いつも通り、高校の制服を着て、女の子のそばに立っている。  もしや、あれは前に話を聞いた妹……。  ぼんやりとそんなことを思ってしまった。 「どうして……」  菜月は思わず口に出た、という様子でそう言った。  信じられない、という口調であった。  茂はどうしたらいいかわからなくなってしまう。  隠してきていたこと。  まさかこんな形で露見しようとは。 「はーい、そこのパパとお兄ちゃん! 早く席についてくださーい!」  そこで先生から声がかかってしまった。  まずい、予定を乱してしまう。  茂は慌てて着くはずだった場所へ向かい、小さな椅子に腰掛けた。  咲耶が向かいでクレヨンを握りながら、不思議そうにしていた。 「パパ、知ってるひと?」  その質問には「ああ、ちょっとね」と答えたし、実際そうだ。  だが、困ったことになった、と思う。  いくつか先の席をちらっと見る。  そこでは菜月が茂と同じ椅子に座り、向かいの女の子に似顔絵を描かれていた。  茂の位置からは妹であろう女の子のほうがよく見えたけれど、確かに菜月と顔立ちの似ている子であった。  まさか、咲耶と同じ幼稚園だったとは。  妹がいると聞いてはいても、こんな偶然があるものだろうか、と思ってしまう。  悔やむことではないが、いずれにしても、悔やもうともう遅いのであったけれど。  似顔絵描きのあとは、それぞれ簡単に作品の発表。それからお遊戯の鑑賞であった。  咲耶は発表のとき、満面の笑みで「わたしの大好きなパパです!」と言っていて、茂はここばかりは純粋に嬉しくなってしまった。  落ち着いている場合ではなかったが。  講堂へ移動して、咲耶たち園児のお遊戯を見る。  咲耶はとてもかわいらしかったし、普段ならそれに見入ってデレデレになるところであるが、今の茂は別のところが気になってしまって仕方がなかったのだ。  少し離れていたところで立って、同じようにお遊戯を見ている菜月。  あとで話すことになるだろうが、一体どう話したものか。  いや、内容なんて「実は子供がいるんだ」「バツイチで……」しかないのだが。  菜月はどう思っただろう、と思ってしまう。  そしてそう思ってしまうことで、自分がまるで恐れているようではないか、とも感じた。  まるで菜月に失望されたくない、嫌われたくないと思っているようではないか、と。  そしてそう思ってしまう時点で、きっと多かれ少なかれ、それは当たっているのである。  チラチラ見てしまっていたからか、菜月と一度、目が合った。  一瞬だけだったけれど、その視線は茂の胸に突き刺さるように感じてしまった。  その瞳にあったのは、笑みではなかった。  ここまで会ってきたときはずっと、真剣な目か、笑みかがほとんどだったのに。  なのに今は、多分、あれは困惑。  当たり前だろうが、交際を申し込んだ相手が実は子持ちであったなんて、困惑しないはずがない。  お遊戯を楽しんでいいのか、菜月のほうを気にしていいのか。  どっちつかずになっているうちに、お遊戯の時間は終わっていた。  これで今日は解散らしい。園庭に出て、お迎えを待ちましょうという話になる。  咲耶と遊ぼうと思っていたのだが、どうもそうはいかなくなりそうだと思いつつ、園庭に出て。  そして想像通り、捕まえられてしまった。 「桜庭さん」  かけられた声は、予想外に落ち着いていた。  話をするのは決めていたので、茂はおとなしく振り向いた。  女の子を伴っている菜月がそこに立っている。 「……すまない」  一言だけ言った。  菜月に嘘をついた……少なくとも、言わなかったことは確かなのだから。  それを聞いて、菜月の顔が歪む。  まるでどこか痛いのを堪えているような、顔。 「菜摘(なつみ)。お兄ちゃん、咲耶ちゃんのパパと話があるから、ちょっとだけ咲耶ちゃんと遊びに行っててくれるかな」  菜月にまとわりついていた女の子、菜摘と呼ばれたその子は、なにか不穏な空気を感じ取ったのだろう、不安げではあったが、「うん」と頷いてくれた。 「行こ、さくやちゃん」 「……うん」  咲耶はその子に連れられて行ってしまう。  気がかりな様子で茂を振り返ったけれど、元々、友達なのだろう。ためらう様子はなく、去っていった。 「桜庭さん、……お子さんがいた、んですね」  二人になり、広い場所でこんな話はできなかったので、端に寄った。園庭の端っこへ。 「……すまない。話さなくて」  子供がいたということより、話さなかったということが問題なのだということくらい、わかっていた。  よってその通りのことを言って謝る。 「どうして言ってくれなかったんです」  ぽつりと菜月が言った。その声もどこか、痛いような声であった。 「……あまり言いたくなかったんだ」  しかし茂がそう答えた途端、菜月の様子が変わった。  今まで茂に見せてきた様子とはまったく違った、怒りすら混ざったような顔になる。 「そのくらい、俺のことがどうでも良かったってことですか!?」  顔を歪めて言った菜月は、『まだ受け入れがたい』と言っていた。  告白した相手、おまけに去年かいつかから、とりあえず短くはない期間、見ていた相手が子持ちであったなど、すぐに受け入れられるはずはないけれど。 「そうじゃない」  茂は言ったけれど、嘘であることくらい自覚していた。  菜月に失望されたくなかったとか、嫌われたくなかったとか、そういう気持ちは確かにある。  でも菜月の言ってきたとおりの理由もどこかにはあったのだろう。  自分とは他人だから。  関係がないから。  そう思って、話をしなかった。  そして菜月が言ってきた……、いや、傷ついたのは、そこなのだ。 「そういうことじゃないですか!」 「空条くん、声がでかい」  言いつのる菜月に、茂はついそう言ってしまった。  直接的なことは話していないが、ひとに聞かれたら困るどころではない。  だが菜月にとっては話を逸らしたり、はぐらかしたりするように聞こえてしまったのだろう。  普段なら「あ、すみませんでした」だっただろうに、声のトーンを落とす気配もなかった。 「はぐらかさないでください! ……だから、俺に応えてくれなかったんですね」  はっきり言ってきたけれど、そのあと。  悲しそうであり、痛みを感じているようであり、そして茂の危惧した通り、失望、であった。 「そういうわけじゃない。きみのことはまた別の問題で……」  茂が言ったのは本当のことだった。  本当にそうだ、混同しているつもりはない。  が、菜月にとってはなんのフォローになるはずもない。  「そうじゃありません!」と言いかけたのだけど、そこで違う声がかかった。 「あなた?」  ここで聞こえていい声のはずがない。  茂は、ばっと振り返る。  そこには杏子が立っていた。咲耶を迎えに来たところらしい。  やばい、聞かれただろうか。  直接的なことなど言っていないが、ニュアンス的に『そういう』類の話だと察されないかという保証はない。  茂は固まってしまったのだけど、それより早く、菜月が視線を逸らした。杏子に向き合う。 「咲耶ちゃんのお母さん。こんにちは」  意外なまでに落ち着いた言葉と声、対応であった。 「ああ……、菜摘ちゃんのお兄ちゃんね。父兄参観にいらしたの?」 「はい。父の都合が悪かったので、代わりに……」  杏子はなにに対してか、単に言い合いのようなものを聞いたからだと思いたい、と茂は思ってしまったのだが、とにかくなにかに対して戸惑ったような様子はあったものの菜月に向き合った。菜月もごく普通に答えている。  どうやら知り合い、ではないかもしれないが、顔見知りではあったようだ。  なんて偶然、と頭が痛くなってくる。 「話し込んでしまってすみませんでした。俺、もう帰りますね」  菜月はさっきの話をしていた様子をすっかり引っ込めてしまって、にこっと笑った。  でも茂にはわかってしまう。  これは作り笑いだったのだと。 「おーい、菜摘、帰るよ」  妹に声をかけ、近寄っていく菜月。  向こうでは「えー、まだ遊ぶぅ」なんて、ほのぼのしたやりとりが交わされているようだ。 「……帰りましょ」  そしてこちらも。  杏子に促された。  茂は「ああ、そうだな」と答え、咲耶を呼び戻し、幼稚園をあとにした。  そのあとは家族水入らずを一応。咲耶のために。ということになっていたので、家族での時間になった。  ファミレスにご飯を食べに行き、お子様ランチを食べる咲耶は、久しぶりに茂と過ごせるからだろう、とても嬉しそうで、はしゃいでいて。  茂はかわいい娘に喜ばれて、嬉しいに決まっていたけれど、それだけでは済まなかった。  菜月にまた会えるのだろうか。  会ってくれるのだろうか。  それが気になってしまって。

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