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あなたはとてもかわいくて

 水曜日。  朝、目覚めたときから、電車に乗っているときから、授業などの仕事が全部終わっても。  茂はずっとそわそわしていた。  昨夜、菜月にメッセージを送った。  今までのやり取りを見て、やはり心は痛んだけれど。  すべて菜月の送信からはじまっているメッセージ。  『先日は悪かった。今更と思われて当然だが、謝らせてくれ』  『出来れば一度、ちゃんと会って話したい。聞いてくれるつもりがあったら、返事をくれないか』  そのような、シンプルなメッセージだったが、気持ちは込めた。  電子で届く文字だとしても、いくらかは伝わってくれる。  菜月ならそういう子だ。  そう信じて。  届いて、読まれたかどうかは見なかった。  読みもされていなかったら流石に傷つくと思って。  いや、向こうを傷つけておいて、自分が同じようにされるのは嫌というのは図々しい話であるが。  まぁそういうわけなので、返事が来るかどうかが菜月からの反応のすべてであった。  でも午後も過ぎてもそれはなかった。  今日が水曜日で、本当なら毎週会っていた日。  忘れるはずがないのに。  鳴らないスマホをずっと持ち歩いて、大学をあとにして、電車に乗っても、やはりなんの音もスマホは発してくれなくて。  駄目かもしれない。  俺と話してくれるつもりは、もうないのかもしれない。  失望やら諦めを感じつつ、いつもの駅で降りて、ホームを降りて、改札へ向かう。  でもメッセージだけでも謝ることができた。  そうできただけでも許してほしい。  そう思うのは年下に対して甘えすぎだと思いつつも、ほかにできることはないのだから。  改札にパスケースをタッチして、抜けて、歩き出したとき。 「……あの」  声が聞こえた。  茂は耳を疑ってしまう。  だってその声は知っているもので、ここでそれを聞いたことが、すべてのはじまりになったのだから。 「……空条、くん……」  茂は振り返った。  顔を見る前にわかった。  顔を見なくても、声と口調だけでわかってしまうのだと、そのくらい共に過ごしてきたのだと、思い知らされながら。 「……外、出ませんか」  菜月は出口を指差した。  広場があって、ベンチがあって、端にはカフェがある。  二人が何度も通ったり過ごしたりしたところである。 「そう、だな」  茂の返事はそれだけだったけれど、きっとそれだけでじゅうぶんだった。  お互いに。  話をして、なにが変わるのかはわからない。  だが、あのまま顔も合わせなくなるよりずっといい。  そのことが菜月の顔を見ただけで実感としてわかってしまったし、そう思ってくれたからこそ、きっと菜月もここへ来てくれたのだろう。 「メッセ、返事しないですみません」  やってきた公園のベンチで、菜月は夏服になっていた制服の膝の上、きゅっと拳を握って、まず切り出した。  六月も半ば、もう暑いしカフェにでも入りたいところだったが、カフェなんて場所でできる話ではない。  茂は「外でもいいか」と聞いたし、菜月もそう言われるのはわかっていたとばかりに「はい」とついてきてくれたのだ。 「いや、……読んでくれた、のかな」 「はい」  茂は、せめてもと買ったペットボトルの冷たいお茶を、やはり両手で握りながら聞いた。  菜月はペットボトルを横に置いてしまって、ただ肯定する。 「でも実は、読めたのが今日の下校時間で……、もう直接行っちゃったほうが早いかな、とか思って……。駅で待ってれば、いつかは桜庭さんが通るってわかってましたし」  静かに説明されたけれど、そして殊勝な内容だったけれど、こんな状況には似つかわしくもなく茂はちょっとおかしくなってしまった。  言葉より行動に出てしまうあたりが、菜月らしい、と思ってしまって。  思ったら即座に動いてしまう。  それは子供なのもあるだろうが、きっとそういう性格なのだろう。 「そっか。でも来てくれて、ありがとう」  菜月は「読めたのが下校時間」と言った。  それはつまり、茂からメッセージが届いていたのは気付いていたものの、開いて読むのにそれだけ時間が必要だったということだ。  その事実は示していた。  菜月も恐れていたのだろうということを。  茂がなにを送ってきたのかと見てしまい、実感してしまうのを恐れたのだと。  菜月のこのはっきりした性格ならば、即座に開いて読んでもおかしくなかっただろうに、それができなかったのだという。  それは茂から送ってくるメッセージが「もう会うのもやめにしよう」だったら、という恐れだったのだろう、と茂は想像してしまった。 「んー……、なにから話したらいいのか……」  茂はペットボトルを握ったまま、ちょっと視線を上げた。  公園では奥のほうの遊具で子供たちが遊んでいる。  そのもっと奥、公園の逆の端にあるベンチで、母親らしきひとたちも何人か。  子供と母親。  ことの原因になったことを思い出させてしまって、ちくりと胸が痛んだ。 「まず、はっきり言おう。俺はバツイチだ。二年くらい前に、離婚した」 「……はい」  茂のはっきりとした説明の言葉。  菜月にとっては、茂の口から言われるのはまた別のショックだっただろうに、静かに返事をしてくれる。 「娘もいる。空条くんの妹と同じ幼稚園だってのは知らなかったが……」 「それは……ただの偶然ですよ。咲耶ちゃんが桜庭さんの娘だなんて、ちっともわからなかったですし」  菜月はそう言ってくれて、そしてその声は淡々としていた。  あのときのように、声を上げて責められるなりするかと思ったのだが、と茂は思ったが、そのあと、そこまで子供じゃないってことか、とも思った。  菜月の中でもある程度、冷却されたのだろう。  感情も、思考も。  時間を置いたのは、ある意味良かったのかもしれなかった。 「それで……、空条くんに謝らないといけないのは、バツイチであることより、それを話さなかったこと、だよな」  これが本題。  茂の言ったそれに、菜月は黙ってしまう。  しばらく沈黙が流れた。  菜月はそっと横に手を伸ばし、ペットボトルを手に取った。蓋を開け、中身を軽く飲む。  そうしてから元通り蓋を閉めて、手に持った。茂がしていたように、両手で。 「……あのときも言いましたけど、正直、ショックでした」  ぽつりと言われた。  そうだろう、と茂は心の中で思ってしまう。  あの真剣だったり、優しかったり、笑顔だったりした菜月が声を荒げ、不快をあらわにした理由。感情が激しく揺れたからだ。 「朝、電車で会って、水曜日はこうして会って過ごしてくれて。ちょっとは俺のことを、友達……じゃないか。なんだろ」  菜月はそこで言葉を切った。  確かに、二人の関係を表す言葉はない。  知人というには会う回数が多すぎるし、会話も多すぎるし、だからといって、友達ではない。十歳以上離れている高校生と大学講師が友達になれるものか。  かといって、身内や、先輩や後輩、教師と生徒などといったものではない。  なんなんだろうな、俺たち。  茂も内心、そう言ってしまった。  それは「まぁそれはいいです」と菜月によって保留されて、続けられた。 「でも、距離が近付いたっていうのは思い上がりだったのかなとか、俺が勝手に親しくなれたと思ってただけだったのかな、とか」  茂はそれを聞くしかなかった。  菜月が感じたショックや失望、悲しさがはっきり伝わってきたのだから。  そこで菜月は言葉を切った。  こちらに話してほしいということか、と思って、茂は口を開く。 「俺は空条くんのことを、やっぱ友達とか、表す言葉はわからんけど、それでもそれなりに親しい仲だとは思ってるよ。そうじゃなきゃ、毎週会って茶を飲んだり、家に上げたりするもんか」  菜月にとってそれは嬉しいことなのか、それともがっかりすることなのか、そこまでは茂にはわからない。  どのレベルの『親しさ』を望んでいられたかは、本当にはわからないのだから。  茂のそれを聞いて、菜月はやはり少し黙っていた。  けれどまた、菜月らしくもない、落ち着いた、いや、落ち込んだような口調で言う。 「でも桜庭さんは話してくれなかった。そうですよね? 俺のことを信じ切れなかったってことじゃないんですか」 「それは違う」  それには違うとすぐに言えた。  少し嘘は混ざっていたけれど。  隠し事をしてしまうくらいには、壁があったのは確かなのだから。  でもこの状況で「そうなんだ」と言えるものか。  だったら、別の方向から説明するべきだと思った。 「バツイチってのは、格好良くないだろ。少なくとも立派じゃないだろ」  まず前置きをした。  菜月は答えなかった。  なにを言ったものか、という顔はしたけれど、感覚として一般的にはそういうものだと、高校生にもなればわかっているはずだ。 「だから、親しくなってきたからこそ言いづらかったというか……。きみに」  ちょっとためらってしまった。  こんなこと、菜月に言うべきではないかもしれない。  だが、ここで誤魔化すのは、それこそ『信じ切れていない』ということになるのである。 「失望されたくなかった、のかな」  言った。  別に直接的な言葉でもなんでもないのに、告白でもしたように居心地悪くなってしまう。  自分の胸の中の気持ちを口に出したという点では同じであるが。 「失望なんてしませんけど……、そりゃ、どういう経緯があったのかな、とかは気になりますけど、いや、それより」  菜月はまずそう言ってくれて、そのあと、考え、考えという様子で口に出して。  出てきた言葉は、一応予想の範囲内ではあったものの、茂を非常に気まずく、いや、はっきり表現するなら、恥ずかしく思わせてしまうものであった。 「俺に嫌われたくなかった、ってことですか?」  流石に即座に「そうだよ」などとは言えなかった。  その通りであるけれど、流石に。  いい大人が高校生に対して、嫌われたくなかったなどと。  情けないし、おまけに恋心にもあるような感情だ。  無性に恥ずかしい。  茂のその反応を見て、菜月の表情が不意に緩んだ。  え、と茂が思うと同時。  その表情は、ふっと笑みに変わっていた。  とても優しい笑み。  安心した、とか、嬉しい、とか、そういう類のもののように、茂には見えてしまう。 「桜庭さんは、案外かわいいです」  その笑みでそんなことを言ってのけるものだから、今度ははっきり心臓がどきりと跳ねた。  こんな高校生相手に、と思いつつも、心身の反応はどうにもならない。 「大人に対して、失礼な」  やっと言ったことは、はぐらかすような内容だった。  だが菜月は今度、「はぐらかさないでください!」とは言わなかった。  むしろあっちのほうが落ち着いてしまったようだ。 「関係ないです。いくつになったって、好きなひとが俺にそう思ってくれたら、かわいいとか思います」  重ねてそう言われれば、同じはぐらかしができるものか。  茂は返す言葉を失ってしまう。  かわいい、なんて。  言われたのは随分、久しぶりだった。  子供の頃とか、それ以来かもしれない。  大人になってから付き合ったのは元妻の杏子だけであったし、向こうは女性だ。あまり男をかわいいかわいい言うはずはない。  よって、なんだか過剰に反応してしまった。  それがまた恥ずかしい。 「ねぇ、桜庭さん……、いえ、茂さん」  不意に茂の手になにかが触れた。  はっとそちらを見ると、菜月がこちらを見て、やはり微笑を浮かべているところ。  触れてきたのは菜月の手。  茂の手よりずっと小さいのに、それは確かな温度を持っていた。  ひとの肌のぬくもり。  感じるのはやはり、随分久しぶりだった。 「俺は茂さんが好きです。一緒に過ごしてくれるようになって、電車で見ていたときとは違う、実感として好きだと思うようになりました」  茂の手に触れたまま、菜月は静かに話す。  まったく、高校生が大人に対して話しているとは思えないほど落ち着いた声と話し方であった。 「そ、そう……か」  急に呼び方が名前に変わったことに戸惑いつつ、更に『名前呼び』というあたりでまた恥ずかしくなってしまいつつ、なんとか相づちを打った。  これほど好意を向けられてしまっていいのか、と思う。  そして、この好意を嫌だと思わないどころか、嬉しく思ってしまって良いものか、とも。 「それに、茂さんからもいくらかは俺を意識してくれるとわかってしまっては、話せるだけでいいなんて、思えません」  そこで既に茂は菜月がなにを言いたいか悟ってしまったのだけど、その通りのことを菜月は言ってきた。 「俺と付き合ってください。いくらかの好意で構いません。これから俺のことをはっきり好きになってもらいますから」  それは二度目の告白。  おまけに随分、自信満々なものであった。  茂の胸が、今度、ひとつだけではなく、どくどくと跳ねて鼓動を速くしていく。  こんなふうに、一目惚れや衝動ではなく、自分のことをしっかり知ってくれた上で言われてしまっては。  なんと答えたものかと思った。  口が開いて、だがすぐに出てこない。  また閉じてしまった。  ただ、顔が熱くなるのはどうにもできなくて、それは多分、菜月にもわかられてしまっただろう。  また「かわいいです」なんて言いたげな顔になられたのだから。 「……よそには言えないぞ。高校生と付き合うとか」  「かわいいです」とまた言われてしまうのは悔しすぎたので、なんとか返事を考えた。口に出した。  それは受け入れる言葉であった。  自分で驚くところだったかもしれないが、なんとなく、腑に落ちてしまったというか。  受け入れていいのだ、と思えてしまったというか。 「それでいいですよ。茂さんが気になるなら、俺も他人には言いません」  そう言ってくれる菜月はやはり優しくて。  こう思うのはだいぶ悔しいし、しゃくなのだが、頼り甲斐すらある、なんて感じてしまった。 「そうしといてくれ。俺が捕まる」 「捕まるはないでしょう」  そんなことを言いながらベンチを立ち、公園の出口に向かった。  手も繋がなかった。  勿論、それ以上に値する触れ合いなどあるはずがなかった。  でも隣を歩く菜月との関係が変わったのだというのは、はっきり感じられた。  菜月から伝わってくる空気が、安心したものだったから。  それを心地良く思ってしまう自分がいたから。  その日はそのまま解散となってしまった。  まだ夕方前だったから、一緒に過ごすことも出来なくはなかったけれど、この状況でこれ以上一緒に過ごすのはだいぶ気まずかった。  それを察したように、菜月も「今日は帰ります」と言ってくれた。  やはり向こうから言わせてしまった、と思いつつも、茂は「おう」とだけ答えた。  あまり過剰には気にしなくていいのかもしれない、と思った。  高校生だから。  子供だから。  自分は大人だから。  そんな勝手に作っていた壁や理由なんて、菜月は軽々壊してきたのだから。

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