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勉強会兼デートの日
季節の進むのは早いもの。
すっかり夏も本番になった。
どこか浮足立っていた春が終わり、茂の学校でも授業が本格的になってきていた。
やることは去年も一昨年も同じだったが、受ける学生にとっては毎回初めてなのだ。だれた態度で接するわけにはいかない。
よって茂も学生の興味を惹きそうなネタを授業内に入れるべく情報を集めてみたり、そこからまた新たな発見があったり、仕事に打ち込んでいたといえる。
菜月は菜月で、先日テストがあったと話していた。
「やー、中等部のときより難しかったですね。そこそこは取れましたけど、もっと勉強しないとです」
ある水曜日、付き合っても続いていた水曜日の邂逅、今や正式なデート。
いつものカフェでやはり甘い飲み物を飲みながら、菜月は小さくため息をついた。
「そうだな、まだ一年生だからこれからだろうけど、大学受けるなら今からやっとくにこしたことはないよな」
向かいで今日もアイスコーヒーを飲んでいた茂は笑みを浮かべてしまう。
授業を受け持っている学生と同じだ。
この子もまだまだ勉強に打ち込む年頃だ。
二年と少しあとには受験。
大学を目指すなら、だが。
「先生みたいなこと言わないでくださいよ」
「一応、職業は先生なんだが?」
菜月はちょっと膨れて、茂はくくっと笑いながら言い返した。
大学講師であるので、中高生を受け持つ『教師』とは少し違うのだが。
「えー、じゃあ夏休みは勉強、見てくださいよ」
膨れている間は行儀悪くテーブルに伏せんばかりだったのだが、いいことを思いついた、とばかりに、ぱっと体を起こした。
「は? 俺が? 菜月くんに?」
それには目を丸くしてしまう。
確かにひとに教えるのが仕事なのだから、それ自体は慣れている。
できないはずがない。
高校生の勉強範囲だってわからないはずがない。
もっとも、本業が理系なので、文系は少々弱いのだが。
それでも英語は理系にも必要だし、あまり困る科目はない。
「ええ! 茂さんのお宅に行けるし、一石二鳥じゃないですか!」
菜月はすっかり乗り気になってしまったようで、胸の前で手を合わせて、嬉しそうに勝手に話を進めていく。
こういうところはやはり強引なのであった。
「おい、俺の家でいいなんて言ってないが?」
「だって外よりいいでしょう。周りを気にしなくていいし、教えてもらう代わりにご飯、作りますよ!」
ご飯。
手料理。
菜月の作る、美味しいご飯……。
ぐらり、と心が一瞬、揺れてしまった。
なにしろ男一人暮らし、料理もしないときた。
あたたかな料理には常に飢えている。
そこを見逃す菜月ではない。
「じゃ、水曜日はお邪魔するってことでいいですか?」
「ちょっと待て、夏休みって話じゃ?」
慌てて言ったけれど、菜月は甘そうなドリンク、今日は抹茶ラテらしい、それをすすりながらにこにこしている。
「夏休みまであと半月くらいはありますし、善は急げと言います」
「それは善なのか?」
確かに勉強すること自体は善だが、きみのそれは半分くらい下心だろう。
俺と一緒に過ごしたいとかいう……。
そう思ってしまい、しかし口には出せなくて、茂は頭を抱えたくなった。
一緒に過ごしたい、それもひと目を気にせず居たいと言ってくれるのは嬉しい。
だが二人きりで、なにもはばかることがなくなったら、なにが起こるというのだろうか。
少し前、ご飯を作りに押しかけてきたときのように、なにかは起こってしまうのだろう。
あのときは隣に座り、肩を触れ合わせる、なんてかわいらしすぎるものであったが、いつまでもあんなもので済むものか。
一番危惧していること……露骨に言えば性行為……それはなにがなんでも拒否するつもりであったし、それは菜月のほうもわかっていると思う。
声をかけてくるときに『中学生ではいけない』と、真偽はともかく一応気遣ってきたように、そういうところはしっかりしている子である。
それに性行為をしたとよそにバレれば、ほぼ確実に別れさせられる事態になるのである。そんなことをするものか。
だが、その前の段階であれば、「良いでしょう?」なんて、なぁなぁに進められてしまう気しかしない。菜月の行動力が怖すぎる。
それに一人暮らしの男の家に、高校生が頻繁に出入りしていると知られるのはやはり困るのだが。
けれど菜月によってまたしても論破されてしまった。
「なにか怪しまれたら、親戚の子って言っといてくださいよ」
「俺の歳なら自然でしょう」
「男同士、付き合ってるからなんて勘ぐるひとのほうが少ないですし」
などなど。
茂の反論が入る隙も無かった。
「なにもおかしなことはしませんから」
おまけにそんなことまで言われて、不覚にもアイスコーヒーを噴き出すところであった。
どうしてこの子のほうからそんなことを言われてしまうのか。
いい大人が。
高校生に。
「なにもしませんから」なんて。
逆では?
そう思うも、結局菜月には敵わない。
水曜日のデートは場所が変わることになった。
茂の家で夕方まで、ということに。
「うーん……。茂さん、ここがちょっとわからないんですけど……」
「ん? あー、ここは複雑だよな。こっちの公式も見てみろ。参考になる」
肘をついてシャーペンをふらふらさせる菜月は、わからないところがある模様。
茂は向かいからそれを覗き込んで、持っていたタッチペンである場所を示した。
菜月はそこへ視線を向けて、シャーペンでなぞって読んでいく。
なぁなぁにはじまってしまった、水曜日の勉強会。
いや、デート。
とはいえ、勉強をするのは菜月だけだ。
茂は向かいで大概仕事をしていた。
タブレット端末で情報収集をしたり、学生向けの教材やテスト、プリントを作ったり。家でおこなって構わないたぐいのもの。
向かいにひとが座っていて、おまけにローテーブルにノートや教科書、参考書が並べられているのは不思議な光景だったが。
常に教えてばかりというわけでもなく、菜月がワークを解き、わからなければ質問してきて、最後に茂がチェックして採点する。
こんなパターンになっていた。
そして茂がチェックをしている間に、菜月がご飯を作ってくれるのである。
菜月のご飯はどれもとても美味しかった。
時間はたっぷりあるわけではないので、手の込んだものではない。
むしろごく普通の家庭料理である。
あるときはハンバーグ、あるときは肉じゃが……。
付け合わせだって、おひたしや軽い炒め物だったりする。
でも茂はかえってそれが嬉しかった。
昔ながらの和食が好きなのだ。
茂の反応からそれを知ったのか、菜月の作ってくれるものは和食が多くなっていった。
ハンバーグのときでもソースは大根おろしに醤油味であったり。
まったく、ひとのことをよく見ている子だ、と茂は感心してしまう。
本当は一緒に食べたいし、作ってもらうだけ作ってもらって、一人だけで食べるのは少々寂しい。
だが毎週、毎週、週に一度とはいえ、息子が外でご飯を食べてくるなど怪しいに決まっている。
毎週外食をできるお金が高校生にあるはずはないし、どこか悪い場所にでも行っているのではないか。
そんなふうに疑われてしまったら。
よって、早めの夕食を食べる茂の向かいで、菜月はほんの少し取った自分のぶんをつつくだけであった。
それでも一人で食べるより、ずっと良かった。
あたたかなご飯。
向かいで、お相伴程度でも一緒に食べてくれるひと。
茂はいつしか、水曜日を心待ちにするようになっていた。
勿論、ご飯だけが目当てだったわけはないが。
菜月と一緒に過ごせるのだ。
嬉しくないはずがない。
自分がこの子に惹かれていっていること。
その気持ちがだんだん大きくなってきていて、今ではもう、『少しばかりの好意』などとんでもない。
はっきり恋と言えるレベルになってきた。
ほだされた部分がなくもないと思う。
茂さん、茂さんと懐いてくれる菜月はかわいらしかったし、自分のことを好きだと全身で表してくれるのがとても嬉しかった。
なのに、たまにこちらがどきっとするような、大人の顔をするのだ。
主に茂に触れるときに。
とはいえ、それもまだかわいらしいものであった。
手に触れる、肩に寄りかかる、一度は頼まれて膝枕なんて妙なこともした。
一線どころか、その前の段階、ハグだのキスすらしていないのに、おかしなことだ。
そういうことを仕掛けてくるときの菜月の目は、普段と違って、熱がはっきり灯っていて、無邪気さなんてどこかへ行ってしまっていて。
見透かされそうになる、と思ってしまうのだった。
心の奥まで。
菜月に本当の意味で好意を持ってしまったのだと。
ひとの心に鋭い菜月のことだ。
とっくに知っていたのかもしれなかったけれど。
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