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消えた咲耶
高校の夏休みまであと数日。
菜月は夏休みが楽しみだという話を、事あるごとにしてくれるようになった。
茂のほうは大学なので、学校の夏休みのはじまりはもう少し遅いし、教授や講師は学生と同じだけの夏休みがあるはずはない。
この機会に論文を一本書く予定になっていたし、むしろすることは増える時期といえた。
「でも少しくらいは連休、あるんでしょう?」
「どこか行きましょうよ。ちょっと遠くに行けば、知ってるひともいないでしょう」
「一回くらい、ちゃんとデートしてみたいです」
このような菜月の猛攻があったのは言うまでもない。
茂としても悔しいながらやぶさかではなかったし、日帰りだが少し足を延ばしてどこかへ行こうか。
そういう予定を立てつつあった。
だが、夏の雨がしとしと降っていたある日。
茂がいつも通り、授業に出る支度をしていると、研究室のデスクに置いていたスマホが鳴った。
着信だ。
今は職場にいるのだから、仕事先なわけがない。
よって、実家か友達か、それともあまりそうあってはほしくないが、杏子か。
菜月……ではないだろう。
菜月からならメッセージアプリ経由だから。
そのように考えた。
そしてこれから授業の身、もう教室へ向かわなくてはいけない時間。
あとで折り返そう、と思った。
だが着信は一度切れても、すぐにまた鳴りだす。
茂は嫌な予感を覚えてしまった。
まさか誰か急病とか、事故とか……。
切れない着信はそういうケースであることが多いだろう。
けれど授業を放り出すわけにはいかない。
たった一時間。
終わったらすぐかけ直すしかない。
よって申し訳なくはあったけれど、一瞬、途切れた隙にマナーモードに切り替えて、音もバイブも封じてしまう。講師が教室でスマホなど鳴らすわけにはいかないのだから。
心掛りではあったけれど、そのスマホはポケットに突っ込んで、茂は教材を抱えて教室へ向かった。
教室の窓の外ではしとしと雨が降っていた。
弱い雨だし、夏の折、涼しくなって良いかと普段なら思うところだったけれど、今日ばかりはなんだか胸の中がざわついて仕方がなかった。
「……なんだって!?」
茂は思わずスマホに向かって叫んでいた。
電話をかけ、相手に繋がることのできたスマホに。
一時間、授業が終わって、スマホをやっと見ることができた。
着信履歴は埋まり切っていた。途中で諦めたということなのか、唐突に終わっていたけれど。
代わりにメールが来ていた。
『すぐかけなおして』
来ていたのはそれだけだった。
だが茂は悟ってしまう。
なにかあったのだ。
電話をひたすらかけてきた杏子に。
そして杏子がこちらに連絡を寄越すときたら、大体は決まっている。
咲耶のことである可能性が高そう、であった。
残念ながら、それは本当のことだったようなのだ。
「咲耶が……、いなくなったの……」
電話の先の杏子は泣きださんばかりだった。
既に泣いたのかもしれない。声は湿っていた。
「ど、どこに……、心当たりは……」
思わず言ったことには怒鳴り返される。
当たり前のことだったが、茂がすぐそのことに思い当たれたものか。
「散々当たったわよ! おばあちゃんちも、お友達の家も、いつも行く好きなお店とかにまで行って……でも……」
杏子の声はだんだん弱々しくなっていった。
茂はごくっと唾を飲み込んでしまう。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
咲耶の行きそうな場所。
今、咲耶と一緒に暮らして育てている母である杏子のほうが知っているに決まっている。
「なにか事件……とかの可能性は……?」
考えたくないが、幼い女の子。
誘拐に遭ったという可能性も、考えたくないが、あるのだ。
「わからない……、でも、自分で出てった可能性が高そうなの……。家に、書き置きがあったわ。『いってきます』って……」
書き置き。
幼稚園にもなれば、ひらがなくらいは書ける。それで拙いメモかなにか残したのだろう。
しかし『いってきます』……?
どこに『いってきます』だというのだろうか。
「もしや……、昔住んでた家、とかは?」
ほかにありそうなところ。
あの家は咲耶が物心つかないうちに引っ越してしまったから、覚えているかはかなり怪しいが。
「覚えてるはずがないと思うけど……、一応、マンションの管理人さんに電話してみた……でも繋がらなくて……。行ってみたほうがいいかと思うけど、その間に戻ってきたらと思うと……」
杏子の言っていることはもっともであった。
杏子は今、咲耶と二人暮らし。
近くに杏子の親、咲耶にとってはおじいちゃんおばあちゃんが住んでいるといっても、そちらに来る可能性だってあるのだから、家は空けられないだろう。
「……わかった。じゃ、俺が行ってみる。これから仕事だけど、こんな状況だから上がるよ」
それで一旦、役割は決まった。
茂は急いで事務室に向かう。
事態を説明し、このあとの授業は休講にしてもらった。
事務員や教授などは「見つかるといいですね」と心配してくれて、ここばかりは良い職場で良かったと思うばかりだ。
茂は傘を振り落とさんばかりの勢いで駅まで走り、電車に乗ろうかと思ったのだが、その前に駅前のタクシーが目についた。
ここから元住んでいた街まで、そう遠くない。
安くはないタクシー代になるだろうが、手持ちの金でなんとかはなるだろう。
早いほうがいい。
茂はすぐに決め、駅前で待機していたタクシーに向かった。
「急いでください!」
運転手にそんな無茶まで言って。
三十分ほどで目的地に着いた。
だが呆然としてしまう。
マンションは明らかに、もう誰も住んでいない、という様子だったのだから。
なにかあって、住まいとして機能しなくなったのかもしれない。
入り口は封鎖されていて、中に入れるわけもない。
引っ越してもう数年経つ。
まったく知らなかった、と思う。
知らなくても困るわけはなかったのだから、仕方なくはある。
が、可能性がひとつ潰れたことに変わりはない。
くそ、と思いつつ、茂はスマホを取り出した。
雨の中だ、画面は濡れてしまっていたけれど、ぐいっと手で水滴を拭って、電話アプリを立ち上げた。
杏子に電話をかける。
内容は芳しくない報告になってしまったし、杏子はがっかりしたようであった。
だが、こうしていても仕方がない。
「じゃ……あなたのマンションに行ったって可能性は……」
杏子は次の可能性を話したけれど、それは考えにくかった。
「それこそ知らないだろう。住所すら知ってるもんか」
幼稚園児に住所など教えていないし、漢字だって満足に読めるものか。可能性はかなり低そうだ。
「でも少しでも可能性があるなら……」
杏子の言葉。
不覚にも茂は苛立ってしまった。
こんな、俺だけ雨の中、駆けずり回らせるのかよ。
そんなふうに思ってしまって。
頭ではわかっている。
今はこう動くのが効率的なのだ。
杏子はなにも間違ったことは言っていない。
茂はちょっと、頭を振った。
別に駆けずり回ったって構わないじゃないか、と自分に言い聞かせる。
咲耶が見つかるなら、そのくらいなんでもないじゃないか、と。
時間が経てば経つだけ、ことは厄介になるだろう。早く見つけなければならない。
「……そうだな。じゃ、マンションに戻るよ」
そう言って、茂は電話を切った。
ここではタクシーも捕まりにくい。駅に戻るのが一番次の行動がしやすくなる。
ああ、でも財布の中身の残りが心もとない。
ないとは思うが、タクシーでクレジットカードが使えなかったときの可能性を考えて、ATMにも寄らなければ……。
時間はどんどん無為に過ぎていくような気がして、足早にその場を離れようとしたのだけど。
「……桜庭さん?」
そこで声がかかった。聞き慣れない声だ。
でも呼ばれているのだ、振り返った。
そこにいた人物。数秒考えて、茂は思い当たった。
「鈴宮さん!?」
マンションのすぐ近くに住んでいたおばさんだ。
五十代くらいの優しいおばさんで、ここに住んでいたときは、ゴミ捨てで会うときなど、必ず挨拶したものだ。
「良かった……、連絡を取れたらと思ってたの」
鈴宮さんはよくわからないことを言った。
この状況で、ここに茂が住んでいたときの昔話であるはずがあるまい。
「娘さん……、咲耶ちゃんのこと……、もしかして、探してたりされるかしら」
咲耶の名前が出てきて、茂は仰天した。
まさかなにか、情報があるのだろうか。
思わず一歩、踏み出してしまったくらいだ。
「咲耶がここに来たんですか!?」
茂の勢いがあまりに強かったからだろう。
鈴宮さんのほうは一歩、引いた。
だがその茂の様子で、それが当たっていたことを知ったのだろう。
顔が歪んだ。彼女にはなんの関係もないのに、悲痛な顔になる。
「わからないわ……、咲耶ちゃんのことは赤ん坊の頃しか知らないから……、あの子が咲耶ちゃんだったかどうか確信はないの」
「でもそれらしき子がいたんですね!?」
茂はまた勢い良くなってしまったけれど、やっと掴めた、有力そうな情報だ。早く聞きたいと思う。
はやる気持ちを抑え、鈴宮さんの説明を聞く。
数十分くらい前。
鈴宮さんは一人で買い物に出ていた。
雨の中、高齢に差し掛かりつつある女性だ。ゆっくり歩いていたのだが、幼稚園児くらいの子供が、たっと駆けていくのを見たのだという。
幼い子が一人きり、おまけに傘もさしていなかったものだから、不審に思った。
そしてちらっと見えた横顔は、咲耶が成長していたらこんなふうになっているのではないか、と思えたと。
それで一応、連絡を取りたいと思ったのだが、マンションはもう封鎖されていた。
茂や杏子に連絡もできずに、でも気になって、あの子が戻ってきていないかともう一度、見に来てみた……。
茂はそれを聞いて、確信した。
それは十中八九、咲耶だろう。
覚えていたかもわからない、元住んでいた家。
やってきていたのだ。
でもマンションが封鎖されているのは子供にもわかっただろう。
それでがっかりして、またどこかへ行ってしまった……。
茂の心臓が違う意味で冷えていった。
傘もさしていなかったのだという。
夏の折とはいえ、雨が当たれば冷えるに決まっている。
そんな中で、幼稚園の子供が。
いや、落ち着け。
茂はまた自分に言い聞かせた。
まだこのあたりにいるかもしれない。
鈴宮さんの口ぶりでは、そう前のことではないようなのだから。
「ごめんなさいね、私が声をかけていれば……」
「いえ、そんなことはないです! お会いできて……お聞きできて良かったです。まだこのあたりにいるかもしれません。俺、ちょっとそのあたりを回ってきます!」
申し訳なさそうな鈴宮さんも、近所を見てくれると言って、茂は一方へ向かって走り出した。
このあたりにいるなら、知っている場所へ行っている可能性が高い。
ここに住んでいた頃、茂や杏子が連れて行った場所か……。
茂がすぐに思いついたのは、公園だった。
まだ幼児になって間もない頃の咲耶。
連れてたまに遊びに行った。
覚えているかはわからないが、マンションにどうやってか辿り着いたくらいだ。行っている可能性はある。
よって、茂は公園を目指した。
急ぎ足だったが、すぐに駆け足になった。
しかしそこで、ポケットのスマホが鳴った。
杏子か、そちらのほうに帰ってきたのかもしれない。それならそちらのほうがいい。
思って、スマホを取り出して見てみたのだけど、表示されていた名前は違うものだった。
菜月からではないか。
こんなことを思うのは申し訳ないが、今、この状況では呑気に話などできない。
でも無視も出来ない。
一言だけ応答して、あとで落ち着いたらかけ直そう。
思って、走りつつ茂は応答ボタンを押した。
すぐに菜月の声が流れ込んでくる。
「あ! 茂さん! 良かった……、実は困ったことが」
なにか言いかけた菜月。
だが茂にとっては、今、目の前の状況より『困ったこと』だなんて思いもしなかった。
「ごめん、今、緊急事態なんだ! あとでかける!」
菜月の言うことをろくに聞かずに、それだけ電話に向かって言って、切った。
乱暴にポケットに突っ込み直して、傘を持ち直して、足を速める。
まさか、菜月からの着信が、別の方向からの情報だったなんて、思いもせずに。
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