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悲しみ、寂しさ、すれ違い

 公園はしんとしていた。  それはそうだ、この雨の中、遊びに来る子供や親子はいないだろう。  そう、子供一人、姿が見えなかった。  空振りだっただろうか。  別のところへ行ってしまったのだろうか。  茂はがっかりしそうになったけれど、そのときふと遊具が目についた。  そうだ、遊具は大きいから、あの中に子供は入れる。幼かった咲耶とかくれんぼなんかしたじゃないか。  そう考え、一縷の望みをかけ、茂は公園に入り、遊具に近付き、覗いていった。  ブランコやジャングルジムには隠れる場所などあるはずがないが、ドームになっていたり、陰のできるような遊具なら、雨もしのげるし居るかもしれない……。  そして茂のその予想は当たっていた。  ひとつの遊具、小さなドームがついているところを覗いたとき。  びくっと中でなにかが動いた。  小さな影。  まさか。  茂はしゃがみこんだ。  中がもっとよく見えるように。 「……咲耶?」  呼びかけてみる。  咲耶だったらこれで安心してくれるだろうと思ったのだけど、その通りだったようで。 「パパ……!?」  奥から聞こえたのは、咲耶の声だった。  茂を呼ぶ声。 「咲耶……、おいで」  茂は入れないので、腕を伸ばす。  一人で出ていったのだ、拒否されるかもしれない、と思ったのだけど、その手はすぐに小さな手で握り返された。  這うように遊具の奥から出てきて、そして茂にぶつかるようにしがみついてくる。 「パパ……、パパ……!」  雨に濡れ切った体、冷えからか恐怖からか、震えている。  しかししっかり存在が感じられた。 「悪かった……」  ぎゅっと抱きしめる。  やっと見つけた愛おしい存在を。 「パパに会いたくて、わたし……!」  わんわん泣きだした咲耶を、茂はもう一度「悪かった」と言いながらより強く抱きしめることになる。  しかしそこで気付いた。  遊具の奥。  なにか動いているではないか。  なんだ、猫かなにかでもいたのだろうか。  少々驚いた茂だったが、その驚きは猫どころでは済まなかった。 「……ごめんなさい……」  奥から出てきたのは、子供がもう一人。  茂も知っている子。  ……菜摘、であった。  その場でスマホからタクシーを呼んだ。  咲耶と菜摘の両方を抱え、乗せて、向かったのは杏子の家。  咲耶を膝に抱き、菜摘を横に寄りかからせて、走るタクシーの中は無言だった。  幼児が二人もいるのにこれほど静かなのはおかしいだろう。  しかしこういう事態である。  杏子の家まで、やはり三十分ほど。  電話をかけていたので、杏子はマンションの前で立っていた。  どのくらい待っていたのか、傘をさしていても、服の裾はしっとり濡れていた。 「咲耶……!」  タクシーを降り、咲耶を先に降ろすと杏子が駆けよらんばかりに近付いてきた。  が、咲耶は首を振る。  ぎゅっと茂にしがみついた。 「嫌……! わたし、パパも一緒じゃなきゃ、いや……!」 「……咲耶……」  茂は抱きついてくる咲耶を抱きしめながら、胸が締め付けられる思いを味わった。  咲耶に家出などさせ、あんなところまで一人で行かせてしまったのは自分なのだ。  それをはっきり思い知った。 「……パパも一緒におうちに入るから。とにかく、おうちに行こう。風邪を引いちゃうよ」  宥めつつ、咲耶を抱いた。  咲耶は抵抗するようにもがいたが、それをしっかり捕まえる。  そのあとから菜摘が出てくるのを、杏子が手を引いて助けた。 「菜摘! どこへ行ってたの……!」  菜摘の母親だろう、杏子より少し年上に見える女性がそこにいて、降りた菜摘を抱きしめた。杏子が呼んでおいてくれたらしい。 「とにかく、風呂に入ろう。冷え切ってるんだ」 「……ええ」  咲耶は茂にしがみついたままだったので、そのまま杏子の部屋まで上がることになる。  風呂ばかりは杏子に任せることになったが。  杏子が咲耶と、それから菜摘を風呂に入れている間。  茂はすっかりぐしょぐしょになった服を脱いで、借りたタオルで体を拭いた。  一応、傘を使っていた自分の体もだいぶ冷えてしまっている。  傘無しでいた咲耶と菜摘は、どれほど冷えてしまったか。寒く思ったか。  思うと心が痛む。  風邪など引かないことを祈るばかりだ。  着替えなどはないので、上だけ裸になり、タオルでくるむ。  そうしてからやっと、スマホを取り出した。  連絡をしなければいけない。  一緒に探してくれていた鈴宮さんに、それから大学にも報告を。  まず鈴宮さんに電話をかけ、彼女は泣きださんばかりの声で、「まぁまぁ、良かったわ」と喜んでくれた。  次に大学に……と思ったのだけど、そこでやっと別の通知に気付いた。  それは電話ではなく、メッセージアプリ。  こちらからも通話ができるのだ。  菜月がたまにかけてくるように。  そうだ、菜月くん。  なんか電話をくれたっけ。  あんなときだったからとはいえ、無碍にして悪いことをした。  茂が思ったのはそのくらいだったのだけど、通知の光るメッセージアプリを開いて、目を見開いてしまった。 『ごめんなさい。菜摘が咲耶ちゃんを連れだしてしまったみたいなんです』  そこにはそうメッセージが届いていたのだから。  茂が電話をすぐ切ってしまったからだろう、代わりにということのようだ。  どう返事をしたものかと思った。  そうだ、とにかく「無事に見つかったよ」と送っておかないと。  けれど、そこでがらりと脱衣室のドアが開いた。  茂がそちらを見ると、パジャマを着せられた咲耶と、それから咲耶の服を着た菜摘が出てくるところ。 「咲耶、菜摘ちゃん、あたたかい飲み物、飲みましょ」  あとから杏子も出てきて、キッチンへ二人を連れていく。  なにかお茶でも淹れるのだろう。  茂のことは一瞥しかしなかった。  そのことにぞくりとする。  あとで責められるのは確実だ。  当たり前のこととはいえ、恐ろしい。  そこで次にはチャイムが鳴った。 「あなた、出て」  杏子がちらっとこちらを見て、茂は腰を上げる。  そこには菜摘の母親というひとがいた。  菜月の母でもあるのだ、菜月にも似た顔立ちであった。  そんなことを実感している場合ではなかったが。 「この度は菜摘がすみません」 「……いえ……、俺のせい、です」  菜摘の母親はぺこりとお辞儀をした。  なにか大きなバッグを手にしている。菜摘の着替えなどを持ってきてくれたらしい。  その彼女を中に招き、あとは杏子と菜摘の母に任せることになった。  茂は杏子が「裸はやめてちょうだい」と申し訳程度に貸してくれた、大きめサイズのウィンドブレーカーを羽織り、外へ出た。  あの場所にいるのは、少なくとも今は不適切だろう。  外は蒸し暑かったが、茂にとっては寒かった。  はぁ、とため息をついてしまう。  ひとまず二人が無事で良かった、と思う。  が、問題はこれからでもある。  咲耶が家出などした理由。  菜摘がそれを……大人の言葉で言うなら助長した理由。  二人から聞き出し、そしてそれを解決しなければいけない。  どうしたものか。  茂は途方に暮れてしまう。  咲耶が自分に会いたくて行動を起こしたのは間違いない。  咲耶としては、杏子だけでなく、茂も一緒に暮らしてほしいと望んでいるのだ。  だがそれはできない。  今更、というほかにも、杏子が許すはずがない。  自分だって自分の生活がある。  それはもう覆せない。  ……自分の生活。  そこで茂は再び、はっとした。  そうだ、菜月からの連絡。  また返しそびれていた。  なにか送っておかないと。  菜摘の母から「二人が見つかった」とは聞かされているだろうが、自分からも言うべきだ。  そこでスマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げ……。 「……茂さん……」  声がした。  ここで聞こえるはずのない声が。  ばっと顔をあげると、そこには菜月が立っている。  私服姿。  傘を持って。  どうしてこんなところに、ああ、いや、菜摘ちゃんのお母さんと来たに決まって……。 「……連絡……、返さなくて、悪い……」  なんとか言った。  まずはそれを謝らなければだった。  菜月があのとき、電話で言いかけたこと。  さっきやっと見られたメッセージの内容を言ってくれるつもりだったに決まっているのだ。  それを蹴ってしまったのだから。 「いえ、……すみません……」  菜月は一歩、踏み出した。  うつむいていて、顔はよく見えない。  ただ、酷い顔をしているようだった。  そんな空気が伝わってくる。 「……きみのせいじゃ、ないだろう。俺が……」 「違うんです」  茂が言いかけたとき、きっぱりと菜月が言った。  なにが違うというのか。  だが言い方があまりにきっぱりしていて、茂が一瞬、言い淀んだとき。  菜月の手が、ガッと茂の手を掴んだ。  手の上から握ってくる。まるで縋るようだった。 「俺のせいなんです……、俺、この間、父兄参観の話を菜摘として……、そしたら、『さくやちゃんのパパは、どうしてあのときしか来なかったの?』って言われて……。あの話をしなかったら、菜摘が余計なことを言うこともなかったかもしれない!」  一気に吐き出すように言われた。  その言葉は茂を凍り付かせる。  菜摘の行動理由。  なんとなく察せた気がした。  咲耶が「パパに会いたい」という話でもしたのだろう。  しばらく思い詰めてしまっていたようだから。  そこで、それを聞いた菜摘は「じゃあ、パパに会いに行こう」と提案した……。  そういう可能性が頭に浮かんだのだ。  そしてそれはあまり間違っていない気がした。  それから、この目の前の菜月の様子も。  菜月のせいであるはずがない。  だが、優しいこの子は『自分が話をしたせいだ』と思ってしまったのだ。  きみのせいであるもんか。  元をたどれば、全部俺のせいだ。  そう、言いたかった。 「菜月くん……、俺、が」  だが、菜月の声と様子があまりに悲痛で、一瞬、言い淀んでしまった。  そこへ、ガチャッと音がした。  はっとうしろを振り返ると、杏子が立っている。  玄関ドアを開けたところ。  なにか用事で呼びに来たのだろう。  茂はそのとき、既視感のようなものを覚えてしまった。  あのとき。  幼稚園の参観日のとき。  菜月と話しているところへ杏子がやってきた。  そのときとまったく同じではないか。 「……あなた、……菜摘ちゃんのお兄ちゃん、に……」  驚愕の顔と、震える声で、杏子が口に出した。  茂はそのことで、心臓が冷える思いを味わってしまう。  ああ、これはまずい。  もっと悪いほうへ行く。  その予感。  外れるはずもなかった。 「どういうことよ!? 咲耶を思い詰めさせたうえに、菜摘ちゃんのお兄ちゃんに手出ししてたって言うの!? 高校生じゃない!」  杏子が言ったこと。  まっすぐに茂の心臓へ突き刺さった。  全部本当のことだ。  そして本当のことだけに、激痛であったし、言い返せることもなかった。  どう答えたらいいかなど、即座にわかるはずもない。  茂の口からはなにも出てこなかった。  反論も、言い訳も、あるいは別のことも。 「違います! 俺は別に……」  菜月がなにか言いかけたけれど、杏子は聞く耳を持たなかった。 「わかってるわよ! あのとき見たときから、そういう関係なんだろうなって! でもそんなことはないって思おうとしていたのに……!」  杏子の言葉は若干の齟齬があったけれど、今、そのあたりを追及している場合ではない。  杏子はやはり、あのときなにかしら聞いて、見て、感じていたのだろう。  なにか特別な関係なのではないか、と。  それが今、脈絡立った言葉にならなくても出てきているということだ。  杏子はつかつかと近寄ってきて、そして茂の肩を殴りつけた。  だがそれは、悲しくなるほど弱々しい力だった。 「あなたが恋人なんかにうつつを抜かしているから……!」  はっきり言われて、茂の心臓は今度、凍り付きそうになる。  痛み、そこから血が溢れたような気持ち悪い感覚、そして次は凍るように冷たくなる。  なにか言わなくてはいけない、説明しなくてはいけない。  たとえまともなことが言えなくても。 「それは言いがかりだろ……。離婚してくれって言ったのはお前じゃないか……」  なんとか言った。  が、そんなことが通じるものか。  大体、こんな場所で話すことではないのだ、本来は。 「だからって咲耶にこんなことさせるの!? 父親の義務くらい果たしてよ!」  ドンッ、と茂の肩をもうひとつ殴りつける杏子。  言っていることは間違っていない。  だがそれは感情論だ。  そんなことは口に出せないけれど。火に油に決まっている。 「……また落ち着いて、話そう」  茂はなんとか手を持ち上げ、杏子を引き剥がした。  そのことでやっと、菜月の手が離れていっていたことに気付かされた。 「今日は帰るよ。明日、咲耶と一緒に話をしよう」  言い聞かせるように言った。  杏子はなにも言わなかった。  しかし、茂が菜月に「菜月くん、行こう。俺の家で説明する」と言ったとき。  背中を向けて、出ていこうとしたとき。 「裏切り者……!」  絞り出すような声が背中にぶつけられた。  その声は茂の背中ではなく、心臓に突き刺さる。  また新しい傷ができて、だらりと血が流れだしたような感覚を、はっきり覚えた。

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