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茂と杏子
二人でこの家にいて、これほどしんとしていたことも、重苦しい空気だったこともない。
茂は普段するようにペットボトルからお茶を注いで、グラスを菜月の前に置いたのだけど、菜月は「ありがとうございます」と言ってくれたものの、手を付けなかった。
自分のぶんのお茶もついで、こちらは散々駆けずり回って喉がからからだったのをやっと思い出したので、勢いよく煽ってしまった。渇いた体が満たされていく。
そうしてから改めて、座り直した。
菜月は今、これまでしていたような隣に座ってくるのでなく、ローテーブルを挟んで向かいに座っている。視線は下に落としていた。
「……菜月くん」
なにから切り出したものかと思って、名前を呼んだ。
菜月の肩がぴくりと震える。
「ごめんなさい……、俺のせいで……」
「違うと言っただろ」
謝られてしまって、後悔した。
最初に「きみのせいじゃない」と言うべきだったのに、と。
実際、菜月のせいであるものか。
「……家族のことから話したらいいかな。聞いてくれるか」
菜月は数秒黙ったけれど、そのあと「はい」と小さな声で答えてくれた。
「俺がバツイチで、あの元妻……杏子っていうんだが、あいつと別れてるって話は前にしたよな……」
茂は話し出す。
自分の事情を。
これほど詳しい話を他人にするのはだいぶ久しぶりだった。
身内や職場のひとたちといった近しいひとたちには、もうとっくに話し終えていたし、蒸し返すひとたちもいなかったのだから。
杏子と結婚したのは、大学を出てしばらくしてから。
杏子の妊娠が明らかになったからだ。
とはいえ、杏子とは大学時代にずっと付き合っていて、交際も既に四年を過ぎようとしていた。
むしろ『いい機会だ』と二人とも捉え、そのまま籍を入れ、式を挙げ、そして咲耶が生まれた。
平和で幸せな結婚生活だった。
咲耶はかわいらしく、健やかに育ってくれたし、杏子もきっと、茂のことを愛して信頼してくれていた。その頃は、まだ。
幸せだったのだけど。
その中にはひとつ、茂の中に抱えている『秘密』があった。
それは自身の性的嗜好によるもの。
これはごく親しいひと、学生時代の信頼できる親友といえるレベルの友人にしか話したことのないことだ。親など身内にも話したことがない。
杏子と付き合い、外面上は異性愛者として振舞っていたけれど、実のところ、それは正しくない。
本来の性質は、ゲイ……同性愛者なのである。
ずっと抱えてきたことだ。
性的少数者であることは、人生において、この日本という場所では、あまり良いようには作用しないものだ。
よって杏子にも話しておくわけがなかった。
当たり前だ、交際し、子をもうけ、幸せな生活をしていたのだ。
余計なことは言わないほうがいい。
そもそも付き合うことになった経緯だって、最初は自棄のようなものだったのだ。
高校時代、付き合っていた男の同級生。
その相手に浮気をされていたことが発覚して、勿論、酷く傷ついて。
ああ、もう嫌だ。
男と付き合って、浮気をされて裏切られても、ひとに愚痴ることもできやしない。
そもそも交際だってひとに話せなかったのだ。
表面上『良いひと』を取り繕っていた相手が酷い捨て方をしてきたのだって、外から信じてもらえるはずもないし、愚痴のひとつもこぼせない。
男との交際で痛い目を見、しかもその発散方法もなかった茂は思った。
それならもういい。
男と付き合うなんて、面倒が過ぎる。
やはりこの世界では女性と付き合ったほうが、色々楽だ。特に世間的に。
そこへ、大学に入ったあと。
同じサークルに入っていたことで知り合った杏子に「付き合ってほしい」と告白されたのが、渡りに船だった。
そのまま付き合うことにし、同性しか愛せないと思っていた割には、意外と交際はスムーズに進んでしまった。
まるで自棄で告白を受け入れた交際とは思えないほどスムーズで。
そして居心地も悪くなくて。
そのうち、杏子のことを、取り繕いではなく本当に好きだと思えるようになった。
これが自分の性的嗜好と相違があったとしても、少々戸惑ったものの、そのうち「かまわないだろう」ということにしてしまった。
きっと杏子は『性別なんて関係ない!』となる類の特別な相手なんだろうな。
そう思うことにして。
それは今思えば、楽観や思い込みだったのかもしれなかったけれど。
とにかく、杏子との相性は悪くなかったのだろう。
二人で過ごすことも、そのあとの結婚や子供のこともスムーズに進んでしまったくらいには。
それで、性的嗜好については黙ったまま、杏子と、それから咲耶との日々は過ぎていった。
が、ひとの心というものはなかなか秘密に向かないもの。
茂の心に、悪く言えば魔がさした、というのか。
わかってほしい、と時折、思うようになってしまった。
愛している妻だ。
自分のことを本当に理解し、受け入れてほしい、と。
あとから悔やみ、後悔したことは言うまでもなかったが、幸せな生活は、茂に楽観的思考をもたらしてしまったのだ。
秘密を打ち明けたとしても、杏子なら受け入れてくれるだろうと。
同性愛者なのだと話しても、「でも愛しているのは私でしょう?」と自信をもっていてくれるだろうと。
そんなこと、杏子の気持ちをちっともわかっていなかったのだけど。
「別れてほしいの」
杏子に切り出されたのは、茂が『その話』をした一ヵ月ほどあとのことだった。
リビングのテーブルだった。
テーブルには、杏子の名前が書かれた離婚届が置かれていた。
「……なんで」
茂は呆然と呟いた。
確かに自分の『その話』について、聞いてくれたときの反応はあまり良くなかったかな、とは思ったけれど、まさか離婚を切り出されようとは。
茂の反応が、『わかっていない』というものだと伝わってしまったのだろう、杏子は、きっ、と顔をあげて茂を睨みつけた。
その目を見て、茂は悟った。
自分は杏子を傷つけてしまったのだと。
話したのは間違いだったのだと。
……黙っておくべきだったのだと。
「性的嗜好については否定しないわ。そういうひとだっていると思う」
感情を押さえつけている声と表情で、杏子は言った。
茂はごくりと唾を飲んだけれど、それを聞くしかない。
「でも私と結婚しておいて、どうしてそんなこと言うの? 私を本当の意味で愛せないってことじゃない!」
杏子が言い放った言葉。
自身の心を引き裂くような声であった。
茂の心臓が一気に冷えていく。体中が凍ってしまうのかと思うほど、冷たい感覚を覚えた。
「……どうして、そういうことに……」
呆然と言った。
それしか言えなかった。
けれど杏子の鋭い声がそれを遮る。
「そう聞きたいのはこっちのほうよ! 同性しか愛せないのに、私と付き合ったってなに!? 女と居たほうが都合がいいからでしょ!?」
その言葉。
半分ほどは本当のことであった。
少なくとも、はじまりは確かにそれだったのだから。
即座に否定するべきだった。
「違うんだ」
「お前は特別なんだ」
「性別関係なく好きになれたひとだったんだ」
そんなふうに、はっきり言って否定するべきだった。
だが茂の口からそれは出てこなかった。
衝撃が強すぎて。
そんな、嘘と本当が入り混じること。
どういうバランスで口に出していいのか、まったくわからなかった。
「それに……、騙すなら、ずっと騙してくれてたら良かったのよ……、なんで今更……!」
声はだんだん震えていって、小さくなっていって、やがて途切れた。
杏子は顔を覆ってしまったのだから。
泣いているのがわかった。
だが今の茂にそれを慰めることはもうできない。
そう、思い知った。
それですべておしまいだった。
説明することもできなかった。
だってもう遅かったのだから。
茂の心中を説明したところで、もう杏子の心には届かない。
閉ざされてしまったから。
杏子の心が。
そこにあった信頼が。
茂は諦めた。
すべて受け入れた。
離婚も、咲耶の親権を杏子が持つことも、養育費などについても。
それで今の生活がある。
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