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第4話

◇◇◇   自分でもそれが正しかったのか間違っていたのかわからない。とにかく僕は佐伯さんとのその夜のことをすごく後悔していて、同時に同じくらい満足していた。  一方的な想いとはいえ隆を裏切ってしまったことに対する後ろめたさは消えなかったが、おそらくはそれを上回る満足感を得られたことは否定できない。何しろ常に心の中に爆弾みたいに抱えていた、のた打ち回る渇望が満たされたのだ。  多分あの夜は僕にとっては最高の夜で、そしてその反動を思えば最悪の夜とも言えた。  なぜなら佐伯晃一は、明らかに湯沢隆ではないのだから。  その現実に直面すると胸は一層苦しくなり、両方に対して申し訳なさで一杯になった。  意外にも佐伯さんは僕を見限らなかった。夜が明け朝の光の中で理性を取り戻し、自分の醜態に赤面し俯くしかできなかった僕を抱き締めて、最高だったと言ってくれた。 「来週も来いよ」と渡されたカードキー。あれから1週間、迷いに迷ってやっと決心がついた。  やはり、行けない。こんなことは間違っている。  彼にそう言って、はっきりと断ろう。どんなに一人寝がつらい夜が続くとしても、そのたびに都合よく慰めてもらおうなんて、そんなことできない。彼の僕に対する気持ちが本当ならなおさらだ。  開発企画課は社内のエリートが集まっているイメージがあって、なんとなく敷居が高かった。仕事もリンクしない総務課の僕は、滅多に足を向けることもない。のどかで落ち着いた雰囲気の自分の部署と違い、生き馬の目を抜く緊張感が満ちる忙しないフロアは、同じ会社内なのにまるで別世界だ。  フロア内をザッと見渡したが、佐伯さんの姿は見当たらなかった。タイミングよく同期入社の田代が通りすがりに僕をみつけてくれた。同期ではトップの成績で入社した田代は今、佐伯さんの下で働いている。 「あれ? 須藤じゃないか。企画に何か用?」 「うん、その……佐伯係長いるかな」 「会議中。今日だけで新製品の企画会議3つ」  田代がやれやれと眉を寄せ両手を広げる。 「何でもかんでも係長に回ってくるから。仕事できすぎるってのも考えものだよな」  その口調には皮肉めいた感じは一切なく、ただ純粋な尊敬だけがこもっている。 「そっか、忙しいんだね」 「何か急用?」 「あ、いいんだ。たいしたことじゃないから」  不審げな田代の視線から逃げるように、僕はその場を後にする。社内でもっとも期待されている男には、ちょっと立ち話をする暇だってあるはずがない。もしかしたら今日の約束だって、もう忘れてしまっているかもしれない。  しかし、預かった鍵は返さなければならない。困った。せめて携帯の番号だけでも聞いておけばよかったと後悔する。  ところが心配する必要はなかった。驚いたことに3時の休憩時間に、当の佐伯さんが自ら総務課に姿を現したのだ。女性社員の羨望と男性社員の興味の視線を一身に受けながらまったく動じないのは、他人の目に慣れているせいだろう。悠然と注目を流し、平然と僕に向かって手を上げてくる。彼との関係がばれるはずがないのに、どうしても周囲の視線を意識してしまう小心者の僕とは正反対だ。  その場でできる話ではないので、僕は彼をあまり使われない隣の会議室に連れて行った。 「すみません忙しいのに。会議、大丈夫ですか?」 「今は休憩中だよ。10分後に再開だけどね。田代に君が来てたって聞いてすっとんで来た。どうしたの?」 「あの、今夜のことですけど……やっぱり僕、行けません」  俯きながら告げる。視線を合わせられない。 「用事でも?」 「そうじゃなく……考えたんです。なんていうのか、こういう関係、やっぱりお互いによくないと思うんです。僕には続けていける自信がありません」 「あの夜はよくなかった?」 「それは、よ、よかったから……だからなおさら、このまま流されたらいけないって思って。ごめんなさい」  唇を噛み締め、カードキーを差し出す。 「そうか、わかった」  恐る恐る見上げた彼の顔は、あの夜のまま優しく微笑んでいた。その優雅な指が鍵を受け取った瞬間、心の隅がチクリと痛んだ。未練だろうか。 「俺も君を困らせたくはない。ただこれで終わりにしたくもない。だから、俺のことが必要になったらいつでも声をかけてくれ。いつでも待ってるよ」  佐伯さんはそう言って指でカードを挟んだ手をちょっと上げると、そのまま背を向ける。出ていく足音がガランとした室内に反響する。  想いを他の人間に残し、体だけ繋ぐ関係なんてきっとうまくいかない。それに、秘かに彼に想いを寄せる人間は山ほどいる。僕なんかが自分のわがままだけで、独占できるような人ではないのだ。  心の中で言い聞かせるが、握った拳は認めたくはない後悔で微かに震えていた。

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