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第5話
その夜は『湯沢堂』に寄った。この間来てからもう1週間経ったなんて嘘のようだ。
金曜の夜は客のいないその店の扉を開けると、店主はいつものように「おうっ」と威勢よく声をかけ、大きな片手を上げてくれた。ずっと抱えてきた後ろめたさは実際に隆の顔を見てさらに膨れ上がったが、何も事情を知らない当人の気楽さが罪悪感を救ってくれる。
「何だよ、しけたツラして。本日の運勢は凶と出たか?」
気遣いとからかい半分半分と言った口調で、隆が顔を覗き込んできた。落ち込んでいるつもりなどなかったのに、そんなしょげ返った顔をしていただろうか。
「そんなひどい顔してるかな」
「してるしてる。この俺に隠そうなんて思うなよ。おまえなんかちょっと顔見りゃ、今日の晩飯はなんだったかまで丸わかりだぜ」豪快に笑ってから「マジでなんかあったのか?」と心配そうに聞いてくる。
「何もないよ。今週はちょっと忙しかったから、疲れたのかな」
「根性ねぇな、佐伯さんとこと違って、おまえんとこはたいして残業もねぇんだろ?」
彼の名前が出て心臓が跳ね上がった。隆としては何の気なしに口にしたのだろうが、僕にとって彼の名前は今は禁句だ。それでも、やはり気にはなった。
「佐伯さん、最近来てるの?」
「あ? 来てるぞ、1日置きにランチ食いに。夜は忙しいのか、あれから来ないけどな」
普通に顔を出しているのか。彼のように余裕のある人間にとっては、あんなこともゲームの一種なのかもしれない。気を揉んでいるのは僕だけで、隆に対して後ろ暗いなんて気持ちも、彼には特にないのだろう。
目の前に今日のブレンドが置かれる。コクのあるいい香りが、微妙に揺れる気持ちを落ち着かせてくれる。
「でもま、今日おまえ来てくれてよかったわ。ちょっと話したいことあって」
隆は微妙に視線をそらし、らしくない曖昧な笑みを口元に浮かべた。胸がざわめいた。
隆がこんな顔をするときは、きっと彼にとっては照れくさいながらもいいことで、僕にとってはとてつもなく痛いことに違いない。これまでの経験ではそうだった。
今日はやめてほしい、と言うこともできなかった。親友が吉事を誰よりも一緒に祝ってほしいと思っているのに、水を差すようなことは言えない。
「実はさ、こないだ理恵にプロポーズして、一応OKもらったんだわ。一緒にこの店やってってくれるってさ」
いつかこの日が来ることはわかっていた。そう言われたときのために、祝いの言葉の練習だってしてきた。でも実際にその場面に身を置いて、どんなに自分の認識が甘かったか思い知る。目の前が一瞬暗くなり、心臓が悲鳴を上げ始めている。ムンクという画家の有名な絵が頭をよぎる。
それでも僕はうまくやった。何しろこのときのために、それはもう何度も何度も鏡を見ながら練習してきたのだから。
「やったじゃないか! おめでとう!」
「おめでとうって、まだ口約束だけだしよ。これからいろいろ決めることあって大変なんだろうけど、まぁ一歩前進って感じか?」
俺も年貢の納め時だよ、と笑って頭を掻く親友をみつめる。長いつき合いだがこれほど幸せそうな彼を見るのも初めてだ。
「理恵さんみたいなしっかりした人が奥さんになってくれれば安心だよ。僕ももう暴走しがちなおまえの心配をしなくてすむし」
「なんだと? この野郎」笑いながら空パンチをよこし「でもまぁ何だ。確かに俺には過ぎた女だよ。あいつと会えてよかったと思ってる。運命ってのはあるもんだよな。なーんて、なんか柄でもねぇこと言っちまった」
運命――今の僕にとっては残酷な言葉だ。隆の運命の相手は理恵さんで、他の人間は必要ない。勝手にあぶれた僕はどうなるのだろう。運命の相手なんか、どこにもいないんじゃないだろうか。
半分しか空いていないコーヒーカップを置いて立ち上がった。
「ごめん隆、僕ちょっと会社に忘れ物してきちゃった。今日はもう行くよ」
「マジで? おまえも相変わらず抜けてんな。気をつけて行けよ」
「うん。じゃ運命の嫁さんによろしく」
「おまえー、潤也のくせに人をからかうなっつぅの、生意気な!」
笑い声を背中で聞きながら、扉を押し店を出る。
できれば彼の幸せを一緒に喜んでやりたかったが、これ以上は無理だった。親友として失格だ。雲間に見える半月が、打ちしおれた哀れな僕を笑っているように見えた。
一人でいたくなかった。一人でいると延々とろくでもないことを考えて、どんどん落ちていってしまいそうだった。心の中ががらんどうになって、なんだかひどく寒かった。
ぬくもりが欲しい。誰かに温めていてほしい――そんな思いばかりが先走って、気が付くと足は無意識に佐伯さんのマンションに向かっていた。タクシーで10分の距離を30分かけて歩いてたどりついた。
本当は今夜来るはずだった場所。もう来ないと決意した場所。
鍵を返してしまったので、オートロックの自動扉は開かない。インターホンを押したが返答はない。まだ帰っていないのだろう。
エントランスの自動扉の前、植え込みの陰の目立たない場所に座り込む。疲れた。
最低な自分に嫌気が差す。ほんの数時間前はっきりと断って鍵を返しておきながら、また佐伯さんにすがろうとしている。自分勝手だと罵られても仕方ない。
それでも、手を握っていてほしい。そばにいてくれる相手は別に彼でなくてもいいのかもしれないのに、彼が一番事情をわかってくれているからという理由で寄りかかろうとしている。
最低だ。わかっている。でも、胸が苦しい。
膝を抱えていたらいつのまにかうとうとしてしまったらしい。ひどく嫌な夢を見て叫び声を上げそうになったところで、肩を揺すられた。
「須藤君……須藤君」
目を開けると、佐伯さんの驚いた顔が見えた。反射的にその腕を掴んだ。悪夢の中から這い出してきた嫌なものが、追ってきそうで怖かったのだ。
彼は目を見開くと震えている僕の手を上から包み込み、優しく微笑んだ。
「どうしたんだ。怖い夢でも見たのか?」
二の腕を取られ抱えるように立たせられる。
「こんなとこに座り込んで風邪でもひいたらどうするんだ。やっぱり鍵は受け取らないでおくべきだったな」
佐伯さんは笑って、僕の腕をしっかりと取ったまま自動扉を開けエレベーターに乗り込む。暖房の効いた建物の中は暖かかったが、体の芯はまだ冷えている。無言のままでいる僕を見つめる気遣わしげなまなざしが、冷たくなった体を癒し、ぬくもりで包んでくれる。
「今日は君に振られたから仕事を片付けてきたけど、待ってると知ってたらもっと早く帰って来るんだった」
人気のない廊下を恋人同士みたいに腕を取られて歩く。部屋の鍵を開けるときですら、彼は僕の腕を離さない。
「さぁ入って」
肩を抱かれるようにして中に入った。
「どこかその辺に座って。何か飲む?」
「聞かないんですか。どうしたのかって」
自分のものとは思えないほど重い声だった。まるで今にも死にそうだ。彼は綺麗な瞳を心配そうに見開くと繊細な指で頬に触れて来た。
「聞いてもいいのか? どうしたんだ」
「湯沢が……彼女にプロポーズしたそうです。きっと、もうすぐ結婚する」
眉を寄せた彼の唇が一瞬開かれたが、言葉は出なかった。代わりに差し伸べられる手から、僕は一歩身を引いた。勇気を出して正面から彼を見返す。
「僕は、最低なんです」
何か反論しかける彼を遮り言い切った。
「佐伯さんのこと、別に好きなわけじゃない。でもすがりたくなると、こうして甘えにくるんだ。あなたの好意を利用して、自分だけ楽になろうとしてる」
「それでいいと俺が言ったんだ。現にこうして君が来てくれて、俺は嬉しい。君が深く傷付いてるときに、そんなふうに思う俺こそ最低だろう」
「本当に、いいんですか? 僕はこないだのセックスがよかったから、それでまたあなたと寝たいと思ってるだけかもしれないんですよ? この先あなたを利用するだけして、好きになれる保証だってないのに?」
「いいよ」
彼の返事にはまったく迷いがなかった。深い包容力に満ちた瞳が全身を包み込んでくる。カサカサに乾いていた胸が震えた。
「何も期待しないと言っただろう? 俺は最初からそれでいいと思ってる。だから、泣かないでくれ」
頬が濡れていることに、言われて初めて気付いた。大の男がこんなことで泣いてみっともないと思ったが、涙は止めようと思って止められるものでもなかった。
「そんなの……馬鹿みたいですよ?」
「馬鹿でいい」
再び差し伸べられる腕に、今度は素直に身をまかせた。佐伯さんの胸は広くて温かかった。優しい指が濡れた頬をぬぐってくれる。
「ごめんさい。でも……今晩だけでも、忘れていたい」
抱いて欲しいと素直に言えなくて、精一杯の勇気でそれだけ言って彼の肩に顔を伏せた。背中に回された腕に力がこめられ、俯いた顎を持ち上げられた。口付けられると不思議と安堵し、僕はそのままおもむろに瞳を閉じた。
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