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第6話
◇◇◇
一度返した合鍵は僕の手にまた戻され、その後も僕は週末になると、決まって佐伯さんのマンションに通った。
十年来の片想いの終焉の余波は、それほど簡単には静まってくれなかった。なんとか諦められそうだと思っても隆の幸せ一杯の顔を見るたびに落ち込んで、平常心を保てなくなる。そのたびにどうしようもない胸の痛みに耐えられず、佐伯さんの腕の中に逃げ込む。
彼は相変わらずセックスのたびに、僕の視界をスカーフタイで覆う。そして彼自身は達するときですら声一つ立てない。僕はいまだにその最中には彼と隆の区別がつかなくなってしまう。絶頂を迎えるときに呼んでしまうのは、まだ好きな男の名前だ。そのたびに彼が傷付いているだろうことはわかっているのに、どうすることもできないでいる。
ただ彼がそうして相手をしてくれるおかげで、僕の精神がかろうじてバランスを保っていられることは確かだった。もし一人だったら、下手をするとうつになっていたかもしれない。
感謝している。申し訳なく思っている。隆ではなく彼を愛せればどんなにいいだろうと思う。それでも人の気持は、そう簡単には変えられるものではなかった。
隆にもしょっちゅう言われるのだが、僕にはちょっと抜けているところがある。ときどき重要なことがポッカリと記憶から欠け落ちていたりする。基本的に頭の回転が緩めで仕事ぶりもトロいのでミスをしないように気をつけてはいるのだが、ぼんやり考え事にふけってしまうと他の引き出しが開けられなくなり、どうしても落ちが出てしまうのだ。
そんな悪い癖が出て、土曜ののどかな昼下がりだというのに僕は会社に向かって急いでいた。昨日の帰り際に処理していた重要書類を、間違ってシュレッダー行きの箱に入れてしまわなかったか急に心配になったのだ。いくらなんでもそんなはずないとは思っても、きちんとデスクにしまい鍵をかけた記憶がない。外出先でちゃんと家の戸締りをしてきたか、気になり始めるのと同じ感覚だ。そういうのは得てして、飛んで帰るとしっかり施錠されていることが多いものだが、自分の目で確認するまでは気持が落ち着かない。
今日は本当にいい天気だ。町行く人は皆幸せそうな顔でのんびりと歩いている。蒼ざめた顔で走っているのは僕だけでさすがに気が滅入る。もっとも僕の場合、一人の休日はほとんど読書やDVD鑑賞に費やすだけだから、こうして外に出て日に当たるのもたまにはいいのかもしれない。
休日の本社ビルは、正面入口は閉まっているが裏口は開いている。警備員さんに社員証を提示して中に入る規則だ。
そこでまた、僕は重なる自分の大失敗に気付いた。社員証を忘れたのだ。間抜け加減に泣きそうになったが、これからまた駅三つ分電車に乗って部屋まで帰るのはさすがにめんどうだった。
「社員証をお願いします」
おろおろとポケットを探っている僕に、なじみのない顔の警備員さんは不審な視線を向けてくる。
「すみません、忘れちゃったみたいで。でもあの、ここの社員であることには間違いないです。総務課の須藤潤也と言います。確かめていただければ……」
「そうは言っても規則ですからねぇ」
警備員さんが眉を寄せ拒むのも無理はない。着古したロングTシャツにジーンズ姿の僕は、どう見ても真っ当な社会人には見えない。私服だといまだに学生に見られることもあるのだ。
仕方ない、一度戻って社員証を取ってくるしかないかと嘆息したとき、
「須藤君じゃないか。どうしたの?」
天の助けの声がした。振り向くと私服の佐伯さんが立っていた。薄手のライダースジャケットとVカットの黒Tシャツにスリムのデニムパンツ姿は、あまりにも決まっていて一瞬見惚れてしまう。
「こちらは係長さんのお知り合いで?」
警備員さんの強面が一変する。
「ええ、総務の須藤君ですよ。どうかしましたか?」
「いえね、社員証を持ってらっしゃらなかったんで、お通しするにも困ってたとこだったんですよ。どうもすみませんでしたね。どうぞどうぞ」
警備員さんは、一転した愛想のいい笑顔で僕を通してくれた。
「川原さんもいつもお疲れ様。はい、他社の新製品」
佐伯さんが笑いながら差し出したライバル社の缶コーヒーを、警備員さんは恐縮して受け取った。
「行こう」
先立って行く背中をあわてて追いかける。
「あの警備員さんは土日のシフトの人だから、君の顔に見覚えがなかったんだろうね。堪忍してあげて」
「いえ、僕が社員証を忘れたのが悪いので。助かりました。ありがとうございました」
礼を言いながら、ふと思う。土日の警備員さんに顔パスということは、佐伯さんはそれだけ頻繁に休日出勤しているということなのだろうか。ちなみに昨夜は僕の課の飲み会があって、彼のマンションへは行っていない。
「今日は何か忘れ物?」
「あ、はい、えっと……ちょっと気になったことがあって。佐伯さんは?」
「来週のプレゼンの準備でちょっとね。君の用事はすぐ終わる?」
「1分で終わります」
「じゃあ上で待ってるよ。……大丈夫、今日はうちのフロア、俺以外誰もいないから」
一瞬躊躇した僕に微笑みかけ手を振って、佐伯さんは階段の方に歩いて行った。
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