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第7話
気になっていた書類は結局ちゃんと机の中にしまってあった。そんなことだろうとは思ったが、とりあえずこの目で確認して一安心というところだ。
階段を5階まで上がって開発企画課に足を向ける。平日は忙しない緊張感で満たされ息苦しいほどのフロアも、まったく人気がないと別の場所のように感じられる。
佐伯さんはミーティング用の仕切られた小スペースで、昼食を取っていた。さっき買ってきたのだろう、コンビニのおにぎりだ。僕が入っていくと笑顔で隣の席の椅子を引いてくれた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
「昼飯は?」
矢も盾もたまらずすっ飛んで来たので、食事のことなんか全然頭になかった。
「あ、大丈夫です」
言ってはみたけれども安心したせいか、急に空腹感を覚え始める。
卑しい顔になってしまっていただろうか。佐伯さんはクスッと笑って袋の中から取り出したおにぎりを差し出してきた。
「食っていいよ」
「でも、佐伯さんのが……」
「いいから」
促され、控えめに手に取ったおにぎりを見て相当引いた。ラベルには『新発売! 日伊合体特製カルボナーラおにぎり』と書いてある。コメントすべき言葉を失う。
「ん、気に入らなかったか? じゃ俺の食ってるこの、日露合体ボルシチおにぎりの方が……」
「い、いえっ、こっち、いただきます」
まぁマッチングに難ありとはいえ、一応は食べ物だ。とりあえず死にはしないだろう。
意を決してシートを剥ぎ取り恐る恐る一口かじる。濃厚なホワイトソースと香ばしい黒胡椒が海苔の和風味とあいまって、なんとも珍妙な味だ。
「うまい?」
「……微妙です」それ以外何とも答えようがなかった。
「佐伯さんのは?」
「うまくないな」と彼も眉を寄せ、最後の一口を飲み下す。
「どうしてこれ選んだんですか?」
「最近の十代の若者の味覚ってのはわからんからなぁ。一応コンビニの新製品は試してるんだよ。このメーカーだってこれはいけると踏んで出してるんだろうけどな」
それにしてもこれはひどい、とつぶやき佐伯さんは首を振る。こういうちょっとしたことでも、日頃から仕事を意識しているのはやはりすごいと思う。
「今日は失敗したけど次はしないよ。君の好きなおにぎりのネタは何?」
「普通に、おかかとツナマヨ」
「覚えておこう」
一生懸命に咀嚼する僕を見て笑いながらそう言うと、ちょっと待っててと言って彼は席を立つ。数分姿を消していたが、湯気を立てる紙コップを持って戻ってきた。
「うちの新製品、インスタントのハーブティーだ」
天下無敵の佐伯晃一係長に手ずからお茶を入れさせたのは、社内でも僕だけだろう。目の前に置かれたコップからいい香りが漂ってくる。礼を言うのもそこそこに、僕は珍妙な味のおにぎりをそのお茶で無理矢理流し込む。
「おいしい」思わず感想が漏れた。
「これ、インスタントって?」
「ハーブティーの成分を粉末状にしてスティックにしてみた。わざわざ葉っぱを入れてお湯を注いで少し待つっていう手間がいらない。手軽に本物の香りを楽しめるのがポイントだ」
「葉っぱから入れたのと変わらないです」
「よかった。合格だな」
そらさず注がれるまなざしが妙に恥かしくて、僕はお茶を飲むのに没頭する振りで俯く。
「仕事、忙しいんですね」
沈黙が落ち着かなくて話題を振った。
「まぁそれほどでもないよ。昨日は君が来てくれなかったんで拗ねて、しょうがないから雑務でも片付けるか、と」
「す、すみません」
「冗談だよ。プレゼンの準備が整ってないのは確かだからね。それに君が来ないのはそれだけ精神的に安定してるってことでもあるし、むしろいいことだ」
本当は毎週でも行きたいのだがあまり彼に寄りかかりすぎてはまずいと思い、最近は我慢するようにしているのだ。それにもしかしたら僕が行かなければ、彼はこうして休日に自分の仕事が片付けられるのかもしれない。金曜の夜に僕が行くと、土曜と下手すると日曜までダラダラと僕に付き合うことになる。
佐伯さんが有能なのは確かだろう。でも底辺にこの努力があるから、彼は常にトップの実績を上げていられるのだと思う。すべてにおいて完璧で、自分とは素材からして違う天才肌なのだろうと思っていた彼へのイメージが少し変わった気がした。
顔を上げると、佐伯さんはまだ僕を見つめていた。泣きたくなるくらい優しい瞳で。
「そこの、窓からさ」
ふと、彼が僕のすぐ後ろの窓を指差した。思わず振り向く。
「下を見ると、君が見えた」
身を乗り出し覗き込むと、その下は中庭だった。楡の木の下の白いベンチは僕の秘かな気に入りスポットだ。3時休憩になると飲み物を持って、そこに一息つきに行く。このフロアから丸見えだったなんて知らなかった。
「仕事は好きだ。どんなに忙しくても苦にならない。でも俺も鉄人じゃないから、いい加減嫌になることもある。何もかも放り出して逃げたくなることだってある。そんなときは、3時にその窓から下を見るんだ」
彼が一瞬深く瞼を閉じる。休憩中の僕の残像を追い求めるように。
「君が座ってる。両手でペットボトルを持って、空を見上げてる。なんだかそこだけゆっくりと時間が流れてるみたいで、俺もすごく優しい気分になれる。君を見て癒されて、また現実に戻っていける」
ボーッとしているだらしない姿を見られていたのかと思うと頬が熱くなった。しかも彼が僕のことをまさかそんな風に見ていたとは。
「君が総務課にいることを突き止めて、総務課長に用がある振りをして顔を見に行った。君は覚えてないかもしれないけど、目が合った瞬間同類だってことはわかったよ」
覚えている。社内の有名人である佐伯係長は、僕だけじゃなく課全員の視線を集めていた。課長のところに来た彼とどうしたわけか偶然目が合ったとき、きっと僕は隠しようもなくうっとりと見惚れてしまったと思う。他の女性社員と同じ意味合いを込めて。
「嫌なヤツだと思われるだろうが、俺には自信があった。君もゲイだとわかった瞬間に、もう自分のものにしたも同然だと思って舞い上がったよ。でも、君はまったく俺を見てくれなかった。君の目はいつも、他の誰かを見つめていた。つらそうに、あのベンチから空を見上げながら、どこかにいる誰かだけを見ていたんだ」
窓の外に向けられた綺麗な目が、切なげに細められる。
胸が引き絞られるように痛んだ。この人は一体、いつから僕を見ていたのだろう。いつからこれほど深い想いを注いでいてくれたのだろう。僕はそれをずっと無視し、今でも彼を傷付け続けている。
「悪い。こんな話されても困るよな。忘れて」
何事もなかったようにいつもの微笑で流される。
忘れることなんかできない。彼の気持を踏み付けにしていることを、僕はいつでも胸に刻んでいなくてはいけないのだ。
「空が……綺麗なんですよ」
胸が詰まり、何と言っていいかわからなくて、俯いたままそれだけ言った。
「え?」
「あの中庭から、空が綺麗に見えるんです。高くて、真っ青で」
「じゃあ、行ってみるか」
立ち上がった彼を、僕は驚いて見上げた。
「え、でも仕事は?」
「もう終わりだ。いい天気だし、せっかく君と一緒なのに仕事するなんて馬鹿げてる。行こう」
窓の外は晴れ渡っている。きっと雲一つない冴えた空が鮮やかに見えるだろう。
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