10 / 14
第10話
疲れた現代人にはいいヒーリングになると評判の、神秘的な深海を撮った3Dのネイチャー・ドキュメンタリー映画を観て外に出ると、そろそろ夕暮れの時刻だった。
「佐伯さん、途中で寝ちゃってましたね」
彼は面目なさそうに苦笑した。
「イルカが泳いでるあたりであまりにも気持ちよくなって。3Dグラスかけてたのに、俺が寝てるのよくわかったな」
「わかりますよ。でもゆっくり休めたのならよかった。僕の選択は正しかったですね」
「感謝してるよ。次はお礼に俺のお勧め映画に招待するから」
「あ、それは結構です」と即答する。
「つれないなぁ」
その返事を予想していたのか、彼は声を立てて笑った。僕も笑う。
一度彼のイチオシという映画に前置きもなしに連れて行かれたら、白目を剥いた女の怨霊が長い黒髪を振り乱して何の関係もない人達を次々呪い殺していくというとんでもない内容で、僕はほとんど観ていられなかった。ホラーが大好きという彼の意外な趣味をその後聞かされて、先に聞いておけばよかったと後悔した。会社ではオフレコの一面だ。
2ヶ月つき合ってきて気が付いてみると、僕は彼のもしかしたら誰も知らない顔を結構知っている。小動物が好きで保護犬や猫の譲渡会は必ず覗いてしまうとか、横断歩道を渡ろうとしているお年寄りを見ると飛んでいって手を貸さずにはいられないとか、料理はあまり得意じゃなくて朝食の目玉焼きだって焦がしてしまうとか。
誰も知らない佐伯晃一の顔を知っている。そして、もっと知りたいと思うのはなぜなのだろう。
彼のそばにいるのは楽だ。気負いなく自然体でいられる。触れられると気持ちがよくて、ずっと抱いていてほしいと思う。渇望に身を焦がすくらい苦しかった隆への気持ちとは違うけれど、失いたくないと感じる心地いい居場所。
「……行くか?」
何か話しかけられた。ぼんやりしていて聞いていなかった。
「え……?」
「これからどうするって。メシでも食いに行くか?」
足を止めて、彼を見た。僕にとってまだどういう存在なのかはっきりと言葉にできない、それでも手放したくないと感じている人を見た。
歩道橋の真ん中だ。大勢の人が忙しげに僕らを追い越していく。
急に立ち止まった僕に気付き、彼が振り向いた。その怪訝な瞳の中に見えるのは、なぜだろう、わずかな不安だ。
「うちに来る……?」
声が出た。鼓動は高鳴っていたがちゃんと言えた。
微かな驚きに目を見開いた彼に、僕は繰り返す。
「今夜は、僕の部屋に泊まる?」
これまでは僕が彼のマンションに行くのが常で、自室に招いたことはない。彼はセフレで体だけの関係だから、プライベートスペースに入れる存在ではない。お互いにそういうスタンスだった。
彼の方も当然、僕の部屋に行きたいと言い出したことはない。僕のことをもっと知りたいとアプローチしてきたこともない。僕が必要とするときだけそばにいて、彼からは何も期待しない。邪魔しない。その位置をずっと守り通してくれていた。
「いいのか?」
そう言った彼の声は、らしくなくどこか自信なげだ。 僕も自信がない。自分の今の気持をちゃんと伝えられるかどうかわからない。
それでも、伝えたい。伝えて新しい一歩を踏み出したい。これからは湯沢隆の面影を頭から追い出して、佐伯晃一本人と愛し合いたい。
「うん」
頷きそのまま俯いた僕の手を、彼の手が一瞬取った。その歩道橋はあまりにも人通りが多くて、それは本当に1秒にも満たない触れ合いだったが、ぬくもりは確かに胸に伝わった。
ともだちにシェアしよう!