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第11話
部屋の鍵を開け彼を招き入れると、何だか急に酔いが覚めたみたいに恥ずかしさが込み上げてきた。まるで『初めて』をあげるつもりで彼氏を部屋に招いた女子高生みたいだ。
「佐伯さんとこみたいに広くなくてごめんなさい。あ、コーヒーでもいれますから、そのへん座っててください」
相手の顔をまともに見られなくて、僕はなんだかせかせかと背を向け部屋に入った。
「それともアルコールがいいですか? 我が社のビールしかないけど」
沈黙が息苦しくてしゃべり続ける。キッチンに逃げようとした腕が引かれた。よろけて、背中から彼の胸に倒れ込む。心臓の鼓動は部屋中に響き渡りそうなほど打っている。
「潤也」
耳元で名前を呼ばれた。名前の方で呼ばれたのは初めてだった。胸がもうどうしようもないほど高鳴ってくる。
「本当にいいのか。君はまだ、湯沢君のことを諦め切れないでいるんだろう?」
不思議だ。高鳴る鼓動は僕のものだけじゃない。背中から伝わるのは、彼の鼓動だ。彼の方も、同じように胸を高鳴らせているのだ。
「諦めてるよ。少なくとも、諦めようとしてる。でなきゃ、佐伯さんを部屋に呼んだりしない」
「俺は、期待していいのか? これからは俺の方を見てくれると、思ってもいいのか?」
「……うん」
頷いて、体を反転させ思い切って彼と向かい合った。顔を見て驚いた。切なげに細められた瞳、喜びを隠せない口元。こんなに嬉しそうな彼の顔を見るのは初めてだった。
急に、泣きたくなった。これまで自分が彼にどんな思いをさせていたのか、その顔を見てわかってしまったからだ。
「今まで、ごめんなさい……」
声を詰まらせ、背中に手を回した。佐伯さんは少し笑って抱き返してくれる。
「また……何謝ってるんだ」
僕は本当に馬鹿だった。もっと早くこうしていればよかった。
顎を持ち上げられ、僕は彼の口付けを受け入れるべく瞳を閉じた。
ふいに、佐伯さんが僕を突き放すようにして距離を取った。同時に荒々しい足音とともに、鍵をかけていなかったドアが開かれる。
「潤也ー、邪魔するぞ」
ノックもなしで入ってきた隆は、茫然と立ち尽くしている僕達を見ても驚かず、ちょっと目を見開いただけだった。
「あれ? 佐伯さんも来てたんだ。どもっ」
「た、隆、来るなら電話くらいしろよ」
先客がいるのも構わず我が物顔で上がり込んで部屋の真ん中にどっかと座り込む親友に、僕は非難の声を上げる。
「何言ってんだよ、水くさい。おまえの部屋は俺の部屋だろ?」
すぐに追い返すべきだと思った。でもこれまでの隆との絆がそれをためらわせる。僕はいつでも隆を歓迎し、彼が来たいときに来させて拒んだことなどなかったのだから。
「なぁ佐伯さん、俺邪魔?」
「まさか。そんなわけないだろう」
彼の顔を見た。目が合う。隠せない当惑。
「潤也、俺はもう結婚なんかやめるぞ。やってられっかってんだよ!」
どうやら少し酒が入っているらしい。とりあえず乱入者を挟んで座った僕達のぎこちない雰囲気にも気付かずに、隆は管を巻く。
「えっ? 一体どうし……」
「理恵の親父さんが、娘の相手は堅気のサラリーマンじゃなきゃ許さんとか言いやがってよー。あの頑固ジジィ、喫茶店商売は堅気じゃねぇってのか? 頭きたから大喧嘩して帰ってきちまったよ」
「そんな……」
「理恵のヤツまで親父の剣幕にビビッて引け腰になるし。辛気臭い顔見てるのも腹が立つんで、家出てきちまった。しばらくここ泊めてくれよな。いいだろ?」
「そ、それは……」
断らないと、ととっさに思うが言葉が出ない。今まで僕は隆の望みを断ったことはない。ましてや泊めろと言われれば、喜びこそすれ躊躇したことなんかなかったのだ。
「ねぇ佐伯さん、どう思います? そりゃあ俺は水商売ですけど、嫁一人食わせてくくらい甲斐性ありますよ。男一匹体張って店やってんだからさぁ」
「それはそうだよ。むしろ湯沢君なんか一国一城の主なんだから立派なもんさ。俺達勤め人はこのご時世、いつクビを切られてもおかしくないんだから」
佐伯さんはいつもの彼に戻って、そつのない受け答えをしている。余所向けの笑顔だ。
それでも僕にはわかる。その硬い表情を見ただけで、彼の心中の動揺がわかってしまう。
「さすが、いいこと言ってくれるよ! もう俺は店だけあればいい! 女はいらん! 潤也ぁ、こうなったら、一生おまえとつるんで生きるしかないかもしれんなぁ」
「た、隆……」
しなだれかかってくる親友の体を押しのけようとするが、力ではかなわない。
「おまえだけは俺を裏切らないもんな。これまでもこれからも、おまえは俺の最高の理解者だよ」
佐伯さんが立ち上がった。
「潤也君、俺はそろそろ帰るよ」
「えっ?」
「マスター、また来週ランチ行くから。店の繁栄に多少なりとも貢献させてもらうよ」
「ありがとうございまーす! お待ちしてます!」
「佐伯さん、待っ……!」
振り向かず出ていく後ろ姿。迷いのない足音が遠ざかっていく。
「あれ? ところでおまえって、佐伯さんと部屋に出入りするほど親しかったのか?」
隆が意外そうな顔で僕を見た。
ずっと好きだった相手。今でも好きな相手。結婚をやめると言っている。一生隣にいてくれると言っている。
それでも今僕の頭を占領しているのは、さっき見た佐伯さんの嬉しそうな笑顔だ。
「隆……おまえ理恵さんとこに帰れよ」
いつもと違う僕の声の調子に気付いたのか、隆が瞳を見開いた。驚いている。当然だ。嫌われるのを恐れていた僕はいつでも隆を甘やかし受け入れて、突き放したことなんか一度もなかったのだから。
「理恵さんともう一度ちゃんと話し合ってみろよ。好きなんだろ? 結婚したいんだろ? だったら2人して、お父さんに理解してもらえるように努力しなきゃ駄目じゃないか」
「潤也……?」
「おまえの気持ちは反対されたからって諦められるようなもんだったのか? そうじゃないだろ? 泣き寝入りなんておまえらしくないよ。ぶつかってみろよ。人生最大の勝負どころだぞ? 乗り越えないでどうするんだよ」
自分でも驚いていた。こんなにはっきりと他人に意見したのは初めてだ。それも、いつもどこかで一歩引いていた強い親友に向かって。
隆は唖然と僕を見つめていたが、しばしの沈黙を経て口を開く。
「今、初めて気付いた。俺、これまで随分おまえに甘えてたよな。ここに来れば慰めてもらえるって、どっかで思ってたみたいだわ」
「僕がちゃんと言うべきことを言ってやれなかっただけだ。おまえのせいじゃないよ」
「なんか目ぇ覚めたよ。おまえの言うとおりだ。逃げるのは俺らしくねぇや。俺の嫁は理恵しかいない。当たって砕けろの精神で、何度だって特攻してやる!」
そう言って拳を握る隆には、いつもの前向きな笑顔が戻っている。その顔を見て、僕は安心している。彼が理恵さんのところに戻って行こうとしているのに、これでよかったと思っている。以前なら胸が痛んだはずなのに、今は笑って送り出すことができる。
「早く行けよ。理恵さんきっと心配してる」
「おう、そうだな」
腰を上げ玄関先で靴を履きながら、親友は振り向いた。
「潤也、おまえ何かあったか?」
「え?」
「俺にあんなにズバッと言うなんてさ。俺マジなとこ、おまえ俺がいてやんねぇとちょっと頼りねぇみたいに思ってたとこあるけど、もう違うんだな」
そう言って見せた笑顔はどことなく寂しげに見えたがそれはほんの一瞬で、僕が返事をする前に隆は外に飛び出していった。
すぐに、僕も飛び出す。隆の走っていった駅の反対の方ではなく、駅の方へ。
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