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第4話 目に映るもの
恋人がおかしい。
ここ数週間、永喜の様子が変だ。
わかりやすくおかしくて、おかしいことを隠そうともしていない。
心変わりしたわけじゃない。
それは分かる。
俺、弘重万葉は『のび太かお前は』と家族に言われているように、清潔感はあるものの洒落っ気は全くない黒髪に、黒縁の眼鏡をかけていて、家でできる仕事をしているものだから、基本服にもこだわらない。
可もなく不可もない、どっちかというと枯れた外見。
対して恋人の安田永喜は、見た目がいい。
家業のパン屋を併設されたカフェを手伝っている永喜の髪は、仕事中に結わえてしまえる長さで少し色を抜いてきちんと整えられている。
給仕とはいえ人の前に立つこともあるからと、ほどほどに自分に手を入れている。
はっと感心するほど目立つ洒落男ではないけれど、そこそこに見栄えのする外見。
俺以外の誰かが、永喜に惚れたとしたって不思議はないし、粉をかけることがあったっておかしなことじゃない。
それでも、今のところそんな兆候はない。
永喜本人は今までと変わらず、甘やかす勢いで俺を大事にしてくれている。
だけどさすがに、これは変だ。
甘やかして甘えさせてくれるのに、色っぽいことにはならない。
全くならないかっていうとそんなこともなくて、そういう空気になりかけたりもするけど、流されることはないって感じ。
何度も続けてお預けともなると、恋人の態度がおかしいってことくらい、鈍い俺でもわかる。
俺が仕掛ける。
永喜が乗っかる。
いい雰囲気になる。
なのに、お預け。
何回繰り返しただろう。
嫌われたわけじゃない。
心変わりされたわけじゃない。
俺が男だから無理だったとか? でもそんなの、今更な話。
手はつなぐ。
色っぽいことにならなければ、ボディタッチはある。
キスも。
なのに。
なあ、何で?
どうしたらいいのかわからなくて、俺は途方に暮れる。
俺の仕事は一人でできるし基本的には単純作業の繰り返し。
作るモノを決めて型を取った後は、削って磨いて整える。
それだけの作業だけど、気がそぞろの時は危険。
うっかりミスが怪我につながるっていうのは、イヤって程身にしみている。
それで周囲に迷惑をかけたから。
わかっているから今日は休み。
縁側に座布団を持ってきて座る。
普段仕事の休憩の時には、座布団は持ってこない。
座り込んでしまうのがわかっているから。
今日は仕事をしないと決めたので、これでいい。
窓を開けて、綿入半纏を着て、マフラーを巻く。
地上に風が吹いている気はしないけど、上空は荒れた天気らしい。
次々と雲が流れていて、日溜まりが定位置に収まってくれない。
俺は縁側に座って、庭を眺める。
永喜との付き合いは、長い。
恋人になってからはそうでもないけど、知り合ってからなら十年を越えた。
小学校の時に、永喜が転入してきてからの付き合いだ。
クラスは違ったけど、小学校の陸上チームで一緒に走った。
中学も同じ。
いつからかはわからないしどんなふうにどれくらい、なんてこともわからないけど、中学生の終わりごろには、永喜は俺の従兄に憧れていた。
高校に入ったら先輩が後輩の指導をしてくれる。
それなら是非従兄と親しくなりたいと、その従兄を追いかけて、俺の進学先とは別の従兄の母校に進学した。
大学も別だった。
高校以降はほとんど会うこともなくて、卒業間近になってから、偶然再会した。
『しゅうさん?』
人混みの中でかけられた声を、覚えている。
嬉しいけどそんなはずないって、戸惑いを含んだ声。
俺と従兄の外見は割と似ている。
中学生の頃の俺はまだ眼鏡をかけてなくて、従兄は眼鏡がトレードマークだった。
遠くから見るときは眼鏡の有無で見分けると親戚に笑われたくらい、似ているらしい。
久しぶりに会ったその時、永喜は眼鏡をかけた俺を、従兄と間違えて呼んだ。
ずっと永喜が憧れていた人だしさ。
ちょっと仲が良かったくらいの俺なんかより、直に教わった先輩の方が記憶に残ってるんだってことくらい、わかってる。
なんとなく会うようになっても、心惹かれるようになっていっても。
俺の中にずっとわだかまりが残った。
永喜が見ているのは誰なんだろう。
好きだと言った。
好きだと言って貰えた。
できるだけ俺のそばにいたいんだと言ってくれた。
自分にも本業があるのに、空いた時間は俺の家に来て俺の仕事をフォローしてくれてる。
愛されてる。
甘やかされてる。
それは充分にわかっている。
それでも、どこかに残っている恐怖。
俺はできるだけ永喜に眼鏡をかけているところを見せないようにした。
眼鏡をかけないようにしていて、よく見えないのに裸眼のまま作業した。
そのせいで起こした作業中の小さな事故は、俺から右目の視力を奪った。
残った視力はゼロではない。
だけど左目に比べて格段に悪くなってしまった。
今度は眼鏡をかけずに生活することが不可能になった。
自業自得。
自分が悪いってわかってる。
不可能だと危険だと言われていても、眼鏡をかけるのが怖かった。
ほぼ片目の世界は裸眼の世界より不安定で、それもまた恐怖だった。
自分の感じとる視界と実際にモノがある場所にはほんの少しだけど祖語があって、いろんなところ――人や壁を含めて、いろんなところにぶつかることが増えた。
そういう不安定さよりも、永喜の気持ちと自分の気持ちに自信が持てなくて、どうしたらいいのかわからなくなっていったんだ。
実生活に支障が出始めても、俺は怖くて眼鏡がかけられなくて。
立ちすくんでいる俺に永喜が言った。
『眼鏡の君が好き』
だと。
俺はその言葉にしがみついている。
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