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第8話 案外優しいのかも。

 俺が目を覚ますと、青空を背景に、桜の枝が緑色の葉を付けて風に揺れていた。  巨木なだけに枝葉と俺との距離は遠い。  それにしても、なんだかすごく気持ちの良い夢を見てしまったように思うんだけど…。  全然思い出せない。  考えれば考えるほど、白いもやの中に隠れてしまう。  俺の目の前に、風に運ばれて桜の葉が舞い降りてきた。俺は手を伸ばしてその葉をキャッチする。  だけど、不思議だ。  今は9月だから桜は咲かないけれど、緑の葉っぱって言うのも変だよな。普通は枯れて落ち葉になる頃なんじゃないだろうか?。こういう種類なのか?。 「グルル。」 「え!、うっわ。」  獣の声が背後からして飛び起きる。  銀色の大きな野犬だ!。  どうやら俺は、この野犬のおなかを枕に寝ていたらしい。夢なんてぶっ飛ぶ勢いの現実が、俺のボケッとした脳みそを駆け巡った。  俺は少しでも野犬と距離を取りたくて前方に駆け出そうとしたけれど、地面につまずき転んでしまった。  恐る恐る振り向くと、あの銀色の大きな野犬は桜の巨木の根本で、まだ腹這いのままこちらを見ている。 「ひっ、こっちくるなっ!」  野犬に背後をとられるのが怖くて、後ずさる。が、腰が抜けているのか、うまく態勢が保てなくて、ますます焦る。 「や!、こっちくんな。」  俺は少しでも距離を離そうと、足で地面を蹴り上げ、尻ばいで後ずさる。 「グルル。」  野犬は動かず、俺に興味などないかのように俺から視線をはずすと、伏せた姿勢のまま目を閉じ、寝の態勢をとった。 「なんだよ。追いかけて来ないのか?。もう、俺を食べるのはやめたのか?」  俺の問いかけに、目を閉じたまま反応しない。  野犬のしれっとした態度を見ていると、怖がってあたふたしている自分がバカみたいに思えてくる。  まだ、野犬のことは怖い。急に襲ってくるかもしれないと言う不安はある。 「へっくしっ。」  俺がくしゃみをすると、野犬が頭をもちあげてこちらを見た。  俺のバカっ。野犬を刺激するようなくしゃみなんかしてる場合ではないだろう。 「あ、ごめん、へ、へっくしっ。」  ちょっと寒いのかも?。  俺のインナーは奴に破られてボロボロだけど、Tシャツは無事でそのまま着ている。  そう言えば、こいつにべろべろ舐められて、濡れてたんだった。あれから時間がどれくらいたったんだろう。もう、濡れてないみたいだけど。  こいつのせいで、実は俺すごく臭いんじゃないのか?  俺は肩口辺りの匂いを嗅いでみる。  う、やっぱりちょっと匂うんじゃ?。  臭くはないし、さくら組の陽くんちの柔軟剤みたいで、俺は好きな匂いなんだけど、舐められた匂いかと思うと、複雑だ。  そもそも、この匂いを嗅いだときから、俺って身体の調子も思考もおかしくなったように思う。  今は熱くも酔ったみたいにもならないみたいだけど…。 「うげ。」  な、なんと下半身も濡れている。  なんで?、俺、恐怖のあまり、し、失禁してしまったんだろうか?。  恥ずかしすぎる結論に、俺が内心パニクっているのに、こいつはまた頭を戻して、寝の態勢に入る。 「なんでだよ。あんなに威嚇しながら襲って来たじゃないか。」  俺は、野犬に話しかける。 「もしかして、お前、ここら辺が縄張りの主なのか?」 「俺が縄張りに勝手に入って荒らしたから、怒ってたのか?」 「ごめんな。  俺、わざとここにいた訳じゃないんだよ。」  奴は目を閉じたまま動かない。耳だけがピクピクしているから、たぶん起きてはいるんだろう。 「気がついたらここに居たんだ。  桜の木のことだって、俺がやったわけではないけれど、ちゃんと事実を伝えようとして、山をおりる途中だったんだ。」 「でも、どこに行ったら良いかも分からなくて…。  ひ、一人は不安だった、し…。  は、早く助けに来てくれる人を、人を呼び、呼びたかった、んだよ…。」  俺は話していている間に、情けなくなり、涙が出てきた。 「でも、一人で、がんばっ、がんばろうと、し、して、たのに。  お、おまえが、あ、あんなこと、す、するからぁ。」  どうせ犬しか見ている人は居ないから、我慢しないで泣いてしまおう。 「どうすんだよ、パンツまで濡れて。  く、臭くなって発見されたら、ゆ、雄吾、雄吾たちに、わら、笑われて。  う、う、雄吾と蒼士に会いたい。  お、おまえなんか嫌いだ。バカ犬がぁ。」  俺は、本格的に悲しくなり、しゃくりあげて泣いた。  どうせ俺は情けない失禁野郎だよ。  もう、涙や鼻水を垂れ流しても、これ以上の恥はない。 「グルル。」  いつの間にか、野犬が近づいていたらしく、俺の目をベロリと舐めた。  あの時のような、ねっとりしたものではなく、その感触は優しい。  まるで俺の涙を舐め取ってくれるかのように、俺の目と頬を舐める。 「お、おまえぇ。俺をなぐさべでぐれるのかぁ?」  俺は鼻水でうまく喋れないながら、野犬の首もとの銀色の毛をつかんで立ち上がると、そのモフモフした毛皮に顔を埋めようとした。  が、野犬に避けられ、俺はそのまま地面に倒れる。 「お、おばえぇ、鼻水付けられだく、ながったんだろう。」  俺がそういうと、野犬はそっぽを向き、また桜の木の根本に戻ると腹這いになり、寝の態勢をとる。  なんだよ、そっけないなぁ。  でも、こいつのお陰で、おれの涙は引っ込んでくれた。

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