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第9話 交渉してみる
野犬のお陰で少し元気になった俺は、とりあえず着替えをするべく、野犬に話しかけてみる。
「ねぇ、俺の着替えやウェットタオルが、車の中にあるんだよ。」
奴は動かない。でも耳はピクピクしてる。
「桜の木に登っても良いかな?。」
野犬は相変わらず目を閉じているけれど、フンスと鼻から息を抜いた。その絶妙なタイミングに俺は思わず笑ってしまった。
「あはは、ありがとね。
ロープで上に登って身支度を整えるだけだから、怒るなよ?。」
俺は野犬のすぐそばにあるロープへと、ゆっくり近づく。
野犬は目を閉じたまま、耳だけがピクピク動いている。
もしかして、俺が怖がらないように寝たふりをしてくれてるのかな?。まさか、ね。
俺は野犬に威嚇されたらすぐに離れられるように、野犬から目を離さず、ゆっくりと移動する。
野犬は動かない。
「じゃ、登るからね。怒るなよ?」
ロープにたどり着くと、野犬に声をかけて、それから登り始めた。
* * *
「はぁ~。」
無事に車に入れたことで、一気に気が抜ける。
腕時計の時間は、まだ午前9時にもなっていない。
俺が寝ちゃって、2時間くらいってところか?
取り敢えず汚れた衣服を取り替えよう。
ウェットタオルで身体を拭き、着替える。
着替えの際に見つけてしまった下着の汚れは、結論からいうと失禁ではなかった。
失禁ではなかったと言う事実だけ覚えておき、余分な発見物は無かったことにする。それ以上でもそれ以下でも無い!。無いったら無い!。
気を取り直して、俺は考える。
あの野犬、最初に会った時とは雰囲気が全然ちがう。
俺が縄張りを荒らしたことを怒っていたのなら、俺が出て行く意思があると伝えれば、良好な関係になれるのではないだろうか?。
本格的な準備があるわけではないから、俺の着替えもあと一式しかないし、水や食料だって、トレラン用一式分と、緊急避難用の車に置きっぱの3日分だけだ。
あんなでかい犬がいる山だ、クマや猪だっているかもしれない。
早く山を下りなければ。
「ウォンッ。ウォンウォンッ。グルルルルッ。」
野犬に呼ばれているような気がして、俺は車のドアから下を覗いた。
野犬は座っていて、尻尾を左右に揺らしながらこちらを見ている。
「お、怒ったのか?。」
野犬に問いかけると、野犬はそっぽを向いた。
「な、何だよ?、用事があるのか?。」
野犬は再びこちらに顔を向けると、なにも言わずに座っている。ふさりふさりと尻尾が揺れている。
「下に降りて来て欲しいのか?。」
野犬はこちらを向いたまま、動かない。
「俺のこと、喰う気なの?。」
野犬はそっぽを向く。
「ぶ、ぶふ。」
絶妙なタイミングで動く野犬に、我慢していたのに、思わず笑ってしまう。
「グルル。」
野犬は少し唸ると、不機嫌そうに尻尾をパシンパシンと左右にふって、また腹這いで目を閉じてしまった。
「ごめんごめん、おまえが俺を喰わないのなら、降りていくよ。」
「グルル。」
野犬は伏せたまま、尻尾をふわんと動かして、返事をしたように見えた。
ほんと、良いタイミングで反応が返ってくる。実は昔、飼い犬だったのかな?。
俺はそんなことを考えながら、ロープを手繰って、下に降りていった。
「おまたせ。さっぱりしたよー。」
俺は着地すると、ゆっくりと野犬に近づいてみた。野犬は先程と変わらず、身を伏せていて、耳だけがせわしなく動いている。
「おまえに、触れても良いかな?」
野犬の近くまで行き、触れる許可を取る。
「グルグル。」
野犬は動かず、返事を返してくれた。
「ありがとね。じゃあ、触るぞ?」
俺は膝を付いて手を伸ばし、銀色の体毛の首から肩の部分にゆっくりと手を添えると、そのまま毛並みにそって撫でてみた。
野犬は動かない。耳だけが相変わらずピクピクと忙しく動いている。
ひと撫でするとしっぽがふさりと動いた。
「ふふ、良い毛並みだね。」
艶やかな銀色の体毛は、あのとき感じたまま柔らかく、触り心地がとても良い。
あの柔軟剤に似ている良い匂いも仄かに匂ってくる。
「もふりたいなぁ。」
俺の一言に、犬は頭をがばりとあげる。
「お、嫌なの?。」
「グルル。」
肯定的な返事をするが、頭はそっぽを向いた。
ん?、もふって良いと言うことかな?
「分かりにくい奴め。」
俺は耳の後ろから首にかけて、ふさふさの毛の中に指を入れてモフモフと思うままにもふった。
「おまえってば、目の色が綺麗な金色なのな。やっぱりシベリアンハスキー系なのかな?」
俺の記憶の中のシベリアンハスキーは目の回りが隈取りみたいになっていて、目の色は水色っぽかったと思うんだよな。
野犬なだけに雑種だからだろうけれど…。このサイズ感はまじでビビる。
トラかライオンか、はたまたクマかってサイズであって、どうみても犬じゃないよなぁ。
「なんでおまえってば、こんなに大きいんだい?。
こんなにでっかいと、クマと間違われて人間に通報されたり、騒がれたりしたんじゃないのかい?。」
野犬からの返事はないけれど、もふもふしながら話しかける。
でも、銀色の毛並みは手入れされてるみたいにツヤツヤだし、栄養状態も良さそうだしなぁ。
それにしても、この感触…。
はぁ、癒される。もふもふもふ。
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