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ep.1
「なに、また終電コースだったの?」
「うん、まぁ」
オフィスのカフェルームで形状記憶がギリギリのところで皺を防いでいるシャツを着た真柴に同期の奥秋 は同情した。
「いい加減身体壊すぞお前。適当に手を抜けって、いくら頑張っても俺らみたいな入社2年目が上から評価されることなんて早々ないんだからさ〜」
「俺はお前みたいに器用じゃないんだ。手なんて抜いたらそれこそ次から何の仕事も回してもらえなくなる──」
は〜っと盛大に奥秋は溜息をついてみせた。
「もういいじゃん、ここらで婚活でもすれば?」
「何言ってんだ、俺は──」
「いいじゃん、楽になれば。無理して身体壊して子供の産めない身体になったらそれこそ勿体無いだろ。最悪妊娠したら養って貰えばいいんだし、わざわざ出世にこだわる必要なくねぇ?」
「奥秋っ、俺は──」
「──なんだったら俺が養ってあげようか?」
さっきまで辟易と呆れ返った声を発していた奥秋の眼からふっと冗談の色が消えた。
自分より10センチほど背の低い真柴の顔に近付き嫌みたらしく笑みを浮かべている。
「ふざけるなっ」
真柴が本気で声を荒げるより先に奥秋は近かった相手の顔から逃げた。
「ジョーダン、ジョーダン。俺が同期のお前に手出すわけないだろ。どんなけ一緒にここで苦い汁啜ったと思ってんの」
奥秋はコーヒーが空になった紙コップをゴミ箱に捩じ込むとさっさと背中を見せて出口へ向かった。
「俺はお前が羨ましいよ、栗花落。俺がΩだったらとっくにこんな会社辞めて金持ちの番でも探すね」
諦めたように言い放ち奥秋はカフェから姿を消した。二人の関係性からそれは嫌味でもなんでもないのは真柴も理解していた──。
それは互いのないものねだり──。
それなりに歳を重ねてそこそこ出世しながら定年まで社会人として生きていきたいとささやかな願いを持つΩの真柴と、出世して当たり前とされている期待の中それに負けじと歩かなければならないαの奥秋の──。
•*¨*•.¸¸☆*・゚•*¨*•.¸¸☆*・゚
真柴の勤める会社はそれなりに大手の広告代理店で、真柴はその中のマーケティングデータ部に所属しており、主に市場調査が彼の仕事だ。
そんな部内で上司から受けた指示に真柴は耳を疑った。
「メディア部のアシスタント? 僕がですか?」
「メディアにきたクライアント依頼が街の若者の特集みたいで、若い子の発掘に行くらしいんだわ。今何人か育休で人手足りないらしくてな。お前まだ若手だし、その辺のおっさんよか若いのと話通じるだろ?」
だからといってなぜ突然部署違いのメディア部の手伝いへ行けと自分にいうのか──。
肩を叩かれている気がして真柴はズンと頭を重くした。入社2年目が会社の命令に断れるはずもなく真柴は大人しくそれを受け入れた。
顔合わせのために4フロア下のメディア部に向かう。残業続きで疲れた頭が今日はさらに重く感じる中エレベーターはそんな真柴の憂いなどお構いなしに一瞬で扉を開いた。
普段入ることのないフロアーは完全なる異世界だ。スーツが基本の自分の部署とは違い、すれ違う面々の殆どは明るいカラーのオフィスカジュアルが基本で、首から掛けた社員証がなければ外部の人間なのか身内なのかの区別すらつかない。
「おー、真柴」
聞き覚えのある声に真柴は振り返った。
「夏目 さん……」
夏目と呼ばれた男の年齢は40半ばで、杢グレーのポロシャツに濃紺のドライのノータックパンツといった完全なる軽装だった。社内禁煙なのに胸ポケットには明らかにタバコの箱の膨らみが出来ている。
天然パーマの黒髪と伸ばしたままの口髭、その風貌はお世辞にも小綺麗とは呼び難い。
少し猫背になった背筋を丸くしたままズボンのポケットに片手を突っ込み、片手にはコーヒーカップを持っている。
「おー、久しぶりだな、少しは背伸びたか?」
親戚の子供に言うみたいに夏目は揶揄ってみせたが真柴は冗談に乗る気分ではないようで「もう伸びませんよ」とだけ軽く返した。
「──まさか夏目さんが俺を指名したんですか?」
「んー? まあな」
二人の出会いは2年前の入社式だった。社内報の編集兼カメラマンとして夏目が入社式や新入社員の姿をカメラに収め、その時まだまだ初々しくバイタリティに満ち満ちた真柴と出会った。
なんとなくその姿が目に止まって、夏目は真柴に声をかけ、取材に応じてもらった。
これからしたいこと、なりたい自分。耳が痛くなるくらいの汚れの知らない美しい未来を語る真柴に夏目は頼もしさよりも危うさを覚えた。
真柴が自分と同じβや、αであればそうではなかったと思う──だが、彼はΩだったのだ……。
危惧していた通り、あの時カメラに映った真柴はもうここにはいない。
あの嬉々として未来を語る眩しい笑顔とハリ艶のある赤く染まった頬は目の前の真柴からはすっかりなくなっていた──。
今は怒りすらその瞳には孕んでいる。
「どうしてっ」
「お前には直接人と接する仕事のが向いてるんじゃねぇかって思ってなぁー、一人で黙々とパソコンやデータに向かうより生身の人間と──」
「夏目さんにとっては単なる気まぐれな思いつきでもマーケティングから抜けてる間俺は出世から遠のくんですよっ」
「──出世したいのか」
「当たり前です、一生平社員なんて俺はごめんですよ」
「つまんない大人になったな、真柴」
真柴は夏目の意図していることが全く理解できなかったし、飄々としたその態度に苛立ちしか出てこない。βの夏目には理解できないんだと真柴は唇を噛んだ。
「外行くぞ、暑くなるからジャケットは置いていけよ」
「夏目さんっ、ちょっと……っ」
この異動が気まぐれなら今すぐ取り消して欲しいのに、夏目は真柴の気持ちを聞く気が全くないようでカメラバッグを肩からかけるとさっさとエレベーターホールへと歩き出した。
仕方なく着ていたジャケットをフリーアドレスの空き椅子に掛けてその後を追う。
夏目は行く先々で出会った青年たちに声を掛けた。デートやショッピング中の学生もいればバイト中のフリーター、ゲームセンターに屯する若者。相手がどんなだろうが夏目は臆することなくフランクに声をかけ、写真を撮っていいかと頼んで回った。
手伝いで呼ばれた真柴はその後ろを飼い犬のように着いて歩くだけで先ほどから誰一人とも口をきいていない。
会社近くのコンビニに辿り着いた時、真柴の足は悲鳴をあげていた。そもそも足を摺 り粉木 にするほど普段歩くことはまずないし、履いている革靴だって歩きまわるのに適したものではなかった。
それでも泣き言だけは決して漏らさず、必死に夏目の背を追って歩いた。
店の中のイートインコーナーで椅子にぐったりと凭れ掛かり、ペットボトルのスポーツドリンクを一気に半分まで飲み干すと真柴は肩で大きく息をついた。
会社出た時に明るかった外も既に陽が傾き、夕日のオレンジが空の色を変え始めていた。
視線を感じてカウンター横を見るとやけにニヤついた顔をした夏目と目が合った。
「──なんですか……」
「今日一日で随分老け込んだな、真柴」
「これ、後何日続くんです?」
「さて、今日帰ってデータ確認して、他の奴らが撮ったのと比較していいのがいれば……」
「あー!」
突然二人の間に一人の男の声が割って入る。
驚いた二人はその声の主を反射的に見た。そこで反応があったのは真柴だけだ──。
「傘の……子」
「傘の子?」夏目は一人、単語の意味を理解できない。
傘の子と呼ばれた男はあの雨の夜、真柴に無料 で傘を渡して走り去って姿を消したあの男子高校生だった。
「あの、あの時はありがとう。本当に助かりました」
慌てて真柴は立ち上がり彼に向かって正面を向いて頭を下げた。
「──なんで敬語?」彼は首を軽く傾げた。
「いや、だって……」
「ねぇ、それよりなんであの時泣いてたの?」
「え? いや、別に泣いてなんか……」
「えー、そうかなぁ? 俺には泣いてるように見えたんだけど」
彼の声はどことなく楽しそうだ。
全く話の見えない二人の会話に夏目は外野で眉間に皺を寄せて傍観している。
「ねぇ、なんで? 泣いてたの?」
一歩前に彼は進んで真柴の顔のそばギリギリにまで寄った。年下のくせにその背は明らかに真柴より大きくてその迫力にますます真柴の心臓は強く跳ねた。
──そしてその理由をすぐに理解した。
──この子……αなんだ……。
「本当に、泣いてない、から……」
彼の青グレーの瞳が吸い込まれそうに綺麗で、店内照明のせいでますますそれが宝石みたいに薄く反射して真柴には見えた。
「おい少年!」
二人の空気を完全無視して夏目は彼の横から無精髭の顔を近づけた。
「なんだよオッサン」
あからさまに剣呑な声と気配を纏った彼に真柴は驚いたが夏目にはもちろんそんなものは効かない。
「美人だなぁ! 写真撮らせてくれよ!」
「はぁい?」
「オッサンこのお兄ちゃんの同僚なのよ。今日はイケメンを探す仕事しててさー、少年頼むよ、一枚だけ! オッサンに写真撮らせてよ」
夏目は胸の前で手のひらを合わせて彼に懇願する。
「なんの写真だよ、素人DK専門のエロ本とか?」
綺麗な顔の彼からとんでもないワードがバンバン出てきて、真柴は思わず口が開いた。
「そ、そんなんじゃないからっ」
慌てて無意識に真柴もフォローする。
「へぇー? 怪しいけどなぁ。まあいいよ、そのかわりアンタがなんで泣いてたのかを教えてくれたらね?」
「んだよ面倒臭ぇなぁ、サッサと言っちまえ! 真柴」
「ましばっていうの? へー、かわいい名前だね」
年上を揶揄うようなニヤついた彼の表情にものすごく腹が立って真柴はペットボトルを掴むとさっさと店外に出た。
「おいっ、コラ! 真柴どこ行くんだよ!!」
「先会社戻ってます」
後ろを振り返ることなくさっさと進む背後で夏目は明らかに怒っていた。聞こえていたけれど真柴は一度も足を止めることなく会社まで歩いた──。
「──つまんないの」
残された彼は小さく呟く。
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