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ep.5
自前の円座布団に座る真柴を誰もつっこむことができないまま真柴はフリーアドレスに座り、書類に目を通しながら単調にキーボードを叩いていた。
夏目がそわそわしながら真柴のそばに寄り、何の真似なのかカフェオレをそーっと横から差し入れた。
「何の賄賂ですか?」
視線を画面から外すことなく淡々と真柴は夏目を刺した。
「賄賂だなんて人聞きが悪いなぁ〜真柴ちゃーん。オジサンは頑張る若者にお疲れ様の意味を込めてだねぇ〜」
ギロリと真柴の強い視線が夏目を捉える。
「そんなことより企画、どうなったんですか。上の最終選考は済んだんですよね?」
「あー、まぁ、そのなんだ。満場一致で──」
「キイチが選ばれたんですね」
「ご、御明算」
「で? 次は何です? 雑誌に出るように俺から頼んでくれですか?」
「えっ、真柴さんてばスゴーイ話が早ーい!」古いギャルみたいに夏目がわざとらしく声を高くする。
「お断りします」
「ええっ、頼むよ真柴ぁ〜っ」
「絶対に嫌です。俺を売るような上司の言うことなんて聞きたくありません」
夏目が必死に懇願するのを内心ザマアミロと舌を出しながら真柴は何食わぬ顔で何度も拒否してみせた。
だが、会社の人間として断れないことくらいわかっている。わかっていながらこんな目にあってしまった自分が情けなくて、少しでも夏目に八つ当たりたくて真柴はわざと意地悪してみせた。
真柴からの連絡にキイチは素直に応じた。
電話口で「モデルなんて興味ない」とあっさり断られたが、一回でいいからお願いしますと真剣に頼み込むとキイチは真柴に引け目があるのかあっさり陥落した。
会社受付に現れたキイチは相変わらず成人したサラリーマンにショックを与える爽やかすぎる学生服姿だった。それがものすごく今の真柴には堪えるのだが相手は素直に学校帰りの学生なんだから致し方ない。
「キイチ」
真柴の声にキイチは愛犬のようにパァっと顔を明るくした。
「真柴、元気?」
「ん、元気だよ」
身体のことを心配しているのだろうとその短い挨拶の中の意味も真柴には理解できていた。
「真柴こんなでっかい会社に勤めてたんだ。驚いた」
受付のある一階の高天井を見上げながらゲストパスを首から提げたキイチはやたらとご機嫌だ。父親の会社見学に来た小学生みたいだなと真柴は思ったがそれを言ったら確実に怒るだろうから黙っておいた。
エレベーターに乗り込み扉を閉めようとすると、「待って、乗ります!」と向こうから声がしたので慌てて開くとそれは外回りから戻った奥秋だった。
「おお、栗花落」
──ヤバい、と真柴は一瞬で冷や汗が噴き出る。
「奥秋、おつかれ。クライアントのとこ行ってたの?」
「まあね、今ちょっとデカイ案件に加えてもらっててさ、どうにかしがみついてる感じよ」
真柴より4フロア上のボタンを押してすぐに背後の視線に気づいて奥秋は振り返った。
ジッとキイチが奥秋を見ている。
「あ、えっと。この子は夏目さんが──」
真柴の説明が終わるより前に奥秋はキイチの胸ぐらを掴み上げていた。
「ちょっ、奥秋!」
偶然にも三人しか乗っていない空いたエレベーターの室内でキイチは勢いよく壁に背中を打ちつける。
「この匂い……コイツか、猿みたいに非常識なαのガキは」
「あぁ?」
突然の奥秋の乱暴にすでにキイチも臨戦態勢だ。青グレーの瞳が鋭く奥秋を睨みつけている。
「待って、奥秋っ、こんなとこで騒ぎにしないでよっココっ、会社の中!」
必死に二人の間に割り込んでどうにか奥秋からキイチを引き剥がそうと真柴は暴れた。
真柴の姿に少し冷静になった奥秋がキイチから手を離すとすぐに到着音が鳴りエレベーターの扉が開いた。
「奥秋。本当にちゃんと話すから、今は目の前の仕事だけを頑張って!」
逃げるように真柴はキイチを連れてエレベーターから飛び出していき、扉が閉まるその時まで奥秋はキイチを睨みつけたままだった──。
「なに、あいつ──」
キイチの声は完全に不機嫌だ。
「俺の同期、親友だよ」
「親友? あいつαじゃん」
「だったら何?」
それ以上言ったら許さないと真柴の顔に書いてあったのでキイチは大人しく真柴の後ろをついて進む。
夏目と班の社員にキイチを押しつけて真柴はトイレに行くからとその場を逃げ出した。
あれ以上不機嫌なキイチの面倒を見ていたくなかった──。
「ああもう──なんでこうなんの……」
真柴は廊下の突き当たりにある床まで伸びたFIX窓に頭を預けて深いため息をついた──。
簡易スタジオでデータ登録用の写真を何枚か撮影し、身体の採寸を終えたキイチは夏目に次のアポを強引に取らされその日はそのまま解放された。
受付まで真柴が付き添い、ビルの表まで一緒に出た。
「今日はありがとう。まだしばらく続くけどよろしくね。学業に支障が出そうなら言って」
「──ご飯行こうよ、真柴」
「俺はまだ仕事が残ってるから今日はだめ。あと急に家に来るのもなしにして。俺にだって都合がある」
「じゃあ先に電話する──」
「うん。そうして──」
真柴の右手をギュッと握りキイチは物欲しげな目を残して「バイバイ」と背を向けた。
その背中を見送ることなく真柴は足早に会社へ戻った。振り返るキイチを今は見たくなかったからだ──。
何度目の着信かわからない──。
キイチの電話をもう何度も気付かないふりしている。
結局奥秋には未だ何も話せていない──自分自身上手い言い訳が見つからないと言った方が正しいだろう。
夏目の抱える何本かのCMの仕事に従事しているとその忙しさのお陰で少しだけキイチのことを忘れることができた──。
キイチが次に撮影に来る日にわざと真柴は有給をぶつけたが、夏目は敢えて何も言わなかった──。
予定のない有給をソファの上に寝そべってぼんやりと過ごす──。
映画を見る気分でもなくて何分か流すだけ流してすぐに画面を消した。
天井を仰ぎながら真柴は深くため息をついた。
「こんなズル休みみたいな有給──奥秋だったら絶対取れないんだろうな……結局俺は都合よくΩにあぐらをかいてる……ホント……最低だ」
Ωにはどの会社にも義務制度としてヒート休暇があるが、真柴含め大抵のΩは抑制剤を使ってヒートをなくし他の社員同様出社していた。制度といえど休めば少なからず周りから嫌味を言われ、会社にいづらくなるのが現状だ。世間一般的にもΩの離職率は他の二つの性とは比べ物にならない。
無理矢理目を瞑ると少しずつ眠気が訪れ真柴は抵抗することなくそのまま眠りについた──。
翌日出社すると夏目はキイチのデータを大量に真柴に預けてきた。
クライアント向けの資料に作り直して清書するのが真柴に任された仕事だった。
画面を埋め尽くしたキイチの写真たちはどれも素人感がなくて撮られることに慣れている人間に思えた。
シンプルな全身白のセットアップコーデがやけに爽やかで真柴の知っている肉食獣の片鱗すらここには映っていない──。
──キイチに最後に会ったのはいつだったろう。
会社帰り、近くのコンビニが見えた時ふと真柴は思い出してしまった。
電話も無視して、仕事でも会わなくして──
キイチとの約束をすべて反故にした。
一度地面に視線を落として上にあげた次の瞬間真柴は驚いて目を見開き思わず声を出してしまった。
「キイチ──」
数メートル先にキイチが立っていた──その隣には髪の長い見知らぬ女子高生──。
「真柴……」
「え、誰? キイチの友達?」と隣の彼女は興味津々のようだ。
「そんなんじゃないよ……」
キイチの返事はごもっともだ。自分たちは──何者でもない。
「撮影お疲れ様──良い写真たくさん撮れてた。ありがとうね」
平然を装って真柴は大人らしく微笑んでみせる。
「別に──あれは夏目のオッサンとの約束でアンタのためじゃないから」
なぜかそのセリフに真柴は胸がちくりと痛んだ。なんて自分勝手なんだろうと嫌になる。
「あっ、このお兄さんもΩなんだ?」
突然彼女が明るい声であっけらかんと告げた。その言葉で彼女がΩであることを真柴も悟った。
「年上会社員とかヤラシー、キイチって本当に誰にでも手出すんだねー」
「誰にでも……」真柴は眉根を寄せる。
「人を雑食みたいに言うなよ、俺だって選ぶわ」
「またまた〜」
空気なんて気にしない彼女はやけにキイチとの距離が近く、ケラケラと笑いながらキイチの胸を慣れた指先で叩いている。その手が下へと滑り落ち、キイチの左手に絡むように繋がれて真柴は眩暈がした。
「──この人はなんとなくたまたま。でももういいわ、なんか面倒だし」
キイチは淡々と吐き捨てるとさっさと彼女の腰に手を回し真柴の横を通り過ぎて行った。
「おにーさんじゃあねー」と明るい彼女の声が無性に癪に障る。
だけど振り返ることもできないまま真柴はしばらくその場に立ち尽くした──。
「馬鹿みたい──主導権はいつだってあっちだったのに……俺は何を勘違いしてたんだろう……」
真柴は手で顔を覆ってそのまま空を仰いだ──。
──その夜は嫌な夢を見た。
夢の中でキイチは彼女に自分にしたのと同じことをしていた。
優しく抱いてキスをして、何度もその気にさせるような甘い言葉を耳元で囁やいた。
自分と唯一違ったのはキイチが彼女の首筋を噛んだことだ──。
「っ……!!」
うなされて目覚めた真柴の身体は嫌な汗でじっとりと濡れていた。張り付いた前髪をかきあげゆっくりと上半身を起こす。
視界に入った時計はまだ真夜中を差している──。
寝汗で濡れたパジャマが気持ち悪くて真柴はバスルームに向かう。
脱衣所の洗面台で鏡に映る疲れた顔をした自分と目が合った。
「誰にでも手を出す……か」
思わず失笑が込み上げる。
──俺はキイチのことなんて何も知らなかったのに……何を知ったつもりでいたんだろう。
キイチのことだからきっと相手がどんなでも気がつくし、賢いから気遣いも出来る。キイチにはそれくらい朝飯前なんだ──。
洗濯機に着ていたものを全て投げ入れて乱暴にバスルームのドアを閉めた。
冷たいシャワーに打たれながら真柴は肩を震わせながらペタリと床に座り込んだ。
「やっぱ俺は大馬鹿Ωだ──」
翌日、親友の奥秋を部屋に呼んで、真柴は洗いざらい話した。
途中一度も口を挟むことなく奥秋は最後までそれを静かに受け止めてくれた。
泣き腫らした顔の真柴の頭をいつもみたいに優しくポンポンと叩く。
「次は俺がまともで大人なαを紹介してやる」
「いらない──もうホント、懲り懲りだよ」
少しだけ真柴は笑顔を取り戻した。
「そう言うことを言う奴に限って嘘みたいにコロッと……」
「チョロいんだろ、わかったよ。頼むから二度と言わないで、俺だって学習くらいはするから」
二人はハイボールの入った缶で乾杯して真柴が酔い潰れて眠るまで呑み続けた──。
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