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ep.6

「おい、こら笑え」  夏目がキイチに向かって渋い声を出す。 「一万円くれたら一回笑ってやる」 「こんのガキャ〜! ギャラはちゃんと出るって言ってんだろっ、それが欲しくば今すぐ笑え〜!!」  夏目がキイチの顎に思いっきり力強く指をめり込ませたせいでメイク担当が背後で悲鳴をあげている。 「イッテェなっ、こんのジジイ!!」 「痛くなるようにやったんだ! 痛覚があってよかったな、健康な証拠だぞ」  二人の間に火花が見えるようだと周りのスタッフはヒヤヒヤしながらもそれを黙って見守った。 「──なんでそんなにあいつ(真柴)に拘る。お前だったら掃いて捨てるほど選び放題の人生だろうが」 「──別に、拘ってなんかねぇよ。ただ腹立つだけで」 「よくもαの俺様を粗末に扱ってくれたなって?」 「俺はそういう思想持ってねーから! こんなもんたまたま持って生まれたもんだろ」 「そう言えるのはお前がαだからだぞ」  夏目の痛い正論にキイチは一言も返せない。 「なぁ、俺ってイケメンだろ?」 「──自分で言う男初めて見たわ」夏目は目が半分に閉じかけている。 「イケメンだからアンタ俺を口説いたんだろ?」 「おい、なんか誤解を受ける言い回しやめてくれ」  キイチは夏目や周りの不穏な空気などお構いなしにそのイライラを止めることが出来ない。 「イケメンでαで……なんだよ。俺の何が気に入らないんだよ、俺が高校生だから? 若い男とヤれてラッキーくらいに思えば良いじゃん、なんなの、将来を誓い合ったαとじゃなきゃダメとかでも言うわけ?」 「お前に真柴はどう見えたんだよ」  夏目の大人な声にキイチは黙って視線を合わせた。 「イケメンαに簡単に尻尾振るΩにでも見えたか?」    キイチは再び視線を下げると小さく顔を横に振った。  マーケティングデータ部とメディア部との大きな違いは実際に有名人に会う機会が増えたことだと思う──。  それは単純に芸能人だったり、アスリートであったり文化人であったり、多種多様の著名人がスタジオに現れる。  夏目はその世界では有名なのか「また夏目さんとお仕事出来て光栄です」なんて言葉をしょっちゅう真柴は耳にした。  夏目班の皆が言うには夏目は本当ならもっと出世できていたのに現場の仕事を離れたくなくてずっとそのチャンスをわざと見送って来たという──。  出世欲を持った真柴には理解し難い反面、夏目と仕事をしていると夏目は本当に今の仕事が好きなんだと日を追うごとに身をもって知っていくのだ──。  夏目の仕事が一つ終わり、荷物の片付けを真柴がしていると隣のスタジオに大人数の女性アイドルたちが明るい笑い声で入っていくのが見えた。  そして、その中の一人に真柴は釘付けになる──。 「あ、あの子……」それは間違いなく先日キイチと一緒にいた彼女だった。真柴は一気に喉が渇く。 「真柴、重い物は他のやつに任せろよー? ギックリ腰になるぞー」  夏目が真柴の様子を見にやってきて、なぜか止まったままでいる不自然な真柴の目線の先を素直に見た。 「──なんだ、若い男の次は若い女か?」少し呆れた声の夏目に真柴は目を覚ましたのかいきなり怪訝な顔になる。 「若い男って──どういう意味です」 「ん? 俺なんか言ったか?」  夏目は内心しまったと思ったが、目を合わせたら絞め殺されそうなのでその視線は真柴からはずっと外れたままだ。 「夏……」 「やっぱ! あの時のおにーさんだ」  その声に真柴は身体を強張らせた。ゆっくり声の方に戻すと例の彼女が笑いながら近くまで歩いて来た。 「ましば、ってさっき聞こえて。あんまりない名前だから覗いたら本人なんだもん、びっくりしちゃった」 「──俺、も驚いた……。キミ……芸能人だったんだね……」 「残念。私もまだまだかー、まあこのくらいが丁度良いんだけどね〜」  彼女は自分をまだまだだと言ったが、そんなものは謙遜だ。たまたま真柴が詳しくないだけでそのへんの女子高生よりずっと垢抜けていて、整った顔の作りをしている。 ──キイチにお似合いの人だと真柴は素直に思った。 「キイチ……と、付き合ってるんだね」  その言葉に隣にいた夏目がギョッとする。 「付き合ってはない、かなぁ? うちら彼氏作るのはダメだし」 「え、でも」 「おにーさん、キイチはαだよ? そんないちいち一人のΩに拘らないって。キイチ言ってたもん、特定の恋人とか学生の時に作るのは面倒って。ちゃんと大人になってから番は見つけるってさ」  スタジオの中から彼女を呼ぶ声がして彼女は真柴に軽く手を振るとさっとと戻って行ってしまった。  残された真柴の青い顔色などお構いなしに──。 「真柴、なぁ、キイチはな──」 「すみません、俺……天川(あまかわ)さんに重い荷物頼んで来ます」  真柴は夏目にそれだけを告げると逃げるようにその場から立ち去った。  一人残された夏目は手のひらで額を抑えて天を仰ぎ、キイチのことを全身全霊で恨んだ。  真柴は天川に荷物を頼んで現場を撤収し終わると、一気に気分が悪くなり会社のトイレに駆け込みとうとう吐いてしまった。  胃が空になった身体でヨロヨロと手洗い場に立つと鏡には情けない姿の自分がいた。  生理的に出た涙で目も赤い──。  彼女の言葉が耳から離れない──。 「……情けないな、俺……。わかったふりして……いざ面と向かって言われるとこんな簡単にショック受けて……」  真柴は一気に襲って来た疲弊感に立っていられなくてその場にしゃがみ込んでしまった。  全く部署に戻ってこない真柴が心配で夏目は社内を探して回るが、携帯を置いたままいなくなった真柴を見つけることがなかなかできず、企業内医務室からの連絡でようやく居場所を知ることができた。 「──すみません……ご迷惑かけて……」  夏目はベッドに青白い顔で横になる痛々しい真柴を目を細めて見つめた。 「最近ちょっと忙しかったもんな、疲れが出たんだろ。気にすんな」 「夏目さん……」 「ん?」 「俺たちはずっとこのままなんでしょうかね……」  夏目は真柴が何について話しているのかすぐには理解できなかった。 「──使い捨ての何かみたいに……ずっとαに踏まれて生きていくんですかね……」  真柴の瞳は宙を泳ぎ、何かに視点を合わすことなくただ濡れて揺れていた。 「真柴、それは違うぞ! お前の母親はそんなこと言ってたか? 会社の連中や俺の友達だって幸せになってるやつは五万といる、お前まだ24だろ? これから死ぬまでに何人のαと出会うと思ってんだよ!」 「──もう、会いたくないです……もうこんな苦しい思い味わいたくない……もう嫌だ……」 ──こうなりたくなくて、俺はキイチから離れたのに……傷付くのが怖くて逃げたから、俺は罰を受けたのか……? 「真柴、自分のことをそんな風に蔑むな。お前は十分立派な人間だ。真面目で頑張り屋で、Ωだからっていつも同じ結末だなんて思うな。人生なんてのは自分次第だろ?」 「だと良かったんですけど……俺の足枷は簡単に外れないみたいです……」    一度も見たことのない真柴の絶望したその瞳に夏目はもう一声も発することができなかった──。  会社近くの公園の隅で真柴は2杯目のハイボール缶を開けた。  何も入っていない胃にアルコールは一気に回って、真柴は全身を赤くしながらハイボールを胃に流し込んだ。  すごく眠くて、身体を倒すと石でできたベンチが頬に当たって真柴はその気持ち良さにうっとりした。 「冷たい……」  我ながら情けないのはわかっている──  だけどもう何も考えたくない──。 「お兄さん大丈夫?」  サラリーマンらしき足が前に立っていて、泥酔している真柴に声をかけてきた。 「お酒飲んで寝たら危ないよ、タクシー呼ぶ?」 「大丈夫です……ありがとうございます……」  その人の優しさが嬉しくて、真柴は酔いながらも満面の笑みで答えた。 ──だが、すぐに男の気配が変わったことに真柴は気付いた。  男の手が真柴の太腿をいきなり(まさぐ)り出し、驚く真柴を無視してズボンの中に直接手を入れて来た。 「やめっ、なにっ……」  動くたびに頭がぐるぐるとまわり、男の身体がどこにあるのかもうまく見えない。手を伸ばして抵抗したくても力のない手が相手の肩に当たるだけで真柴は恐怖に身体を支配されはじめる──。 「──暴れたら……噛むぞ……」  男の低い声だけが耳にはっきり届く。  真柴の全身は石にでもなったみたいに固まってしまった──。  恐ろしかった──  初めてその恐怖を知った──。  下着ごとズボンを下ろされ、片足を持ち上げられた。  怖くて真柴はもう目を開けていられない──  爪が折れるほど石のベンチに指を突き立てて、ひたすらにこの恐怖が早く過ぎますようにと祈った──。  カシャ! と突然シャッター音がした。 「はい撮影完了〜。スーツ姿でチンコ丸出しのいいの撮れました〜」  聞いたことのある声に真柴は強く瞑っていた瞳を大きく開いた──  そこにはキイチがスマートフォンを片手に嘲笑しながら立っていた──。 「ガキッ! それ寄越せっ」  男は焦って真柴からすぐに離れ、キイチに食ってかかるがその間もシャッター音は何度もしていてその度にキイチは笑っている。 「なあ早くしまんなよそのフニャチン。もう十分堪能したって」 「ふざけんなヨォ!! クソガキがぁ!!」  激しい怒号に公園の外にいた人影がこちらに気付き、走り寄る。 「おい! そこ、何してる!!」  警官二人が現れたせいでサラリーマンの男はキイチどころでなくなり、慌てて逃げ出した。  数メートル先でバランスを崩した男はあっさり自爆し、警官に御用となっていた。 「……キイチ……」  顔中涙で濡れている真柴のズボンを直してやり、キイチはその頬を撫でた。 「危ないだろ、こんなとこで。アンタらしくない」 「……なんで助けたの……、俺のこと面倒なんだろ?」 「それとこれは関係なくない? 襲われてる人を傍観するほど俺は鬼畜じゃないよ」 ──そうだ。別に俺だから助けたんじゃない──。キイチは誰のことでもきっと助ける……あの雨の日にくれた傘みたいに……。 「そうだね……」  もう、やめよう。  キイチは誰にでも優しくて、特別な人は作らない── ──期待するのも、恋をするのも、もうやめよう。 「……キイチ、家まで送ってよ」

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