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anecdote.1

 真柴(ましば)は生後まもない我が子である大弥(だいや)を胸に抱きながら実家に遊びにやってきた奥秋(おくあき)にコーヒーを淹れる。  正しくは過保護な父が育児しながら慣れない家事をこなす息子(真柴)の火傷を恐れて買ってくれた全自動のコーヒーメーカーがあっという間に注いだものを真柴は出しただけである。 「どーぞー」 「ありがとう……って、は? え? 婚姻届は出したんだよな?」 「うん、籍は入れたよー。仕事上別姓のままだけど」      真柴は自分用にカフェオレを淹れてソファに戻ると大弥をCカーブクッションにゆっくりと寝かせ、奥秋のおもたせである有名洋菓子店の白い箱をにこにこしながら開けて覗いている。 「なのに……え?」 「このショートケーキ食べていい?」 「どれでも好きなだけ食ってくれ。いや、そうじゃなくて」  難解な表情を浮かべる奥秋とは裏腹に、ケーキ皿に大きな苺の乗ったショートケーキを出して真柴は呑気に口元を綻ばせている。 「だって、噛んだらもう終わりじゃん。俺もさー現金って言うか、妊娠した時はこれからどうしようってすごく悩んだんだけど、いざこの子産んだらまあ、いっかーって」 「まあ、いっかー……?」 「この子を産む時ちゃんと二人で話したし、真剣にキイチの意見も聞いたし、その時は納得してた。けどさ、やっぱ未成年のキイチに番を決めさせるのはまだ早いかなって改めて思ったんだ」 「いや、お前……それは……」  真柴のとんでもない発言に奥秋はぐったりして頭を抱えた。とてもじゃないが真柴が勧めてくるケーキに手をつける気にもならない。なのに真柴は他人事のように嬉しそうに苺を頬張りながらご機嫌だ。 「俺がキイチくんならへこむけどな──信用されてないって傷付くよ」  奥秋はαの気持ちをはっきりストレートに代弁した。 「うん、わかってる。キイチもショック受けてたよ。それにすごく怒ってた。でもさ、自分が19歳の頃にそんな人生の決断出来ただろうかって考えちゃうんだよね」 「相手の決意を確認できたから大弥くんを産んだんだろ? ちゃんと話し合って二人で決めたことだったじゃないか」  真柴はケーキ皿を一旦テーブルに置くと小休止に温かいカフェオレをゆっくり口にする。 「俺はさ、育児休暇で今は休んでるけどやっぱ仕事が好きだし、今でも大事だ。でもキイチはまだ社会の事を何も知らない学生で、将来何を目指すのかも決まってないんだよ。そんな子に俺とこどもを背負わせるのはなんだか酷かなあって」  ものすごく重い話をしている筈なのに真柴はどんどんとケーキを食べ進め、あと何口かで早くも一つ目を平らげそうな勢いだ。 「酷なのはお前だろ、キイチくんにとって二人は大切な家族じゃないか。一方的な重荷みたいに言うのはやめろよ。お前と大弥くんはちゃんと同等な存在なんだぞ。それをそんな風に言うのはおかしいだろ」 「俺は俺なりにちゃんとキイチのことが好きだし、愛しいよ。もしキイチが他のΩを選んだらものすごく嫉妬するしどうしようもないくらい恨んだりもすると思う。でもそんなのは俺にはどうしようもない事だから……」 「お前いい加減にしろよっ!」  奥秋が思わず感情的に声を荒げたせいで眠っていた大弥が驚いて目を覚まし、ぐずりだした。真柴は空になったケーキ皿を置いて大弥に優しく声を掛けながら抱き上げるとゆっくりと揺らして慣れた手つきであやしはじめる。 「ご、ごめん」  奥秋は青い顔をして動揺していたが真柴は微笑みながら大丈夫だよと声を掛ける。 「奥秋が怒るのはわかる。夏目さんにも怒られたし、俺の考えがおかしいんだってわかってる。でもね、俺はキイチがもう少し大人になるまで猶予をあげたいんだ。それにこれは俺のためでもあるんだ。俺は噛まれたら一生キイチの番で、傍にキイチがいなくなってもそれは終わらない。そんなの拷問だろ? 大弥がいる今、俺が簡単に壊れるわけにはいかないんだ」  真柴は酷く恐ろしいことを言っていると思う──。だが、真柴の恐れているものを奥秋は理解できないわけではなかった。  自分がαであるからこそαのプライドを勝手に傷付けられた気になっていたが、一番辛いのは必死に大人であろうとする母親になったばかりの真柴(Ω)なのだ──。  残酷な話、αはΩをいつでも切り捨てられるがΩが自らαを切り捨てることはできない──。それは惨憺たる呪いであり、己の命が果てるまで永遠に終わることはない──。 「二人のことに他人が口を挟むのはお門違いだったな──酷いこと言って本当にごめん……」 「ううん。奥秋の言ってることはごく自然な考えだよ。俺だって俺自身残酷な事をキイチに強いてる自覚はちゃんとあるんだ。だからそんなに謝んないで」  以前とは全く別の表情をするようになった親友が胸に抱いた大切な我が子をあやす姿を眺めながら、自分以外の守るべき命を持って出した苦渋の決断に、苦言を呈した自分を奥秋はひどく悔やんだ。 ──それほどに簡単じゃない。  二人の間にこどもがいるんだから番になって当然だなんて軽々しく言えない。  何よりも大切な存在があるからこそ尚更真柴は簡単に番にはなれない──。  母親になるというのはそういうことなのだ──。  だけど大切な親友だからこそ、目の前の幸福にただ酔いしれ、溺れることができない姿を見るのはとても悲しいことで──そんな胸に秘めた憂いを周りに見せることなく愛しい我が子に澄んだ瞳で微笑みかける真柴にしばらくは何の声もかけられなかった──。

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