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anecdote.2

 栗花落(つゆり)家に移り住んで生活を始めたキイチは、大学が終わるとそのままの足でほぼ毎日ペースで夜遅くまでバイトに励んだ。  それはまだ社会に出れていない自分が少しでも父親である責任として稼ぐためで、あまり育児にも参加できなくなって真柴や大弥と顔を合わす時間はとても減ったが、どうしてもそれだけは家族を持つ上で最低限譲れないことだった──。  今日もぐったり疲れて帰宅したキイチは極力物音を立てないように玄関ドアを開く。だけどどうやっても真柴には気配で気付かれてしまい、大抵は玄関の電気を先につけるのは真柴の役目だ。 「おかえり、お疲れ様」  今日も真柴は玄関の電気を先につけ、くたくたになった姿のキイチを労るように微笑んだ。 「──ただいま」  わかっていたけれど今日も失敗に終わったとキイチは心の中で白旗をあげる。  どんな夜中や明け方であろうとも、ほぼ三時間ごとに息子に叩き起こされる日々の真柴にはキイチの帰宅ごときでは動じない。ただ、それよりもそんな苛烈な生活を繰り返すキイチの身体が心配でならない。 「バイトあんまり根詰めないで。会社からちゃんと育休手当も貰えてるし、キイチは今しかない大学生活を楽しんだ方が良いよ。自由な時間もあと3年しかないんだし、卒業したら嫌でも働かなきゃいけない羽目になるんだからさ」  遅い夕食後のお茶を啜りながらキイチはテーブルの対面に笑顔で座る真柴に黙ったまま視線を合わせる。 「しつこいって思ってる? でもね、俺と大弥のことを考えるんだったらそれこそまずは学業。口がどんなに酸っぱくなっても言い続けるからね」 「──真柴が俺の番になってくれるなら今すぐバイト辞めるよ」 ──また始まった、と真柴は心の中でため息をつく。 「キイチ。今はキイチの話をしているの」 「それ、その自分は大人なんです口調やめて。マジでウザい」 「怒らせようとしても無駄だよ」  真柴は出会った頃とは全然違ってしまった。  大弥が産まれてからキイチなんて軽く吹っ飛ばせるくらい発する言葉に強さと重さが生まれた。絶対に自分は簡単に折れませんという気迫がそこには必ず潜んでいる。 「──なんでだよ、どうしたらいいの……俺には真柴だけだって何度も言ってるのに──」  真柴が簡単に折れないことをいい加減わかっているのにキイチは必ず逆らってはすぐに悲嘆する羽目になる。 「その言葉だけで十分なんだ。本当だよ。キイチだって番にならなくても俺がキイチから離れたりしないってちゃんとわかってるだろ?」 「そういうのとはまた違う……。俺はそんなんじゃ満たされない。αにはそんなんじゃ無理なんだよ。真柴にはわかんないだろうけど……そういうんじゃないんだよ」  キイチは子供みたいに駄々を捏ねて、ひどく苦しそうな声を漏らしながら俯くと、行き場のない苦悩を膝の上に置いた右手の拳に強く込めた。 「わかるよ、ちゃんとわかってるよ。キイチが俺のことすごく好きでいてくれることがわかってるから俺は大弥を産んだんだよ。今こうして三人でいる毎日も俺にはすごく幸せですごく大切なことだよ」 「もうそんなのいいっ、御託ばっかいいよ! 俺はそんな言葉なんていらないんだよ! 真柴の全部が欲しいんだよ!」  毎日繰り返される疲労と心の葛藤で限界を迎えたキイチが紅潮した顔で声を荒げた。慌ててその口を真柴が手で押さえる。 「大弥が起きちゃうから」  息子の夜泣きを毎回苦労しながら必死に寝かしつけている真柴が眉を下げて冷静に懇願する。だが、今のキイチにはそれすら苛立ちにしかならなくて口を押さえてくる細い手を乱暴に掴んだ。  つけっぱなしの電気も出しっぱなしの食器も全てお構いなしに、キイチはきつく掴んだ手を離さずに真柴を無理矢理連れて歩き出す。  怒った背中のキイチに真柴は酷く困惑しながらも我が子に起きてほしくない一心で、身体は抵抗はしつつも声は一切出さずに我慢した。  二人の寝室に真柴は引き摺られて入った途端、習性みたいにベビーベッドの息子へ視線をやった。大弥はまわりの物音にも全く気付かず安心して熟睡している様子だった。 「キイチ……ッ」  極力小さな声で夫の名を呼ぶが、キイチはもう何も聞く気がないようで真柴の肩を容易くベッドに押さえつけた。 「──噛んだら……許さないっ、本気だから」  真柴は怖いくらい真剣な瞳でキイチを睨みつけたが、キイチはまるで何も耳に届いていないようなぼんやりとした表情をしていた。その空気に真柴は嫌な予感を覚えた。Ωの本能が先に身体を動かしていてキイチから離れようと藻掻くがすでに手遅れだった。 「キイチ……ッ、やめて……っ」 ──この感覚を知らないわけがなかった。  Ωがαに一方的に支配される屈辱的で恥辱的で──人間としてのプライドを穢される……なのに絶対的に抗えない。 「きらい……嫌い……」  次第に全身から勝手に力が抜け落ちて、ボロボロと真柴の瞳から流れる涙が虚しくシーツを濡らしてゆく。  それだけが唯一残された真柴の人間としての抵抗だった──。 「俺は真柴しか好きじゃない──。真柴と大弥しか俺には要らない──もう何にも何にも他にはいらない──なのにどうして真柴は全部くれないの……?」  真柴の頬ではじけた雫は真柴から溢れた涙ではなかった。驚いて一際目を大きく見開いた真柴にはもう相手の表情を見ることは叶わなかった──。  優しく口付けられて真柴は抵抗せずにそれを受け入れた──。  大きな右手で自分の左手を絡め取られ、自然と素直に握り返す。  強く抱きしめられてキイチの体温が一気に高くなるのを感じた──。  もう、何にも抵抗する気にもなれなくて真柴は瞼を閉じて、自分が愛する男の香りがする肩を抱きしめかえした。

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