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9 葛藤
あれから、牧野とはしばらく会わなかった。あいつは俺を訪ねてこなかったし、俺もあいつを訪ねなかった。長期休暇中で本当に助かった。授業があれば否が応でも顔を合わせることになってしまうから。
そしてそのまま、部活の合宿が始まった。三年生は参加しないので、夏よりもずっと小規模になる。利用する宿泊所も簡素なもので、レジャー施設などは併設されていなかった。叡仁先輩、というか自分より上の学年がいない合宿というのは初めてだった。これからはこの寂しさに慣れていかなくてはならないのだ。
「藤井お前、一色先輩がいないからテンション下がってんだろ。一番よくしてもらってたもんな」
同期の男が言う。揶揄う調子ではなかったが、ちょうど叡仁先輩のことを考えていたので虚を衝かれたような気分になる。
「そんなことない。先輩がいてもいなくても、やることは変わらないだろ」
「そうだけどさ。あーあ、二年なんてあっという間だよなぁ」
「……休憩は終わりだ」
「次、組手だぞ。やるか?」
「望むところだ」
先輩達がいなくても、合宿は順調に済んだ。最終日は温泉に入って帰ってきた。
大学に戻ったそのままの足で、俺はあの十階建てのマンションへと向かった。ボストンバッグを斜め掛けにし、インターホンを押す。少し待っても音沙汰なく、部屋の灯りも消えている。もしかしたら留守かと思い、しかし一応ドアノブを回すと、開いた。不用心にも程がある。無言のまま玄関の灯りをつけ、靴を脱ぐ。
「あぁんっ」
ビク、と体が強張った。何だ。部屋の奥から、声がする。思わず息を潜め、忍び足で廊下を歩く。
「あんっ、あっ、いやぁんっ、イッちゃうぅっ」
酷く耳障りな、若い女の媚びた嬌声。そしてベッドの軋む音。何をしているのかなんて、わざわざ目にしなくたってわかる。あの金髪クソ野郎が、アダルトビデオなんかを見るわけがないのだから。
「んっ、あっ……――きゃあああっ!!?」
リビングに立ち尽くす俺の影に気づいたらしい女が、真っ黄色の悲鳴を上げた。毛布を手に取り、そのあられもない姿を隠す。女はきゃあきゃあ騒いでいるが牧野は全く意に介さず、白けたように溜め息を吐く。
「ちょっと伊吹ちゃん。オレ今お楽しみ中なんだけど」
「……勝手に楽しんでろ。俺は忘れ物を取りに来ただけだ」
「相変わらずつれないなぁ」
急用ができたからミホちゃんは帰って、などと酷いことをさらりと言ってのけ、俺のいる洗面所まで追いかけてきた。一応パンツは履いている。
「何を捜してるの?」
「……歯ブラシ」
旅行用の歯磨きセットだ。せっかく大事に使っていたのに、ここに置きっぱなしにしたまま合宿が始まったので、仕方なく新しいものを買って持っていった。
「歯ブラシね。確かこの引き出しに……ほら、あったよ」
はい、と手渡してくる。へらへらした笑顔を張り付けてはいるが、どうも思考が読めない。俺は奪うように歯ブラシを受け取り、バッグのポケットに仕舞った。
「これだけ?」
「……あとハンカチ……」
廊下をさっと人影が通り過ぎる。さっきの女だ。牧野に言われた通り帰るのだろう。牧野はパンツ一丁のまま玄関で見送る。俺もちらりと覗いてみたが、女はあからさまに不機嫌な顔で俺を睨んだ。当然の反応だ。
「ハンカチなら、たぶん押し入れの中だぜ。一緒に捜してあげるよ」
「あ、ああ……」
しかしこいつの反応は訳がわからない。勝手に部屋に入ってきたことを怒るとか、行為を見られて取り乱すとか、あってもいいはずだが。飄々として捉えどころがない。
ハンカチは、手分けして捜すまでもなくあっさり見つかった。牧野が見つけたのだが、手に持ったままなかなかこちらに渡さない。俺がハンカチの一端を掴んで引っ張ってみても、強く握って放さない。見つけるところまでやっておいて、今更どういうつもりだ。
「おい、返せよ」
「……返したら、帰るんだろう」
「決まってるだろ。二度と来ない」
「駄目だよ」
「はぁ? 何を言ってるんだ」
「帰るなって言ったんだ」
「だからどういう――」
綱引きの要領でハンカチを引っ張り合っていたのだが牧野が急に手を放したので、反動で俺は尻餅をついた。すかさず牧野が覆い被さってくる。が、俺だってそこまで鈍くない。何度も容易く組み敷かれては堪らないと警戒していた。牧野を軽く蹴り飛ばして素早く身を起こし距離を取る。
「今日は本気だね」
「お前とはもうしない」
「……どうしてそんなこと言うのかな」
「どうしてもこうしてもない。自分のしたことを忘れたのか」
「……伊吹ちゃんだって、楽しんでただろう」
「だから嫌なんだ! お前、俺のことが嫌いなくせに、どうしてあんなことをするんだ!」
同じ言葉がそっくりそのまま自分にも跳ね返る。俺はこいつのことが嫌いなくせに、どうしてあんなことをしていたんだ。
「そんなにしたいならさっきの女を呼び戻せ。俺を女の代わりにするな。結局本物の女の方がいいんだろ」
「聞き捨てならないな。女の子の代わりになんてしてないよ」
「してるだろ! だったらさっきの女は何だ!」
「ただエッチしてただけじゃないか」
「お前のそういうところが嫌いなんだ!」
なぜだろう。さっきの光景を思い返すと苛々してくる。熱心に女を抱く牧野の姿と、従順に善がり乱れる女の姿。絡み合う肢体、睦み合う唇、部屋に籠る熱気。
しかし、それが一体どうしたというんだ? こいつは元来女好きの遊び人なのだから、男の尻を追いかけ回すより余程自然な行いだ。俺からしたって、こいつが女を抱こうが泣かせようがどうでもいいはずだ。むしろ女に夢中でいてくれた方が助かるはずだ。それなのにどうして。どうしてこんなにも腹が立って仕方ないのだろう。
「そもそも女には不自由してないくせに、どうして俺をあんな風に使うんだ! 避妊しなくていいから楽ってことか? 都合のいい穴扱いか? どうせ俺は、お前が侍らせてるその辺のつまらない女の代用品なんだろ! したいなら女とすればいいんだ。これ以上俺に構うな。俺もお前が嫌いだ!」
自分でも驚くくらい、すらすらと言葉が出た。ただ、何を言っているのか自分でもよくわからなかった。嫌いだ、ともう一度声を張り上げて言うと、牧野は表情を曇らせる。かつて見たことがない、真剣に傷付いたというような悲痛の表情だ。こいつもこういう顔ができるのか、と変に感心した瞬間、黒いボストンバッグが顔面に飛んできた。
咄嗟に腕をクロスさせて身を守ったが、重たい衝撃に足下がふらつく。そりゃあそうだ、一体何日分の荷物が入っていると思っているんだ。これを投げ付けるなんて正気の沙汰じゃない。しかも一瞬の隙をついて距離まで詰められてしまった。体当たりで組み付かれ、背後にあったベッドへと縺れ合うように倒れ込む。こいつ、ここまで読んでいたのか。
「……前にも、言ったけど」
地を這うような、恐ろしく低い声だ。
「伊吹ちゃんはそこら辺の女の子とは違うよ」
「ち、違わないだろ、お前の中では」
「違うよ。伊吹ちゃんは違うんだ」
じゃあ何がどう違うのか、ということをこいつは言ってはくれない。
「もうしないとか、二度と来ないとか、そんなの絶対に許さない」
「なんで……」
「なんでもだ。君はもうオレのものなんだぜ」
「か、勝手なことを言うな! お前のものになった覚えはない! 俺はお前が嫌いだ!」
すると牧野は今にも泣き出しそうに顔を歪める。こいつが感情を素直に表情にのせるなんて珍しい。どうしてそんな顔をするんだ。さっきから妙なことばかりだ。俺はどうするのが正解なのか、わからなくなる。
「……ここでは嫌だ」
「……えっ?」
「ここでするのは嫌だと言ったんだ。さっきまで女とやっていたから……汚れてるだろ」
何を言っているんだろう、俺は。
リビングのソファに移動して、言われるままに服を脱ぎ、牧野の膝に跨って向かい合うように座った。体を撫でられながら、首筋や胸元にキスを落とされる。
「伊吹ちゃんは優しいな。誰にでもこんなに甘いのかい? 付け込まれるぜ」
優しくなんかない。ただ流されやすいだけだ。意志が薄弱なのだ。
「なぁ、本当、女の子の代わりにしているわけじゃないんだぜ。ただ、伊吹ちゃんがもう、オレのこと忘れてしまったのかと思って……学校がないから全然会わないし、SNSもブロックされるしさ。……だから、女の子としたっていいやと思ったんだ。だってそうだろう? オレって元々、そういうやつだったものな」
「……べらべらとうるさい。黙って集中しろ」
「そうだね、ごめん」
ローションに塗れた指がゆっくりと埋め込まれる。勝手に腰が浮く。久々の感覚に胸が苦しくなり、牧野の肩に齧り付いた。
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