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第12話

 吹き付ける冷たい海風に身をすくめ顔を上げると、遥か彼方を悠然と流れていく東京湾沿いの夜景が見えた。ビル群の窓の無数の明りがまるで星みたいだ。それが暗い水面に映って、そこにも星が散っているように見える。  その人工的な美しさに、清はしばし見惚れる。あのきらびやかなネオンの下の片隅の片隅に、自分が生きていたことが実感できない。こうして離れた場所から見ると、遥か遠くに存在する別の宇宙のようだ。  食事を終えた恋人達がパラパラと甲板へ出始めている。恥ずかしくなるほどくっつき合い、ときに瞳を見つめ合って、夜景にかこつけ絆を深めている。  清は人のいない舳先の方へ移動し、手すりに両手をかけた。背中から体をすっぽりと抱くようにして、追ってきた月峰の両手が清の手の外側の柵を掴んだ。 「ちょっ……おまえ、人が……」 「飛び込まれないようにしないと」 「と、飛び込まねーよ」 「ホントに?」  口調の深刻さに胸が騒いだ。やはり月峰は、今日清が死のうとしていたことに薄々感付いていたのだ。 「もう絶対、一人でどこか行かないでよ。俺今日君に出ていかれたって思ったとき、目の前が真っ暗になった。君がいなくなったら生きていけないよ。そんなことになったら、すぐに俺も死ぬから」  この船にどれだけの恋人達が乗っているか知らないが、きっと今一番情熱的な言葉を向けられているのは自分ではないのだろうか。赤くなってしまっているだろう頬を隠すように、清はあわてて俯いた。 「君と一緒に暮らし始めて、それまで知らなかったいろんなことがわかった。君がホントは兄さんを好きなこと。 それまでの綺麗でちょっとお高くとまってるイメージと違って、すごく一生懸命で我慢強くて意地っ張りで、とても寂しい人だってこと。ホントの君を知って俺はますます好きになった。君に好いてもらえなくともいいから、せめて君の心のクッションになりたいと思ったんだ」  背中が温かい。海風の冷たさはもう感じない。 「ホントはずっと、君がぶたれて痛い思いするたびに、相手のヤツを殴りにいきたかった。でも俺は意気地なしで、臆病で、ただできることは君のその傷を癒してあげることくらいだ。だからせめてこれからも、そうしてあげたい」  背中から清を囲い込む腕が狭まる。逃げ場をなくされ、優しい腕に体ごと囚われる。 「俺、もっともっと、君にとって必要な人間になりたいんだ。君は今までどおり自由に生きてていいよ。俺はただ君の近くにいて、君が笑える手助けをしたいだけ。何も求めたりしないから……お願いだから、君を守らせて」 「そ、そういうの俺、困るから」  声が震えているのが自分でもわかった。  自分のことは自分で守る――物心ついたときから、清はずっとそうしてきた。誰かに守ってもらおうなんて思わなかったし、実際誰も守ってはくれなかった。両親も兄弟も馴染み客も、誰一人。愛し合っていると信じていた頃の五代でさえ、清が守る方の側だった。 「ホントに、困るから……」  月峰が黙っているので不安になって繰り返した。緊張で冷え切った両手に、月峰の大きな手が重ねられる。乱れた生活で荒れた手にゴツゴツしたマメだらけの手が重なるのは、きっと傍目からはひどく不恰好で滑稽だろうが、合わさればとても温かい。 「ごめん、君が困っても俺、そうするから」  心の中で、知らない誰かに謝った。もしも自分がいなかったら、月峰と結ばれる運命だった誰かに。まともな生活をしている、月峰に相応しい誰かに。  拒まなければとわかっていても、振り払えない手。  たった今気付いた。すべてを失ったと思ったとき、心の中にただ一つ残った光は、このぬくもりだったということに。 『君がいなくなったら生きて行けない』  月峰はそう言った。清も、生きて行けない。  今の自分に残されたのはこの温かく力強い手だけなのだと、清は初めて自覚した。そして残されたそれはあまりにも手離し難いもので、清が明日を生きていくためにはどうしても必要なものだった。  ビルのネオンを映した偽物の星は宝石みたいに散り輝いていたが、見上げた空には、やはり本物の星は見えなかった。

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