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第15話
明らかに五代のものではないベンツに乗せられ、明らかに堅気でない運転手と助手席の男に睨みをきかせられながら、20分という短い時間が永遠にも思われるドライブを終え、車から降ろされた。ゴミゴミした雑居ビルの階段を、五代と助手席にいたチンピラ風の男に両腕を取られながら引っ張られていく。
気は強いが、図太いわけでも肝が据わっているわけでもない。むしろ本当はびびりな清の心臓は、ネジがはずれたようにドキドキしてくる。
「なんなんだよ、これっ? どこつれてくんだよ」
虚勢を張って突っ張っても、ドスのきいた声で「黙ってろ」と恫喝され、震え上がって口を閉ざすしかない。車内でも終始その調子で、五代からろくな説明を聞くことができなかったのだ。
「清、心配すんなって。こちらは俺の知り合いの方で、ちょっと話に立ち会ってもらうだけだ。大体、俺が一緒にいるのに何びびってるんだ? バカだな」
必死で猫撫で声を作る五代の額にもうっすらと汗が浮き、顔色は心なしか青ざめている。
そもそもなぜ五代と清の別れ話に第三者が介入するのか。以前の五代を盲目的に信じていた清なら、彼の大丈夫の一言で安心しただろうが、今は違う。不安はどんどん高まり、膨れ上がる鼓動で全身が破裂しそうだ。
無味乾燥な古びた扉をチンピラ風が、「失礼します!」とびっくりするほど礼儀正しい挨拶とともに開く。
「おら、入れ」
乱暴に背を押され、五代と一緒に部屋に押し込まれた清は一瞬で縮み上がった。
一見どこにでもある事務所だが、正面に飾られた代紋と、その下の『飯山会加藤組』の3文字が、どう楽観的に見てもそこが普通の会社などではないことを表している。
応接セットの右ソファには腕に刺青を入れたスキンヘッド、左側にはパンチパーマのサングラスと、いずれもステレオタイプのヤクザそのものの男達が陣取っている。2人は清を不躾にジロジロ眺め回し、下卑た笑いを浮かべた。
正面のデスクに座ったスーツ姿の年嵩の男が、強いて言えば一番まともに見えたが、その眼光を見れば平凡なサラリーマンのものではないことは一目瞭然だ。清もウリ時代に極道の客を取ったことはあるが、その男が格下ではないそれなりのクラスだと、隙のない冷えきった目を見てわかった。
「で? 五代さん、その坊やかい」
おそらくは加藤組の組長だろうその男は、言葉遣いこそ下っ端に比べ丁寧だが、背筋が凍りそうな冷ややかな声で言った。五代は見るからに震え上がり、あろうことか盾に取るように清の背中を前に押し出す。
「は、はいっ! どうです加藤さん、上玉でしょ? これでも昔は1日30万稼いでたんですよ」
加藤はまったく感情のない目で、清の頭の先から足の先まで値踏みするようにザッと見る。レーザー光線を当てられたような恐怖感が、背筋を這い上る。
「悪かないが、痩せだな」
と、淡々と感想を口にし、硬直して声も出せない清と視線を合わせた。
「兄ちゃん、おまえさん、その五代さんの男なのか」
「えっ?」
とんでもないことを言われ、思わず五代を見返した。
「ええ、そりゃもう! こいつは私にベタ惚れでして。私のためなら何でもしてくれる可愛いヤツなんですよ。ねぇ加藤さん、私もこいつを献上するのは胸が痛いんですよ? そこんとこお察しくださいよ」
「黙ってな」
加藤は空気が凍り付く氷点下の一言で、ぺらぺらしゃべる五代を黙らせる。
「どうなんだい、兄ちゃん」
「な、何? どういうこと?」
情けなく震えていたが、とにかく声が出た。
「なんで俺ここに連れてこられたの? さっぱりわかんないんだけど」
「聞いてねぇのか。その色男がな、おまえさんのことを詫び代わりに、貢物として差し出すって言ってんだよ」
言われたことが全然理解できなかった。
「詫び……?」
ただ呆然と問い直す。
「ああ。身内の恥を晒すのも忍びねぇが、俺の妹がそいつにひっかかっちまってな。小麦粉練ったようなイカサマ化粧品売りつけられて顔はボロボロ。しかも財布の金は根こそぎそいつに持ってかれて、手首切りかけたのよ。まぁバカな妹だが、世話になったからには兄貴として俺も礼をしねぇとな」
事情は大方わかった。五代がいつものプレイボーイぶりを発揮して商売した女が、たまたまヤクザの身内だったということだろう。
「な、なぁ、清、わかっただろ? ヤバいんだ。この俺の最大の危機なんだよ! おまえ、もちろん助けてくれるよな? ほんの1年、いや、半年、この加藤さんのところで稼いでくれればいいんだよ。お勤めさえ終われば、俺が最高のご褒美を用意して待っててやる。そしたらまた、2人で贅沢して楽しく暮らそうぜ」
必死で耳元に語りかける囁きが、今は不快な蠅の羽音にしか聞こえない。全身が怒りと失望で急速に冷えていく。
この男は一体何を考えているのだろう。確かに自分は愚かで頭がいいとはいえない。それでもここまで馬鹿にされ踏み付けにされて、まだ騙され言いなりになると思っているのなら大間違いだ。
「黙ってろや、色男。俺はその兄ちゃんと話してるんだ」
凄味のきいた声に、ほとんど清にしがみつきそうになっていた五代はあわてて口を閉じる。
「どうなんだい、兄ちゃん。そいつのために、うちで働くか?」
加藤の爬虫類を思わせる冷たい目が、まっすぐ清に向けられる。
「俺……確かにこいつとできてた」
我ながらびっくりするほど冷え切った声が出た。もう震えてもいない。
「こいつのこと、すげー好きだったときあった。俺バカだし、騙されてたのかもしんないけど、こいつ俺に優しくしてくれたよ。金、あったときは」
最後の一言に、みじんも表情を変えなかった加藤が少しだけ眉をひそめた
「だから、あんたの妹さんのこと、ホントによくわかるってか、気の毒だったと思う。お兄ちゃんのあんたが怒るのも無理ないよ。けど……」
清はぎゅっと両方の拳を握った。
「俺、あんたの店で働けないから! だって俺、今別の男がいんだもん! すげー大事なヤツができたんだもん!」
きっぱり言い切って自分で驚いた。そうか、月峰のことを自分はそう思っていたのかと、言葉にして初めてはっきりと自覚した。いつからかわからないけれど、きっともう随分前からそうだったのだ。
未練がましく追っていたのはただの幻。虚飾に目を眩まされた過去の遺物。偽りの愛は消え、目が覚めると、そこには真実だけがあった。すぐそばにあったたった一つの大切なものが、クリアになった瞳に見えてきたのだ。
怖いやくざに睨まれて、暴君である五代にも反抗して、びびりな清が今しっかりと、自分の気持ちを告げている。
脚はまだ震えている。ヤクザの怒りを買って、このまま五代と2人コンクリート詰めにされ、東京湾に捨てられたらどうしようとガクガクしている。
それでも勇気を持てるのは、傷付いて帰っても癒してくれる相手がいるからだ。怖かったよとしがみつけばその胸で泣かせてくれ、頭を撫でてくれる相手がいるからだ。
ずっとそばで見守っていてくれた、優しい男の笑顔が浮かんだ。急に、会いたくなった。ねこちゃん、と温かい声で呼びかけてほしかった。大きな胸にくるんでギュッと抱き締めて、安心させてほしかった。
帰りたい。月峰のところへ。狭いが温かい二人のアパートへ、今すぐ飛んで戻りたい。
「俺そいつのためにも、これから自分のこともっと大事にしたいんだよ! 今までバカだったから、俺、いっつもそいつに悲しい思いばっかさせてたけど……これからは、俺……俺っ……」
興奮しすぎて目が霞んできた。でも、今すぐ言葉にして吐き出してしまわなければ、心がパンクしてしまいそうだったのだ。
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