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ep.2

「ただいま!」  アーチボルドが元気よく引き戸になった玄関を開くと、中から「おかえりー」と明るい女性の声が返ってきた。  靴をきちんと揃えてスリッパに履きかえ、廊下のすぐ手前の明かりが漏れているリビングの障子を開いた。 「おかえり、アーチー」  台所でエプロン姿で立つ温和な笑顔の女性は、60歳になる手前のアーチボルドのホストファミリー兼、日本の母親代わりでもある紫乃(しの)さんだ。  ほとんど白髪になった髪は綺麗に後ろでまとめられ、いつも清潔感のある人だった。  今は大きな丼を片手に、アーチボルドのために炊飯器を開けて白米をよそっている。 「師匠はお風呂だね?」  アーチボルドはうがいと手洗いを済ませ、ダイニングの椅子を引きながら、リビングに姿のない父親代わりでもある空手の師匠が今どこにいるのかを言い当てた。 「夕飯を食べたらあなたも入りなさい。練習で疲れてるでしょ?」 「うん、ありがとう。いただきますっ!」  アーチボルドは手を合わせて紫乃に微笑むと、大きく口を開けて肉の塊を頬張った。  アーチボルドは風呂上がりで湿った髪のまま、机に向かって和英辞典片手に、大学の教科書と自分が講義中に取ったノートの言葉の意味合いがあっているのかを細かくチェックしていた。  一番難しいとされる、日本語能力試験N1を取得したアーチボルドではあったが、それでも細かなニュアンスの日本語や、日に日に生まれる流行語や俗語、略語、漢字などは今でもすぐに理解するのは難しい。  シックスフォーム、日本でいう高校から今までの4年間、ひたすら勉強に励んだものの、金銭的な面から殆どが独学で覚えた日本語は、アーチボルドの望む完璧と呼ぶにはまだ遠い。 「日本人の恋人でも作ればどうだ」なんて師匠は簡単にぬかすので、師弟関係がなければ危うく袈裟固めの一つでもかけているところだと、自分の心をセーブさせるのに大変だった。  日本人学生の倍以上脳味噌をフル回転させて必死に復習するものの、部活動の疲れと重なり急に襲ってくる睡魔には抗えず、アーチボルドは大人しくベッドに入って電気を消した。 「恋人なんて俺にはいるものか──」  誰に伝えるわけでもなくひとりごちるとアーチボルドは長い睫毛を伏せてあっという間に深い眠りについた。  アーチボルドが中庭のベンチでひとり読み耽っていた小説からふいに栞が抜け落ち、風に乗って芝生の上に舞った。  拾おうと腰を上げた瞬間、先に長い腕が栞を拾い上げようとしていた。  その手の持ち主の顔を見て、アーチボルドは脊髄反射なのか勝手に眉間に皺が寄ってしまう。 「なんだよ、別に盗んだわけじゃねぇぞ」  栞を片手に柊一は怪訝な顔のアーチボルドに不満を吐き捨てる。  一言も返事のないアーチボルドに日本語がわからないのかと思い、柊一は英語で繰り返すが、アーチボルドはそれを半ば遮るように「日本語でわかる」と告げると、さっさと返せと言わんばかりに手をさし出した。 「拾ってくれてありがとう」  ありがとうとは全くもって正反対のその表情に、自分自身で気付いているのだろうかと柊一は若干呆れたが、望み通り素直に栞をアーチボルドの手のひらに置いてやる。 「お前──Ωなんだな。まあその全身から溢れ出るメス猫みたいな警戒心ですぐにわかるけど」 「──お前には関係ない」  柊一のいやらしい含み笑いがアーチボルドには堪らなく不愉快だった。その失礼な言動にも腹が立つし、わかりやすいαのマウントに反吐が出そうだ。 「関係ないなんて寂しいこと言うなよ。Ωだったらαって存在は重要だろ? いいがどうかとか、金持ちか、顔はイケてるか、とかさ」  もう何も聞きたくないらしく、アーチボルドは再びベンチに腰を下ろし、小説に目を落とすと、わかりやすく柊一の存在を遮断した。  さすがに柊一も露骨でぞんざいな扱いが頭にきたのか、相手の承諾も得ずにアーチボルドの座るベンチへ肩が当たるくらいの近距離で隣に座った。 「ふーん、中島敦? 渋いな〜。ていうか日本文学なんて将来一体なんの役に立つの?」  ギロリとアーチボルドが澄んだ青い瞳で一瞥すると、柊一は再び自分に意識を戻したことに気分を良くしたのか、大きな口をニヤリと引き上げて歪ませた。 「お前すっげー綺麗な目してんな、透き通ってて、まるで宝石みたいだ。肌も青白くて日本人の女とは全然違う……マジで綺麗──。なぁ、俺の女になる? 俺と付き合えばなーんでも望み通りにしてあげるよ?」  柊一がアーチボルドの全身を品定めするみたいに雄の顔をして一通り眺め、その口から下品な言葉の数の限りを尽くすと、アーチボルドの顔に触れようと手を伸ばしかけた瞬間、柊一は遊園地のアトラクションにでも乗ったみたいに身体が突然浮き上がって、視界が回るとあっという間に目の前のアーチボルドは姿を消し、目の前にあるのは眩しい太陽とどこまでも広がる青い空だった──。 「いってぇ……っ」  受け身も取れずに芝生で打ちつけた後頭部と背中はガンガンと痛み、強烈すぎて耳鳴りすらする。  あまりの一瞬のことすぎて柊一は自分に何が起こったのか全く理解できずにいた──。  182センチある長身が簡単に宙を舞い、今はそのへんの落ち葉みたいに芝生に大の字になって伸びているのだ──。  自分を投げた張本人が上からゆっくり顔を覗かせ、柊一の顔に影を作る。  逆光の中でもアーチボルドのはっきりと整った顔のつくりはきちんとわかった。  その美しい顔のつくりとは裏腹に、アーチボルドはまるで鬼のような形相で、心の底から憤っていることが柊一にも伝わる。氷かのように澄んだ青い瞳は軽蔑を濃く孕んだ色をして柊一をきつく睨みつけている。 「次に会ったらお前を殺して魚の餌にしてやる」  どこで覚えたのか、そんな恐ろしい言葉を置き土産にアーチボルドは柊一の前から完全に立ち去った。  アーチボルドは後悔していた──。  それは決してあの失礼なαの男に殺害予告したことなどではなく、有段者の自分が素人相手に手を挙げたことにだ──。 「師匠に叱られるな……平手で100発殴るくらいに留めておけばよかった……」と、全く留められていない怒りに反省しながら唇を噛んだ。  師匠に叱られるのを覚悟しながら今日あった出来事を素直に告白すると、紫乃が横から激昂した。 「いいのよっ、そんなこと反省しなくて! その男の大事な部分でもへし折ってやればよかったくらいだわ!」  いつも物腰の柔らかな紫乃の怒った姿を一度も見たことがなかったアーチボルドは、これ以上はないくらいに目と口を開き、完全に固まってしまっていた。  思わず夫である師匠の喜勝(きしょう)は赤い顔で怒り狂う紫乃を必死に宥め、茶でも飲んで少し落ち着くよう勧めた。 「まあ、有段者のお前が素人に手をあげたことは決して褒められたものではないけれど、もしお前が私の目の前で誰かに軽んじられることがあれば、私も同じことをしてしまうかもしれないな……」 「そうよ! 可愛いうちのアーチーに指一本でも触ってごらんなさいっ、私が毎日綺麗に研いでる出刃包丁で……っ」 「落ち着いてっ」と、アーチボルドと喜勝は声を揃えて紫乃の暴走をどうにか制止する。 「人として間違ったことをしたのは相手なのだから、お前だけが反省することはないよ。お前のことだから無意識にでも手を抜いたのだろうし、私は親として贔屓目もあるかもしれんが、今回は痛み分けだと思っているよ」  喜勝は優しく微笑むと、不安そうにしているアーチボルドの頭をポンポンとゆるく叩いた。  いつもなら寝付きの良いアーチボルドだったが、その夜は違っていた──。  眠っても眠っても何度も昔の夢にうなされては目を醒ます──。  いい加減これは夢なのか現実なのか、次第にわからなくなり始めていた──。  夢の中の自分はまだ幼くて、細い足首に大男の力強い手が何度も伸びてくる。  家の中のどこに隠れても大男は必ず自分を見つけ出し、恐怖で動けなくなった自分の体を簡単に引っ張りあげてはケダモノみたいに恐ろしくいやらしい笑みをつくり、アーチボルドの小さな体をおもちゃのように弄んだ。  アーチボルドが必死に暴れても、泣き叫んでも大男はただ小さく笑うだけだった。  しつこく泣き続けるアーチボルドに次第に腹を立て、まだ幼いその顔を殴りつけては黙らせる。  大男は常に非道な暴力で、アーチボルドの全てを押さえ込んだ。  何度目かの繰り返された悪夢に、アーチボルドは全身にひどい汗をかいて現実世界でまた目を醒ました。  繰り返される悪夢に怯えるアーチボルドは安眠を求めることを諦め、血の気の引いた顔色でベッドに座ったまま壁にもたれ掛かり、そこから一度も熟睡することなく朝を迎えた──。

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