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ep.3

 翌朝、リビングに現れたアーチボルドは酷い顔色をしていた。  多少体調を崩すことはあっても、そこまであからさまな姿を見たことのなかった紫乃は弁当を作る手を止め、慌ててアーチボルドの傍へ寄る。 「どうしたの、アーチー。どこか具合が悪いの? 酷い顔色だわ」 「……大丈夫。あんまり寝付けなくて、どこも悪くないから、大丈夫だよ」 「とても大丈夫そうに見えんぞ。無理するな、人間しんどい時はゆっくり休むべきだ。お前はいつも頑張りすぎてる。たまには休みなさい」  喜勝は普段からアーチボルドを少し厳しく指導しすぎてしまったのもしれないと自省した。 「本当に大丈夫。少し貧血なだけだから、二人ともそんなに心配しないで」  アーチボルドは青い顔色に不釣り合いな柔らかい笑顔を作って二人を安心させようとするが、その気を遣った笑顔にかえって二人は渋い顔をした。    だが、アーチボルドは過去にも、非道なαにも、決して屈したくないのだ──。  異常な脳の疲弊のせいで、講義に全く集中できない自分に憤りながら、どうにか脳が覚醒するようにとアーチボルドはブラックコーヒーを一気に飲み干した。  元々コーヒーは苦手だった。ほぼ黒に近いあの色味も鼻に残る強い匂いも、アーチボルドにはこの美味しさがどうもわからない。  目覚めたい一心で極力味わずに空にしたアルミ缶をゴミ箱に入れ、校内のカフェテラスで人気のない奥側の空いた席にぐったりともたれかかる。 ──気持ち悪い……。  慣れないコーヒーのせいもあったが、そろそろ近い発情期をアーチボルドは悟った──。  熱っぽい首筋に手を当てうんざりしながらテーブルに頭を乗せた。  その顔の真横に強い力で手のひらが落ちてきてテーブルを叩く。  いきなりのことに驚くアーチボルドは背中から手の主に体重をかけられ、物理的に動けなくなった。 「──昨日はどうもお世話になりました」  頭のすぐ上からするその低い声は、昨日自分が投げ飛ばした相手のものだった。  首元近くに男の吐息が当たり、思わず寒気がする。 「いい匂い──ヒートが近いんだな」  夢の続きを見せられている気分になり、ますますアーチボルドは身体が硬くなるのを感じた。 「……また……、投げ飛ばされたい、のか……」  どうにか声にできたが明らかに震えるその声を聞き、柊一はニヤリと背後で笑った。 「ふーん。お前、俺が怖いのか。強がったところでお前も所詮Ωなわけか──、なぁ溜まってんなら俺が相手してやってもいいんだぜ?」  節高い指で首筋から肩のラインをなぞられ、アーチボルドはもう声すら出せなくなってしまった。 ──殺してやりたい。  この男を殺したい、俺を使い捨てのメス扱いしてくるこの男の喉を掻っ切って、身体中を切り刻んで──許してくれと泣き喚くまで……。 「な〜んてな、って……おい?!」  全く反応のなくなったアーチボルドに気付いた柊一は慌てて身体を退かすが、アーチボルドは机に突っ伏したままそのまま気を失ってしまっていた──。 「おいっ、嘘だろっ、おい!!」  柊一は悪趣味な自分の嫌がらせに一瞬で後悔していた。  血の気の引いた顔でアーチボルドの細い肩を何度も揺らすが、当の本人は白い顔をさらに白くさせて額に汗を滲ませたまま全く反応を示さなかった──。  心地よい柔らかな風が時より前髪をかすめて、アーチボルドはゆっくりと瞼を開いた。  見たこともない白い天井──そのまま横に下ろした視界には白衣を着た女性が立っていた。 「起きた? 気分は大丈夫そう?」  アーチボルドは少しして、彼女が大学の医務室に常勤している看護師であることを思い出した。  看護師の横で大きな体を極力小さくしながら丸椅子に座っている柊一が、ひどく申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ている。  その姿に気付いた瞬間、アーチボルドは色のない朦朧とした表情から一気に黒い憎悪の表情へとスイッチさせた。 「あなたたち喧嘩でもしたの? 彼があなたをここまで運んできたのよ、覚えてない?」 「……全然……」と、ぶっきらぼうにアーチボルドは答えたが、ゆっくりと起き上がった自分の胸元から柊一の匂いがして、彼が自分をおぶってきた事実を想像してしまい、ますます嫌な気分になってしまった。  着ていてるシャツの胸元を握りしめながらアーチボルドは異常な喉の渇きを訴え、看護師から水の入った冷えたペットボトルを受け取ると、ほとんど一気にそれを飲み干し、ボトルの底にはあるかないかの気持ち程度の量が残った。  講義をサボるのはアーチボルドにとって至極不本意ではあったが、これ以上体調を誤魔化すことは限界だと悟り、大人しく帰ることを選んだ。 ──喉の渇きが治らない。  嫌な予感がする……と、アーチボルドは気が気でなかった。  どうにか重い体を持ち上げベッドから降りようとすると、上手く足に力が入らず、バランスを崩して転びそうになった。慌てて看護師が手を伸ばすが、それよりも早く柊一の手がアーチボルドの体を支え、強い力のお陰でアーチボルドはきちんと立つことが出来た。  そのせいで必然と柊一の顔も体もアーチボルドに一層近くなる。 「俺に触るなっ!」  助けてくれた本人にお礼すら言うことが出来ないくらいに、アーチボルドはもう限界に来ていた。 ──早くここから立ち去って、家に帰りたい。  あの安全な場所に早く戻りたい。  紫乃さんや師匠の優しい笑顔に早く癒されたい。   早く、早く──    柊一を跳ね除けようと伸ばした手は宙を掻き、誰に当たることなく落ちると共に、アーチボルドは突然柊一に唇を奪われ、目を大きく見開いた。  その舌を噛み切ってやりたくて、アーチボルドが抵抗するも簡単に舌は捕まり、噛み切るどころが乱暴に中を犯され、強く吸い上げられた。  腰の力が抜けてアーチボルドはベッドに崩れるように尻をついた。 「何やってんのよ、病人にっ」  柊一の突然の奇行に看護師が呆れて間に割って入ろうとするが、柊一は看護師を鋭く睨みつけると、天井が割れんばかりの声で咆哮した。 「ここから出ていけ!!」  地響きのように柊一の声は部屋に木霊して、看護師はいきなり虚な瞳になると、感情のない人形のようにノロノロとドアに向かって歩き出し、一言も発さずに外から鍵をかけて姿を消した。  一体何が起こっているのかアーチボルドには理解できなかった──。  ただわかることは、皮膚がチリチリと焼けそうなほどに強烈で異様な、形容し難いオーラを全身から放つαが、Ωの自分を捕食せんとばかりに殺意に似た鋭い眼で見下ろしていることだけだった。

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